十五話 脱出
「あんたは脱出の準備を整えろ」
運転手のほうへ歩きながら、剥岩さんはそう指示を出す。私は無言で頷くしかなかった。
彼の肩越しに一本のナイフを受け取る。片手で持てるほど軽いはずなのに、それはズシリと重たい。
「…………」
私の前を歩く剥岩さんの背中。この背中にナイフを突き立てれば、致命傷とまではいかなくても、彼の動きを封じることはできるだろう。
だが、そうしたところで状況は好転しない。私が不利になるだけだ。ここから出られるかもしれないという希望はおろか、私の人生をも断たれることになる。
悔しいが、剥岩さんに協力する以外の道はなかった。
「剥岩さん。あなたはいつでも運転手と戦える状態でいる、若しくは戦う。そういうことですよね?」
「ああ」
そう確認すれば、緊張しているのか、短い返事が返ってくる。剥岩さんは振り返らず、ただ前だけを見据えていた。
「……ゲームじゃないんですよ」
「あんたもしつこいな。死んだら死んだ時のことだろう。とっくに覚悟はできてる」
随分と勝手な答えだ。だが、それも今さらというもの。私だっていい加減、覚悟を決めなければ。どのみち、運転手との戦いは避けられない。生きるか死ぬか。それは、私達次第だ。
急に立ち止まった背中に、ああ、もう着いてしまったんだと思った。
「……いよいよだ」
わくわくしているような。吐息と共に吐き出された剥岩さんの声は、そんな表現がぴったりだった。
ゲームの中で強敵と対峙し、自分の体力は間もなく尽きる。そんな場面で相手を倒せた時の達成感。彼は、現実世界でそれを味わいたいんじゃないだろうか。
剥岩さんはポケットからナイフを取り出し、逆手に構えた。
「ナイフ、終わったら寄越せ」
「……はい」
窓枠に残ったガラスを柄で取り除く。それがこのナイフの仕事。その先は、私の仕事だ。
目標へと慎重に近づく。作業をするためには、運転手のすぐ傍で屈まなければならない。油断は禁物。万が一、足首でも掴まれてしまえば一巻の終わりだ。
「信用はしませんからね」
「好きにしろ。ただし、裏切りは重いからな」
「……わかってます」
私は精一杯の笑顔をつくった。偽物の笑顔を。舞台経験はないけれど、上手くできたのではないだろうか。
視界の左端には、未だ伏したままの運転手の姿。ほんの少し距離を取り、いつでも逃げられるように腰を浮かせる。
下側に残ったガラスに柄を打ちつけると、それはポキリと折れるように割れる。思っていたよりも簡単に処理できたものだから、面食らってしまった。おそらく、他の部分が割れたことで脆くなっていたのだろう。
窓の端が地面と近いため、寺院の敷居を跨ぐように運転室へ行くことができる。だが、全体の面積が狭いのだ。そのため、注意して通らないと、体にガラスが触れてしまう危険があった。
割る部分を最小限に、そして安全であることを確認してから、私は剥岩さんにナイフを返す。
「…………」
剥岩さんは運転手に目を向けたまま、ナイフを受け取った。
昨夜や今朝の騒々しさが嘘のように、運転手は沈黙していた。嵐の前の静けさとはこんな感じだろうか。なんだか、嫌な予感がした。
私は剥岩さんとは違う。できれば戦いたくないし、叶うことならこのまま死体でいてほしい。
「……コイツ、気持ち悪いぐらい静かだな」
ぼやく剥岩さんの声を背に、私は運転室へ入った。固定された濃灰色の座席、操縦装置、血に染まったフロントガラス。そして頭上には、外へと通じる扉がある。
壁に右手をつきながら、座席の背柱に上がる。その幅は三、四センチメートルほどしかない。様々な物がひしめいている運転室。落ちれば、打ち身程度では済まないだろう。
空いた左手で扉の近くにあるスタンションポールを掴み、右手でそれを追う。身長が百五十ほどしかない私だが、背伸びをせずとも届く高さである。腕をピンと張る必要もなく、疲労することはなさそうだ。
あと少し、あと少しだ。横目に確認するが、運転手はまだ起きない。早く扉を開けて、ここから出よう。
剥岩さんのことなんて知ったことか。先に脱出してしまえば、こっちのものだ。“裏切り”などという脅しに騙されるほど、私だってバカじゃない。元の生活に戻りさえすれば、私達が一緒にいる理由など無いのだから。
音を立てないように内鍵を回し、座席よりも高い位置にある四角い機械に右足をかける。それはなんとか片足が乗るくらい小さなもので、ここからは己の腕力と脚力に頼るしかないようだ。よいしょと力を入れようとした、その時だった。
「うわっ!」
剥岩さんらしからぬ、驚いた声。
思わず振り返れば、運転手の腰が僅かに浮いていた。前方に伸ばされた、血まみれの腕。その先端から伸びているのは、刃物のように鋭い爪。私が襲われた時には無かったものだ。
推測するに、運転手が薙ぐように腕を振ったのだろう。剥岩さん目掛けて。
遅かった。運転手は目覚めてしまったのだ。急な事態に、心臓が早鐘を打つ。早く、早くここから逃げなければ。
眼下で、火が灯るようにゆらりと立ち上がる運転手。彼の目標は、剥岩さんただひとりに定まっている。
――神様、お願い、お願いだから、運転手が振り向きませんように……!
私は焦った。指が震えて、体が震えて、思うように力が入らない。早くあの機械の上に体を乗せなければならないのに。早く扉を開けなければならないのに。体は言うことをきかない。
その時、一番聞きたくなかった声が私の耳を打った。
「結城! あんたまさか、逃げる気じゃねぇだろうな!?」
終わったと思った。私は無意識のうちに息を止めていた。
グギギ、と壊れたロボットのようにおそるおそる振り返った先には、すっかり息の上がった剥岩さんの姿。彼と対峙する運転手は――。
「……っ!」
その瞳に、私をとらえていた。




