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十一話 再来 ※

 剥岩さんは、もう一方の手をくいくいと動かして私を呼んだ。

 どういう風の吹き回しか。嘘ばかりついていた彼が、まさかそんなことを言い出すとは。思わず拍子抜けしてしまったが、すぐに我に返る。そんなバカな話があるものか。ナイフを握っている時点で、信用などできない。


「……それ、下に置いてください。じゃなきゃ行くわけないでしょう」

「……刺さねぇよ」

「その言葉を信じろと?」


 皮肉たっぷりに言うと、剥岩さんは再び眉をぴくりとさせた。第一、信じるなと言ったのは彼のほうだ。

 数秒が経過してから、チッと小さな舌打ちが聞こえた。折れてナイフを置くのか、それとも逆上して攻撃してくるのか。

 僅かな動きすら見逃すことはできない。それが命取りになるかもしれないのだから。私は彼の目を見据えた。少しでも怪しい動きを見せたら、瞬時に判断しなければならない。

 だが、相手が行動を起こすのに、大して時間はかからなかった。


「……わかったよ。これでいいだろ」


 剥岩さんはナイフを放り投げた。窓を打ったそれは、けたたましい音を立てる。

 そして、何も持っていないとわからせるためか、両腕を左右に広げた。


「ほら」


 彼は武器を捨てた。私と同じく、丸腰になったということだ。だが、重要なのはそこではない。


「……ここにはあなたと私しかいない。声は充分届く距離だし、誰かに聞かれる心配もない。そっちに行く必要性を教えてください」

「……さすがにそこまでバカじゃなかったか」

「…………」


 ムッとしたが、煽りに乗ってしまっては彼の思う壷だ。無言のままでいる私を見ると、彼は空気を変えるようにひとつ咳払いをした。


「そうだな……絵を使って説明する。こう言えば納得か?」

「……絵……?」


 私は彼の意図がわからず戸惑った。

 一体、絵で何を説明するというのか。自分のした質問を思い返すが、どうも必要とは思えない。


「どう使うんですか?」

「だからそれを今から説明するんだろ」


 掘り下げようと思えば、剥岩さんは呆れ声でそうはぐらかした。また、嘘をついているのだろうか。

 剥岩さんが折れる様子はない。言うとおりにしなければ、彼はきっとナイフで私を脅すだろう。素直に従ったほうが身のためだ。


「……わかりました」


 私は、剥岩さんの元へ向かった。もちろん、警戒は解けない。ふとした隙にナイフを拾われては元も子もないのだから。

 カツカツと足元から響く軽快な音。

 彼に近づいたら、まずは手の届かない所までナイフを蹴り飛ばそう。拾って彼を脅すのもいいが、私は非力だ。簡単に奪われてしまうだろう。そうなれば、あとはどうなるかなど言うまでもない。

 あと一メートルという所まで来た。――ここからだ。

 目標まで、バネのごとく一息に飛ぶ。そして、すかさず右足を蹴り上げる。ちょうど、地面に転がっている石ころを蹴る要領で。だが、痛めた足は言うことを聞かなかった。爪先は空振りし、ほんの少し踵が獲物を掠めた程度。失敗したかと思ったが、それは杞憂だった。

 窓枠に躓き、ナイフは踊る。カッカッカッと軽快なリズムを刻みながら、それは剥岩さんの後方へ飛んでいく。最後には勢いを失った駒のように回転し、やがて止まった。その距離僅か二メートル。

