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九話 豹変

暴力表現を含むため、苦手な方はご注意ください。

 一瞬にして空気の色を変えた殺気。ピンと張りつめた気配。

 私は思わず身構えた。姿勢を崩さぬようにゆっくりと立ち上がり、じわり、じわりと後ずさる。

 携帯の照射範囲には、逆手にナイフを握った剥岩さんの右手。

 彼はゆらりと立ち上がった。下から照らす光が、彼の顔を幽霊のように浮かび上がらせている。こちらを睨むような、据わった目。きつく引き結ばれた唇。


 ――……あんたを殺したかったからだよ。

 誰がそんな言葉を予測しただろうか。

 第一、目的がわからない。私を殺したところで何になる――? 食料確保のためだというなら、それは後づけの理由に過ぎない。利用したいのならすればいいが、それに足る価値が無いと判断したのなら、殺さずとも放っておけばいいのだ。


 睨み合いが続く。距離は二、三メートルといったところか。剥岩さんのほうから私の姿は見えないはずだが、何故か全てを見られているような気がした。一度目を逸らしたら、その瞬間に殺されてしまいそうなほどの気迫。

 彼は、あれをどうする気だろうか。上から振り下ろすのか、それとも順手に持ち替えて一突きにするのか。……いや、彼のことだ。そんな単純なことはしないだろう。仮に敵も武器を持っているのだとしたら、防御も考えず懐に飛び込むような真似は避けたい。

 殺されるかもしれない状況だというのに、思いのほか頭は冴えていた。


 剥岩さんはずっとこちらを見ている。私が動けば、彼の瞳も動く。気配を感じているのか、息づかいを聞いているのか。

 そうだ。できる限り、息を殺そう。ゆっくりと下がろう。こういう時、革靴は困る。私は音を立てないように屈み、裸足になった。

 ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ確実に後ろへ。踏む度に沈む感触が、今は鬱陶しい。

 剥岩さんの眉根が寄った。瞳が忙しなくあっちに行ったりこっちに行ったりしている。私の気配を見失ったのだろう。よし。それでいい。

 このまま下がり続けて、隣の車両に逃げよう。扉さえ閉めてしまえば、あとはこっちのものだ。刺すことはできまい。


「…………」


 ……待って。……隣の車両……? 一両目だ。ダメだ、あそこには――。




 ――逃げられない。




 気がついた時には遅かった。

 唯一の明かりが宙を舞う。再び闇が訪れた。剥岩さんの姿は、もう見えない。

 ガツンという冷たい音は、警鐘に変わった。

 視界にまとわりつく黒。鼓膜にこびりつく静寂。ピリピリと空気を焦がす殺気。何処かから、見られているような気がする。今にも、そう、今にも、闇を切り裂いたナイフが私の胸を。

 逃げなきゃ。とりあえず逃げなきゃ。じゃなきゃ殺される。背中を向けたら最後。後ろから心臓を突かれて終わりだ。下がれ。とにかく下がれ。

 ドクッドクッドクッと聴覚を占領する鼓動。彼の姿が見えない。彼の呼吸が聞こえない。彼の気配がわからない。あの場から動いていないのか。もう近くまで来ているのか。落ち着け、まずは落ち着け。

 呼吸を整えようとした、その時だった。不意に足が縺れるような感覚を覚え、重心が崩れる。


「きゃあっ!」


 必死に動かした手は宙を掻き、支えきれなかった体は真っ逆さまに落ちていく。おそらく、座席の肘掛けに引っかかったのだ。

 私は強かに腰を打ちつけた。鈍い衝撃が走る。と同時に、何か硬いものが壁にぶつかる音。


「ひっ」


 直後、勢い余って壁を飛び越えたそれが、カランカランという甲高い鳴き声を上げた。膝を叩く、硬い感触。剥岩さんにナイフを投げつけられたのだと容易に想像がついた。

 闇の先から、ドスのきいたおぞましい声が聞こえる。


「残念なことに、死ななかったけどなぁ」

「……っ!」


 剥岩さんはおそらく、私が声を上げるのを待っていた。それで狙う場所を定めたのだ。戦場がどういう所かはわからないけれど、もしもここがそうであったなら、私は確実に殺されていただろう。

 スゥッと溶けるように殺気が消えたのは、ちょうどその時だった。

 遅れて恐怖を実感し、私の脚はガクガクと情けなく震え始めた。思い出したように瞬きをすると、目蓋の裏側がひどく冷たい。それがじわりと熱くなったかと思えば、壊れたように幾つもの雫が溢れ出した。

