十話 攻防戦
目蓋の裏に感じた、微かな明かり。体を包む、ひんやりとした空気。
――もう朝か。また今日もテストだ。
重い目蓋を開くと、視界に飛び込んできたのは紫色の携帯。いつもは充電器に挿してから寝るのだが、忘れてしまったようだ。
「今何時……」
もぞもぞと起き上がると、制服にジャージという、およそ睡眠には合わない格好をしていることに気がつく。昨夜は珍しく、お風呂も入らずに寝てしまったようだ。
時計を見ようとしてはこくり、こくりと船を漕いでいたが、ようやく携帯の側面についているボタンを押すことができた。液晶に時刻が表示される。
「んー……一時……ん? ……逆だ……って、八時十分……!?」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声が出た。
いよいよ目が覚めた。焦燥に駆られる。大変だ。始業時刻まであと三十分。自力で行くことを考えれば、絶対に間に合わない。車で送ってもらえばまだ希望はあるが、電車で十分、そこから四キロメートルの距離を自転車で二十分だ。
「遅刻しちゃう……!」
バッと顔を上げた……のだが、自分の部屋とは明らかに異なる景色に、私の思考は停止した。
硬く冷たいベッド、頭上から一直線に突き抜けた白い空、おかしな方向を向いた造り付けのソファー。
その時だった。後方で、背筋の凍るような声が響いたのは。
「……あの状況でよく寝られるもんだな、結城」
その声に、覚えがあった。一気に記憶が蘇る。
夢なんかじゃなかった。彼は――。
「剥岩さん……」
「……おはよう」
振り返ると、そこには感じの良い笑顔を浮かべる少年の姿。その瞳には、絶望を象徴するような凍えた光をたたえている。
私はハッとした。手元にあるのは携帯だけ。荷物を置いている場所とは離れたところで眠ってしまったのだ。食料は、荷物は無事なのか。走らせた視線の先には、鞄とビニール袋。
その右手で、剥岩さんはくすりと嗤った。
「あんたの神経、どんだけ図太いの。寝てる間にさ、食うもんに細工されたり、俺に刺されたりするかも……とか考えなかったわけ?」
特に動かされたような形跡はないから、ひとまず安心していいだろう。もちろん、そう思わせるために、細心の注意を払って薬を仕込んだという可能性もあるのだが。
「いや、でも、それは……私を殺したかったっていうのは嘘で……。だから、理由もなく人を刺したりなんてしない……ですよね?」
そして、彼が私にナイフを向けたのは、殺したいという理由があったからだ。だが、それが嘘だとわかった時点で、彼に私を刺す動機は無い。
私は、核心をついたと思った。だが、何故か剥岩さんは呆れたような顔をしている。
「……あんたさぁ……バカ?」
「え……?」
「嘘って言ってること自体が嘘だったらどうすんの」
「……!」
言われてみればそうだった。全て疑わなければ。昨日、そう思ったはずなのに。
けれど、私はこの十六年間、人を疑って生きてきたわけじゃない。体に染みついていないものを今さら習慣にしようとするのは、無理があるのだ。それに、疑うという行為が辛いものだということは、いやというほど知っている。けれど、それでも疑わなければならないのなら。
私は、ぎゅっと拳を握りしめた。昨日からずっと、心の中でぐるぐるとしている疑問の数々。今度こそ、本当に刺されるかもしれない。殺されるかもしれない。
「……剥岩さん。あなた、一体何がしたいんですか? 私と協力して脱出するって言いましたよね? なのに、睡眠薬を入れてみたり、殺そうとしてみたり……意味がわかりません」
声が震えた。脚が震えた。
けれど、一度言ってしまえばもう後には引けない。全てを、そう、全てを聞かなければ。たとえ、返ってくる答えが全て嘘だったとしても。
「……あの男性のことを怪しいって言ったのもそうです。確かに、結果的にはおかしかったけど、あの時点じゃただの怪我人としか思えませんよ」
