十四話 目的 ※
※ 気持ち悪い描写を含みます。ご飯時にはご注意を ※
グロテスクな描写及び暴力表現を含むため、苦手な方はご注意ください。
「……うぅ……」
「とっとと起きろ」
疼くような痛みに突っ伏していた私を再び蹴ったのは、その声の主だった。
「ふ……っ」
お腹にズシンと重く響いた衝撃。意図せず顔が歪んだ。
――向こうで話そう。
剥岩さんのその言葉を聞いて、全力で首を振りながら嫌だと言った私を、彼は容赦なく蹴った。そして、私は引きずられるようにして一両目へとやってきたのだ。
この体勢のままでいれば、彼はまた私を蹴るだろう。それだけは嫌だ。痛みをこらえながらなんとか立ち上がると、彼は嘆息した。
「……最初から素直に従っておけばいいものを」
まったく、その通りだった。
顔を上げれば、思いのほか天井が近くにあることに気がつく。
視界に映るのは、あの運転手。彼は昨日と同じ所でうつ伏せに倒れていた。もし襲われたら、足元にあるこの個室に逃げ込もう。
先の見えない恐怖。震える手足。鼓膜を打つ拍動。吐息さえもバイブレーターのように震える。
いつでも逃げられるようにと引いた爪先に、何かぬるりとしたものを知覚する。視線を下ろせば、そこには赤黒い血塊が絡みついていた。
「……っ!」
それだけじゃない。視界の端に、灰白色のぷるぷるとした物体が見えた。あたりを見回せば、それらは車内の壁際に小山をつくっている。一見すると豆腐のようだが、大量発生した蛆のようにも見えるのだ。せり上がってきた液体に、のどが焼けるのを感じた。
咄嗟に口を覆う。臭いがしないから気がつかなかったが、一体なんなんだ、これは。
「……アイツの体液……いや。違うかな」
剥岩さんは私とは対照的だった。むしろ、この状況を愉しんでいる。
ジャムを指でこそげ取るように奇妙な物体を掬い、観察する。その表情は、好奇心旺盛な子供のようにキラキラとしていた。
「剥岩さんっ! 何やって――」
「そうか、脳味噌か」
「は……」
剥岩さんは私の言葉を遮り、至極当然のことに気がついた、とでもいうように呟いた。そして指についたそれを払うと、こう付け足した。
「死人の脳味噌。そんなとこだろう」
これが全て脳味噌だというのか。だが、言われてみればそうだと気がつく。昨日、運転手に襲われた時のことだ。彼の頭から垂れた液体は、確かにこんな色をしていた。
運転手の何らかの動作により、脳味噌が飛散した。だが、妙な違和感が残る。
「……なんかこれ、投げつけたような……」
どうも脳味噌は投げつけられた後、壁を伝って下に落ちたようなのだ。その証拠に、それぞれ小山の真上を中心にして伸びたり潰れたりしたものがへばりついており、油を垂らしたような跡がある。
「……確かに。妙だな」
私達は顔を見合わせ、息ぴったりに運転手のほうを見る。彼は相も変わらず伏しており、昨日のように動く気配は微塵もない。
「……気が変わった。一か八か、やってみようか」
隣で、剥岩さんがぼそりと呟いた。
「……? 何をですか?」
「ここから出るんだよ。あんたの提案通りにな」
「!」
脱出なんて無駄な悪足掻き。推測を理由にそう言った剥岩さんだが、考えを改めたようだった。
幾度も潰された希望の芽が、再び頭を擡げた。と同時に、暗雲が立ち込める。
「……なら……あなたの目的をちゃんと聞かせてください」
ひとりよりもふたりのほうが、心強いし楽だろう。もちろん協力してもらえるのは嬉しいが、肝心なことを忘れてはならない。彼の目的である。ゲームが好きだと言われても、その言葉の真意がわからない。
それに、運転手に襲われる可能性だってある。どちらかが臨戦態勢でなければ、背後からふたり揃って殺されてしまうかもしれないのだ。
私の不安など知る由もなく、剥岩さんはさらりとこう言った。
「ああ、ゲームがどうとかって話か。それならそのままの意味だよ。難関なゲームほど、燃えるってもんだろう?」
「……っ?」
彼の瞳は輝いていた。
思考を巡らせると、少しもしないうちに結論へと辿り着く。
――……まさか。まさか、彼はこの状況自体をゲームだと言っているのか……? 殺されると決まった運命を難関だと言っているのか……?