 ――よし。心許ない距離だが、目的は達成した。

 ふう、と溜め息をついて胸を撫で下ろす。顔を上げようとした、次の瞬間だった。

 視界の右端から伸びる手。扼殺という一種の可能性が脳裏をよぎる。避けようと体を捻った時には、もう遅かった。


「や……っ!」


 肩を掴まれる感触。そのまま首へ這い上がると思ったそれは、しかし、反対の方向へ動いた。肘の下を強く掴まれ、勢いよく引っ張られる。


「!?」


 私は勢いそのままに、剥岩さんの体に身を預ける形となった。咄嗟のことに状況を理解できず面食らっていると、彼は私を抱き竦めた。次第に思考が晴れていく。


「ちょ……っ、何して……っ」


 身動きひとつ取れなかった。異性に抱きしめられていることに慌てている余裕などない。これでは、このまま殺されかねないのだから。

 なんとか逃れようと滅茶苦茶に足を動かし、彼のそれに何度も何度も振り落とす。だが、それはただの足掻きに過ぎなかった。彼の腕により一層力がこもる。


「動くな、刺すぞ」


 耳をざらりと撫で上げる、ドスのきいた声。ぞくりと粟立った背を這ったのは、硬く尖った感触。

 私は動けなくなった。


「え……」


 まさか、ナイフ……? だけど、そんなはずは……。

 剥岩さんの肩越しに向こうを見ると、そこには静かに佇む一本のナイフ。そう、彼が持っているのはあれだけだったはずだ。ということは、最初から他の一本を服に忍ばせていたということか。


「……詰めが甘いよ」


 本当にその通りだ。だが、後悔してももう遅い。私は、剥岩さんの仕掛けた罠にまんまとハマってしまったのだ。

 私はバカだ。本当にバカだ。何故、可能性を模索しなかったのか。何故、目に見えるものだけを信じてしまったのか。彼は嘘ばかりついていた。少し考えれば、わかることだったのに。

 今この時、私の命は剥岩さんに握られている。生かすも殺すも、彼次第だ。

 このまま、死ぬのだろうか。誰も来ない、こんな所で、たった独りで。でも、それもいいのかもしれない。どのみち、飢えやら何やらで死ぬのだ。どうせそういう運命なら、苦しむのは少ないほうがいい。目頭がじわりと熱くなった。


「……殺すなら、一思いに――」


 ぼそりと、諦めの一言を漏らしたその時だった。

 ドンドンドンと扉を叩く激しい音。後方からだ。聞こえるはずのないそれに、背筋が凍りついた。


「な、何……」

「……やっと来たか」


 頭上で響いたその声は、私とは対照的に落ち着いていた。

 地震や風で揺れる窓の音にも似たそれは、次第に大きくなっていく。

 ――……まさか。いや、でもそんなはずは。


「……風……ですよね……?」


 予想が外れていてくれたら。そう思った。

 私は縋るような思いで彼を見上げる。


「見てみろ」


 素早く私の体を回転させた剥岩さんは、今度は背後から腕を回した。だが、私が一両目の扉を視界に収める頃には、音は鳴り止んでいた。扉の向こうには、誰もいない。


「……なんだ、やっぱり風――」


 その時、ダン、と私の言葉を遮るように、一際大きな音が響いた。と同時に、扉の窓に残された跡に気がついてしまった。それは、私より遥かに大きな手の跡。男の人のものであろうそれから伝う、どろりとした赤いもの。


「ひっ」


 ドクッと私の内側を突く鼓動。ゾワッと背中を這い上がる蠕動。

 ――まさか、あの運転手だというのか。

 私の脳裏に、昨日の彼の姿が浮かんだ。逃げられるものなら逃げたいと思った。あんな悪夢、二度と見たくない。


「……嘘でしょ……?」


 口から漏れ出た私の思いは、続く剥岩さんの言葉によって打ち砕かれた。


「残念ながら現実だ」

「嘘……! だって、あの人は死んで……」


 心情とは裏腹に、私は扉から目を離すことができなかった。

 這うように線を描いていった液体の先頭が見えなくなった頃、その恐怖はねっとりと耳にまとわりつく。


「……ア、ア……ユル、ユル……許サナイ……」


 聞こえてきたのは、今にも息絶えそうな女の低い声。

 間、髪を容れず、窓に叩きつけられたその姿。運転手だった。彼は扉を何度も殴り、抉れた上唇をこれでもかというほど押し上げて喚き出した。飛び出した右の眼球が、ギョロリと私を睨んだような気がした。