確かに運転手はおかしかった。行動も、怪我の具合も。けれど、だからと言って彼が怪しいということにはならない。
心臓がバクバクと音を立て、鼓膜を震わせる。私は、一気に畳み掛けた。
「状況的にそう思っただけですか? 根拠は? ……まるで、あの男性が襲ってくるのがわかってたみたい。私に何か隠してませんか」
痛いところを突かれたのか、剥岩さんの目が細められる。
――その調子だ。一歩ずつ、確実に追いつめていけばいい。
だが、彼は私よりも一枚上手だった。余裕のある声が響く。
「そんなの偶然でしょ。あんたが冷静に物事を考えられないだけじゃない?」
「な……っ」
「冷静でいたほうが周りがよく見える。……そう言ったの、何処の誰だっけ?」
剥岩さんは私の昨日の発言を取り上げると、鼻でせせら嗤った。
「怪我人がいたら目の前の状況も考えずに突っ走るし、俺がいないってわかったらパニック起こすし。……おまけに、煽られたらすぐ流される。希望的観測ばかりで単純、他人の言うことを鵜呑みにする。ちょっとは頭働かせたかと思えば、やっぱり安直」
「……っ」
顔に全身の血液が集まってきているように感じた。いくらなんでもその言いようはない。
一拍おいて彼が発した言葉は、私の怒りに拍車をかけた。
「ただのバカじゃねぇか」
「……さっきから黙って聞いてれば……バカだの単純だの……あなたって人は……」
「まさにそういうところだよ、バカっていうのは。そんなんじゃ、自分の身は守れないよ。あんた、遅かれ早かれここで死ぬんじゃない?」
剥岩さんに言われてようやく、質問をかわされていることに気がついた。
ついカッとなって冷静さを欠く。そんな私の性格を見抜き、利用した。悔しいが、きちんと他人のことを把握している彼だからこそできたのだ。
「……はぐらかさないでください。剥岩さん、あなた本当は何か知ってるんじゃないんですか?」
「なんでそう思うの?」
剥岩さんはにやりと勝ち誇ったような笑みを浮かべる。彼を追いつめて白状させるつもりだったが、詰めが甘かった。これでは曖昧にされてしまう。
質問に質問で返されたことにはムッとしたが、仕方ない。続けよう。また彼の調子に乗せられてしまう前に、力ずくでねじ伏せるほかない。
「……あなたの言動と、その……リュックの中身です」
彼の傍らに置かれている黒いリュックをちらりと見る。何かを取り出したのか、幾らか小さくなったような気がする。中身を飲んだペットボトルを捨てたのか、ナイフを服に隠したのか、はたまた他の何かか。
「電車が一本も通ってないっていうのも、脱線事故のニュースが無いっていうのも、本当は嘘なんじゃないんですか? 私が見てないのをいいことに嘘をついた。違いますか?」
「…………」
剥岩さんの眉がぴくりと動く。蔑むような、睨むような目つき。だんだんと、彼の顔から余裕が失われていくのがわかった。嘲笑で上がっていた口の端はすっかり下がり、ナイフエッジのようになっている。
「図星……ですか」
とどめを刺すと、彼はようやく口を開いた。
「……そうする目的は。俺が嘘をついてるんだとしたら、なんで救助が来ない」
「そんなの、わかってたらわざわざ聞いたりしませんよ。それだけじゃない」
深く息を吐いて、私は続けた。
「最初からおかしいんですよ。あの武装集団が来る前に――」
――気をつけろなんて言うし。
そう続けようとして、私は言葉を飲み込んだ。剥岩さんの右手に、獲物が握られていたからだ。朝の爽やかな陽光に照らされて美しい光を放つ切っ先が、皮肉にも“死”を語っている。
「……っ! ……殺す気ですか」
私は咄嗟に立ち上がり、身構えた。
また同じことをする気だろうか。そうなれば私に勝ち目はない。昨日とは違い、視界は良好だ。きっと、剥岩さんは的を外さない。
だが、彼の返答は思いがけないものだった。
「……いや、本当のことを教えてやる。こっちに来い」