つまり、他の乗客は。私は。――そんなふざけた話があるものか。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「それじゃああなたは、自分の娯楽のためにこんなことしたって言うんですか……? 自分が愉しむためだけに……!」
「そうだよ」
彼の紡いだ四文字の言葉はあまりにもあっさりとしていて、私の左耳から右耳へするりと抜けていく。ゆっくりと温まっていた血は、一気に沸騰した。
「人が死んでるんですよ!? 何人も! あなたのくだらない理由のせいで……!」
「そうだなぁ……それは運が悪かったな」
「……っ」
私の言葉が剥岩さんに響くはずはなかった。本性を現してからというもの、頻繁に見せるようになった笑顔がそこにある。
ここは、ゲームの中なんかじゃない。紛れもない現実だ。プレイヤーも敵も無限に命があるような、そんな世界とは違う。
剥岩さんは、わかっているのだろうか。死というものを、命というものを。命はひとつ。死んでしまったら――。
「いいだろ、別に。ここが非科学的な空間なら、俺達はともかく他の乗客は助かってると思うけど?」
「だからそれはあなたの推測だって……!」
「そうだな。だけど仮にそれが外れてたとして、何か問題でもある?」
「あるに決まってるでしょう! あの人達皆、二度と生き返らないんですよ……!?」
あまりにふざけた物言いだ。やっぱり、剥岩さんは何もわかってなかった。他人の命を何とも思っていない。だからこんなことができたんだ。
じわりと涙が浮かんだ。悔しくて、哀しくて、許せなくて。他の乗客の命は、私の命は、剥岩さんただひとりのために弄ばれた。
剥岩さんは、面倒そうな色を顔に浮かべている。ポケットに手を入れ、何かを確認すると、彼は段差から飛び降りた。
「……私はやりませんよ」
ついていけない。こんな人と協力したら、私は真っ先に運転手の餌食になってしまう。そして彼は、私を助けることなくひとりでここを出るだろう。
剥岩さんの背中に声をかけ、私は踵を返した。だが、その瞬間、何かが擦れるような音が微かに聞こえた。続けざまに硬質な音が響く。数時間前に聞いたばかりのそれに、私は身を竦ませた。
音のしたほうへ目を向ければ、切れたスカートの裾、前方に転がるナイフ。ごくりと息を飲んだ。
「……言ったよなぁ、使えないタダ飯食らいは要らねぇって。俺はあんたをいつでも殺せる」
背後から聞こえたのは、低くゆっくりとしたそんな声。
吐き出した息が震えた。まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、不規則な音が繰り返される。
ほんの少し顔を動かし、目だけで剥岩さんの様子を窺う。彼の視線はこちらに向けられていた。
「あんたに拒否権はない。……来い」
革靴の音。近づく気配。個室の扉がミシッと悲鳴を上げる。振り返れば、剥岩さんの姿はすぐ近くにあった。
彼は、問答無用で私の手首を掴んだ。
「いやっ、離して……!」
ここでこの手を振り解かなければ、私は運転手の前に引きずり出される。剥岩さんは、きっと私を盾にする。私だけが、ここから脱出できない。
綱引きをするように後方に体重をかけ、空いた手で剥岩さんを引き剥がそうとした。だが、彼は私の抵抗などものともしない。どちらが優勢なのか、火を見るよりも明らかだった。
その時、足に違和感を感じ、私の体はふわりと宙を舞った。何が起こったのか理解する間もなく、下へ落ちる。
「……っ!?」
私の体は強く叩きつけられた。背骨が軋むような衝撃に、一瞬息が止まる。ガツンと頭部に走った衝撃に、意識が霞んでいく。
沈むような、ぼんやりとした空間の中で、誰かが私の肢体に馬乗りになるのがわかった。
次の瞬間、額を切った鋭い空気。靄を掻き分けるように、それは私に迫ったのだ。一気に晴れた視界に映るのは、キラリと光るその凶器。
「……!」
「ほら」
その距離僅か数ミリメートル。眉間の真上で寸止めされたナイフは、私を萎縮させるには充分だった。
「……行こうか」
数秒ほど私の顔を眺めていた剥岩さんは、やがて満足そうに笑った。