「……っ! なんで……っ!」


 ガタガタと震える扉。まさか、開けようとしているのか。


「いやっ、嘘……っ! ちょっと! こっ、こんなことしてる場合じゃ……! 離して!」

「ダメだ」

「なんで……!」

「いいから黙ってろ」


 一度諦めたのに、まだ生きようとしている自分に気がつく。当然だ。あんな得体の知れないものに、恐怖したまま殺されるくらいなら。

 じきに運転手は扉を開けるだろう。このままでいれば、きっと彼は私達を襲う。昨日と同じように。

 骨張った手が視界に入る。それはやがて、私の顎を掴んだ。強引に上向けさせられ、剥岩さんの顔が逆さまに映る。


「……なぁ。もし殺されるなら、俺とアイツ、どっちがいい?」


 ――ああ。やっぱり運命は変えられないのか。

 でも、答えは決まっている。きっと、そのほうが恐怖も少ない。


「そんなの、剥岩さんに決まってるじゃないですか……」

「……わかった」


 剥岩さんの腕が緩んだ。解放されたと思った次の瞬間、背中に強い衝撃を感じる。視界に窓が迫ってきたと思えば、私の体は強く叩きつけられていた。


「い……っつ……」


 蹴り倒されたのだ。痛みに顔が歪んだのも束の間、さらなる苦痛が私を襲う。

 襟首を強く引かれて上体を起こされる。操り人形のようにガクンと動いた首は、ギリギリと絞め上げられた。ドスンと腰にのしかかる重み。そして、首筋を這うひやりとした感触。

 私の顔には、様々な感情が入り乱れていたことだろう。揶揄するなら、百面相。きっと、そんな言葉がお似合いだ。

 喉が潰されるような感覚。肺に空気が届かなくなり、息苦しさを差し置いて意識が遠のいていく。深く暗い海の底に沈んでいくような、どろりと眠りに引きずり込まれるような感覚。

 ぼやけた視界に映る、運転手の姿。彼は、動きを止めたように見えた。でも、そんなこと、もうどうでもいい。

 すぐに私は死ぬ。もう、恐怖に怯えることはない。痛みに苦しむこともない。やっと、やっとだ。悪夢は終わるのだ。そう思った時だった。


「……!」


 勢いよく肺に流れ込んだ空気。広がる視界。頬を伝った雫。肺が破裂しそうな感覚を覚えて、私は咳き込んだ。急き立てるように次から次へと気道を叩いた空気に、視界が曇る。


「あ……う……」


 私の体はうつ伏せに横たえられていた。視界の右端に映るのは、胡座をかいた彼の姿。


「……は……ぎい……わ……さん……?」

「お疲れ」


 死ななかった。彼が手を離したのだろう。だが、何故そうしたのか。いくら考えようとしても、真っ白になった思考ではどうすることもできなかった。


「な……んで……」

「……答えは簡単だ。前を見ろ」


 剥岩さんは、そう言って前方を指差した。ああ、そうだった。あの運転手が扉を開けようとしてたんだっけ。

 私は彼に言われるがまま、ゆっくりと上体を起こした。体の下からまっすぐに伸びた四角い窓の列。突き当たりには、下側に取っ手のついたシルバーの扉。そこにはめ込まれた無色透明の窓には、子供の悪戯みたいにたくさんつけられた、赤い手の跡。そして、その向こうには――。


「……え……いない……?」


 運転手は、姿を消していた。


「なんで……?」

「……わかんない? 周りから見て俺達がどう映ってたか、だよ」


 問うように剥岩さんを見つめれば、深い溜め息と苛ついた声が返ってくる。

 私は必死に頭を回転させた。剥岩さんが私を抱きしめて、抵抗できなくなったところで運転手が来て喚き出した。その後、剥岩さんに殺されかけて、気がついたら運転手はいなくなっていた。

 昨日は? 私達が打ち解けたと思った直後、一両目で音がした。行ってみたら死にかけの運転手がいた。近づいたら襲われた。

 運転手から見た私達は――。ふっとひとつの共通点が浮かんだ。


「私達が仲良さそうに見えた……?」


 仰いだその先で、剥岩さんは満足そうに笑っていた。


「よくできました」

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