 前方で、懐中電灯の明かりが点く。それは、革靴の音と共にゆっくりとこちらへ動き出した。


「なに、なに……」


 勝手に、上ずった声が漏れた。

 殺気が消えたとはいえ、彼が恐怖の対象に変わったことには違いない。殺される。そう思った。

 私は手探りでナイフを探した。右手の指には、ザラザラとした砂埃の感触。やがて、それはひんやりとした感触に辿り着いた。――これだ。これさえあれば、私でも勝てる。

 カツ、カツ、カツと響く足音。私は、刃をなぞって柄を掴んだ。その手にぎゅっと、力がこもる。私の近くで止まった足音。――今だ。

 一気にナイフを振り上げようとした、その時だった。ガッと手に走った、衝撃と激痛。


「い……っ!?」


 ――剥岩さんが、私の手の甲に踵を落としたのだ。

 彼は煙草の吸殻を踏み潰すように、踵をグリグリと押しつけた。


「あっ……が……っ! んん……!」


 皮膚を裂かれるような痛み。懐中電灯に照らされた視界が、より一層滲んでいく。今度は恐怖ゆえのものではなく、苦痛の涙。

 頭上から、嘲笑が降ってくる。


「なぁ、力で俺に勝てるとでも思った?」


 その声に力がこもった。骨が軋むような激痛が走る。


「ふ……あああっ!? あ……っくぅ……許して……っ、お願いだから、足、足……!」


 あまりにも強い力に、次第に感覚がなくなっていく。涙は止めどなく溢れ出る。ポタポタと膝を打ったそれは、小さな川をつくった。早く、早く離して……。

 彼が屈む気配。緩んだ手からするりとナイフが抜き取られると、私はようやく解放された。


「ああ……」


 深く安堵した途端、間抜けな声が漏れた。

 戻ってきたのは、ジンジンと疼くような痛み。おそらく、私の手の甲は赤くなっていることだろう。


「…………」


 沈黙が落ちた。衣擦れの音がして、剥岩さんが座ったのだとわかった。何をする気だろうか。元の場所に戻らないのだろうか。

 床に置かれた明かりが、私達の姿を照らし出す。手の甲には、じわりと血が滲んでいた。

 無言のまま剥岩さんがこちらへ手を伸ばすのがわかって、反射的に私の体はびくりと震えた。彼の左手が、すっかりボロ雑巾のようになった私の右手を掴む。


「痛い?」

「…………」


 痛い。物凄く痛い。でも、肯定も否定もできなかった。どちらの回答を選んでも、もっと痛めつけられるんじゃないかと思ってしまったからだ。

 ナイフは何処だろうと横目に確認するが、それは彼の右足にしっかりと踏まれていた。反撃はできないようだ。


「…………俺が怖いか」


 頭頂部を刺すように落ちた低い声。

 怖い。怖いに決まってる。だって、殺されかけたのだから。でも、肯定も否定もできなかった。

 何がしたいんだろう、この人は。私を殺そうとしてみたり、心配してみたり。意味がわからない。

 やがて、うんともすんとも言わない私に呆れたのか、剥岩さんは深く溜め息をついた。そして、また意味のわからない言葉を吐き捨てたのだ。


「……バカ、信じてんじゃねぇよ」

「……………………は……?」


 私は、いきなり頬を叩かれたような衝撃を覚えた。

 信じる……? 頭の中が真っ白になった。何を……? まさか。


「あんたを殺したところで、俺の手が汚れるだけだ」

「……!」


 まさか、演技だったというのか。理由も、殺気も、何もかも。一歩間違えれば人の命を奪っていたかもしれない行為を、演技でやったというのか。

 気がつけば、私は大きく息を吸い込んでいた。興奮した時のように繰り返される荒い呼吸が、体を取り巻く。

 私の命は、軽んじられたのだ。次第にふつふつと怒りが湧いてくる。


「……ふざけないで……」


 気がつけば、私は恐怖も忘れてそんなことを口走っていた。


「下手したら死んでたかもしれないんですよ……?」

「俺は別に構わないけど?」

「……っ! 自分が何をしたのか、わかってるんですか!?」

「わかってなかったら相当危ない人だね」

「あなたって人は……!」


 そこまで言ってからハッと我に返り、口を噤んだが、既に遅かった。一度口にした言葉は取り返せない。

 途端、彼への恐怖が蘇る。鼓動が早まる。嫌な汗が背中をなぞった。


「ご、ごめんなさい……」

「……手のひらで転がすってこういうことを言うんだろうなぁ。信じるなって言ったじゃん。もう忘れたの?」


 彼はククッと笑って、肩を揺らした。

 そうだ、そうだった。この恐怖は、彼の嘘によってつくられた感情。何も怖がることなんてないんだ。私はそう自分に言い聞かせた。

 でも、ナイフを投げた力も、私の手を踏んだ力も、彼自身のものだ。もしも怒らせてしまえば、彼は平気で私を傷つけるだろう。そういうことだ。

 セリフに似合わない爽やかな笑顔を引っ込め、彼はうっすらと嗤って立ち上がった。


「まぁ……使えないタダ飯食らいは要らねぇからなぁ……。ちゃんと覚えとけよ」


 いやにゆっくりとした動作でナイフを折りたたむと、彼は踵を返した。

 ――……やっとだ。やっと、終わった。

 全身から力が抜けて、私はその場に倒れ込んだ。

 時刻は二十時二十五分。救助は来ない。私達以外の人間は、皆死体になった。

 こんなの、いつまで続くんだろう。せめて、剥岩さんが優しいままだったら良かったのに。

 早く家に帰りたい。帰って、お父さんの顔を見たい。お母さんの顔を見たい。お兄ちゃんの顔を見たい。

 見上げた空は何処までも黒くて。のしかかってきてるみたいだった。

 ああ、目が覚めたら、全部悪い夢だったらいいのに――。

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