十二話 少女X
薬物摂取の描写を含むため、苦手な方はご注意ください。
「どういうことですか……?」
意味がわからない。
運転手は、言うなればゾンビだ。まさか、ゾンビが意思を持って動いたというのか。そんなはずはない。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと剥岩さんは立ち上がり、視界の向こうへ消えていく。後方で響いた革靴の音はすぐに止まり、代わりに、カチカチという耳につく音が聞こえてくる。
やがて、ゆっくりとした足取りで戻ってきた彼は、うつ伏せのままでいる私の目の前に音の正体を置いた。
「ほら、これ」
それは、開閉式の黒い携帯だった。画面に映し出された怪しげなサイトが目に飛び込んでくる。
真っ黒な背景の上で踊る、赤や黄、青といったカラフルな文字。電波が入っているのかと思ったが当然圏外で、どうやら画面メモに保存されているもののようだ。
何処か胡散臭さの漂うそのサイトの見出しには、列車の呪いと書かれている。都市伝説か何かだろうか。
「読んでみろ。俺の話はそれからだ」
剥岩さんに言われるがまま読み進めたそれは、私を絶句させるには充分なものだった。
◇◆◇
時は遡る。昭和四十年頃のことだ。
壁は剥がれ、柱は錆びだらけ。今にも壊れそうな集合住宅の一室にそのカップルは住んでいた。十八歳になったばかりの二人は互いを深く愛しており、結婚の約束までしている。
彼らはその名を、金城妙子、村上一郎といった。
二人の家は貧しく、幼い頃から苦労が絶えなかった。洒落た洋服屋に行けば、ここはお前の来るところじゃないよと追い出され、食べるものを探して街を徘徊すれば、貧乏人はこれでもすすっていろと泥の入ったバケツを投げつけられた。
そんな日々の中、二人は出会った。
崖から身を投げようとしていた妙子を、一郎が止めたのだ。思えば、それが全ての始まりだった。
同じ日、同じ時に、同じ場所で、一郎もまた、自殺を図ろうとしていた。これは運命なのだと思った。そして、目の前で今まさに飛び降りようとしている彼女を止められるのは、自分しかいないのだと。
一郎は己の過去をさらけ出し、この世の非情と絶望を説いた。そして、希望をも。
「僕も死ぬつもりでここに来た。けれど、たとえ僕が死んだところで、世間は僕のことなんぞ気にも留めないさ。世界は明日も変わらず回り続けるだろう。人々は明日も変わらず笑い続けるだろう。
僕らを貶した奴らを、蔑んだ奴らを、見返さぬまま死ぬのは悔しいじゃないか。死んだとて、どうせ話題にも上がらぬ僕らのこと。ならば、もう少し足掻いてみないか? 互いに貧しいけれど、手を取ればきっと幸せになれるさ」
境遇の似た二人は次第に惹かれ合い、やがて恋に落ちた。そして、愛を知った。
自分の名前を呼ぶあなたの声に心がほっこりしたり、あなたの笑顔を見ただけで疲れなど全て吹き飛んでしまったり。着飾れなくとも、美味しいものを食べられなくとも、綺麗な家に住めなくとも、あなたと共にいるだけでほんの些細なことがこんなにも愛しく思える。今まで一緒に育ってきた景色が、違って見えた。
今日も明日も明後日もその先も、そのずっとずっと先も、こうして隣を歩くのはこの人なのだと思っていた。
そんなある日のことだった。
二人だけの結婚式を翌週に控え、準備に追われていた妙子は、電話がかかってきていると大家に呼び出される。当時電話は貴重なもので、貧乏な家庭では、近所の商店や大家に貸してもらうのが一般的だった。
電話の相手は、今朝仕事へ出かけたばかりの一郎だった。妙子は顔に喜びの色を滲ませ、弾んだ声で応じる。だが、それとは裏腹に一郎の声は沈んでいた。
僅かな沈黙の後、大好きな彼の声は、大嫌いな言葉を吐いた。
「別れてくれないか」
受話器を置いた妙子は、その場に泣き崩れた。
一郎は、一番ひどいやり方で妙子を裏切ったのだ。浮気である。一代で富を築いた屋敷の聡明で美しい娘に見初められ、既に夜を共にしたのだと言う。そして、婿になるのだと言った。
生涯、君だけを愛し続けると誓ったのに。所詮、金の前では愛など脆いものだったということだ。
妙子は、行くあても無いまま部屋を飛び出した。気がつけば、馴染みの商店街に辿り着いていた。
簡素な看板を掲げた建物が遠くまで連なり、通りには多くの人が行き交っている。小花柄をあしらった明るい色合いのワンピースを着た女学生。スーツにハットを被った紳士。前掛けの先で子と手を繋いで歩く若い母親。人の波を潜って駆けていく、坊主頭の元気な子供達。はにかみながらも女性をエスコートする、初々しい青年。彼らの顔には笑顔が満ちていた。ここは、活気と幸福に溢れる街だ。
妙子はひどく浮いていた。埃を被ったように色褪せた小豆色のワンピースは、くたびれていて、継ぎ接ぎだらけである。彼女の顔は、深い哀しみに縁取られていた。
「お嬢さん、これ、買うのかい?」
商店街の端にある店の主人が、屈託のない笑顔を見せた。
妙子の目の前には、いつの間にか農薬の入った小瓶がひとつ。
「農家さんは大変だよなぁ。だけどこれなら、除草にはもってこいだよ。ひとつでいいのかい?」
「……ます」
ぼそりと呟いた妙子の言葉は、雑踏の音に掻き消された。なんだい、と聞き返した主人に、彼女は声を振り絞って叫んだ。
「それ、買います! ください!」
「……あ、ああ……」
どんよりと沈んでいた表情からは想像もつかぬ怒声に近いそれに、主人は驚いて目を見張った。
来月の生活費に充てるはずだった金を全て放り、奪うように取った小瓶をポケットにねじ込むと、彼女は店を飛び出した。
「ちょっとお嬢さん! 書類に印鑑!」
背を追いかけてきたその声を振り払い、妙子は走った。とにかく走った。往来を歩いていた人々は、次々と道をあけていく。妙子が目指す場所はひとつだった。
底の擦り切れた靴越しに足を刺す砂利。冷えた空気。黄土色の緩やかな上り坂を進んでいけば、やがてその場所へと辿り着く。道の途切れたところに立てば、そこは地上六、七メートルはあろうかという崖になっている。眼下に広がるのは、蒸気機関車の通る線路。――あの日、最愛の人に自殺を止められた場所だ。
妙子は、不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、胸のすくような心地だった。
目をつぶり心を落ち着けると、穏やかに吹き渡る風が黒髪を撫で、首筋を擽っていく。そっと目蓋を開くと、さざ波のようにじわり、じわりと憎悪が押し寄せてくる。その双眸に浮かぶのは、真珠のように美しい涙。
「許さない……」
それは、ボロボロになった手さげの中を探るまでもなく現れた。紋付袴を着た男の子と白無垢を着た女の子の対になった小さな人形。幼い頃に街のゴミ溜めで見つけたものである。
妙子は、ふたつの人形の首を絞めるように握った。節くれだった指の先に鋭く光る爪は、彼女の掌を抉る。やがて、ポロリと捥れた人形の首が哀しい音を立てて地面に落ちた。
「こっちはあたしを裏切ったあの男……こっちはあたしからあの男を奪った泥棒猫……幸せそうにしているのが憎い……呪ってやる……呪ってやる……呪ってやる……!」
ブツブツと怨みがましく言った妙子は、ポケットから農薬の入った小瓶を取り出し、呷った。パラコートである。
パラコートとは除草剤で、当時、塩素塩二十四パーセント濃度の液剤であった。
十八歳以上であり印鑑さえあれば買うことのできたそれは、発売から十数年の年月が経った頃、劇物から毒物へとその名を変えた。
直後、強烈な吐き気が妙子を襲った。胃の奥底からこみ上げてきた熱いそれに口元を押さえた彼女だったが、それも一瞬、悪事に手を染めた人間が快楽に嗤うような、そんな表情を浮かべた。口端から吐瀉物を滴らせながら。
そして、そのまま意識を失った。支える力を失った体は、崩折れるように崖から転がり落ちる。
妙子は、線路の上へ真っ逆さまに落ちていった。偶然か、線路の向こうに見えたのは、煙を吐きながらこちらへ走ってくる汽車。妙子の体がその車体と衝突するのは、必然であった。
◇◆◇
それから数十年の時を経て、都市伝説が生まれた。
金城妙子が死んだ線路を走る汽車または電車に乗車したカップルは、絶望を味わわせられたのち、彼女に殺される、と――。




