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 その日も平穏に暮れていくはずだった。

 絶対的な信頼関係にあった人物は記憶にぼんやりとした面影があるだけで思い出すまでには至らない。

 けれどもその日までに培った関係は間違いなく、唯一無二の関係だった。

 夜の帳が下りようとしていた放課後。

 黎一は大切な存在と共に何気ない談笑を交わし、家まで送り届けるといつものように自宅へと帰る。

 何もない、けれども穏やかで幸せだと感じることのできる毎日に黎一は満足していた。

 特別な何かを求めるだけでもなく、ずっと日々を送れればいいと思っていた。

 もしこの世界に神様や運命が存在するならば――きっとその日が黎一に与えられた分岐点だったのだろう。

 始まりがなんだったのかはわからない。

 異変の予兆は帰路にあったのかもしれない。

 帰り道に必ず挨拶を交わす、犬の散歩をするおじさんがいなかったこと。

 ちょっとボケてしまったおばあさんが、毎晩同じく作る煮物の匂いがしなかったこと。

 注意深くしていればそれ以上にあったかもしれない。

 しかし当時の黎一は知る由もなかった。

 静まり返った自宅に違和感を覚えたのを記憶している。

 いつもなら帰宅に声を上げれば、夕食の支度をしている母親が返事をしてくれていた。

 けれども母親からの返事はなく、明かりもつけない家内は薄暗く異質な空気を漂わせていた。

 恐る恐る足音を立てないように居間へと進むと、奥のキッチンで人影が何かをしているのが見えた。

 母親だった。

 後ろ姿で確信しても黎一は声をかけるのを躊躇った。

 理由はわからないが、声が喉の奥で張り付いて出てこなかったのだ。

 そうして足だけはゆっくりと進み、母親の背後に立った。

 母親は暗闇の中で淡々と同じ行動を繰り返していた。

 包丁をまな板に向けたひたすらに、ただ単調なリズムで振り下ろしている。

 覗き込んだまな板の上には何もなく、力が過剰に入っていたことを物語るように無数の傷が刻まれていた。

 異常としか言えない状態にようやく、枯れたようになっていた喉が声を紡いだ。

 母さん、だったかもしれない。

 ただいま、だったかもしれない。

 何をやってるの、だったかもしれない。

 どうでもいい言葉をかけて振り返った母親は、息子の帰宅にようやく気づいたように振り返り――見たこともない土気色の顔をおぞましいほどに歪ませた。


「――夢か」

 嫌気のさす光景に思わず顔を覆う。

 まさしく悪夢というやつだった。

 昨日の仮面着きのせいで思い出したくもないことを夢に見てしまった。

 掃除も換気もしていない自室はお世辞にも清潔とは言い難い。カーテンすらない窓から差し込む朝日に照らされて、舞っている埃がキラキラと光って見えた。

 自分以外の動く気配にぼんやりする意識で隣を見る。

「……すぅ……にゅふふ……」

 一体なにを夢に見ているのかわからないが、白い髪を広げて眠る谺が幸せそうな寝顔を浮かべていた。

 前もって送っておいた布団一式があったため、昨夜は谺に使わせた。谺自身は頑なに一緒に寝ようと年頃の女性にあるまじき発言をしていたのだが、断固として反対し押し切った次第である。この場を同じくしたのが自分だったことを感謝して欲しいくらいだった。

 静かな寝息を立てる日比野谺はやや美少女というのが黎一の見立てだ。一般的に言えば十分にその域にある容姿なのだが、美少女選別検定二級(自称)の黎一にとって割と厳しめに選別したつもりだ。

 整った目鼻立ちは当然にクリアしている。瞳の大きさは相手を映し込む鏡のようであり、何より澄んでいるのは高評価である。細すぎず太すぎない体型ではあるものの、胸の発育は思わしくないといった感じか。十分に美少女に分類されるのだが、そこは天井を作ってしまうことを恐れた黎一なりの線引きみたいなものだった。

 春になって少し経つこともあって一晩を明かしても特に体に不調は感じない。一人暮らしである黎一が体調不良になっても自己責任で済ませられるが、さすがに余所様の、それも女の子に寒い思いをさせて風邪でも引かれたら親御さんに申し訳が立たない。危惧すべき点が回避できただけでもよしとする黎一だった。

「あつい」

 そう言って谺がおもむろに掛け布団を蹴り飛ばした。

 確かに布団一式は冬仕様で使っていた。なぜ黎一が一晩何もかけずに明かしたのに谺は完全防寒みたいな布団で寝ていたのか。それは至ってわかりやすい理由がある。

「風邪引くぞ」

 布団が捲れて露わになる谺の姿。体を覆うのは一枚のシャツのみで、袖と裾からはすらりとした肢体が伸びている。

 何を隠そう谺に制服以外あるわけもなく、その格好で寝ようものなら皺になるのは火を見るより明らか。それならば黎一の服を借りてしまえばよく、なおかつ布団に入ればどんな格好でも気にしなくていいという着地点を発見した。黎一としてはなかなか冴えた発案だと自負している。

 蹴り飛ばした布団を掴み、かけようとして動きが止まる。ボタンの隙間から覗く素肌の色は白。

 色素の抜けた髪や肌はよくいわれるアルビノ――アルビニズムの人――と言われるそれに該当するようで、谺は先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患があるらしい。そのせいで髪は白金、肌は乳白色、目は眼底の血液が透けて淡紅色見えるのだとか。もちろん程度で外見に差はあるというが実際に見てみると同じ人種とは思えない風貌である。

 虐めとは他者と少し違うだけで対象になるのだから、谺のように「明らかに」違う見た目はどうしても対象に選ばれやすいのだろう。

 と、目に入る裾がきわどい所まで上がっていた。見えそうで見えない魅惑の地帯。

「ふむ。チラリズムか」

 黎一の趣向としては全裸よりも半脱ぎだった。

 完全に見えてもそそるものはある。しかしそれは雰囲気がのったときでいい。何事も順序というものがあり、いきなり全てを曝け出しては趣がまったくないのだ。何より見えているよりも、見えそうという想像を掻き立てるチラリズムこそ、男にとって養分になるのではないだろうか。そしてそれが雰囲気を作るのではないだろか。

「……何をバカなことを」

 畳に転がる目覚まし時計を見る。

 時間はちょっと予定より遅かった。

 溜め息を吐き出し……掴んでいた布団を眠り姫の顔めがけて叩きつけた。


「あの起こし方は酷いと思うんです」

「ああ、確かにあの起き方は女の子としてどうかと思う」

「起こし方って言ったんです! あんな起こされ方すれば誰だってああなります」

「それはないだろ。だって「はぐあ!?」だぞ?」

「やめてください!?」

 それっぽく真似してやると羞恥に顔を染める。

 そしてお腹の虫も鳴った。

「女の子としてどうなんだ?」

「言わないでください! だってお腹すいてるんですもん! 黎一さんが食べ物くれないんですもん!」

「俺も減ってるわ! まるで俺が食事を与えない鬼畜みたいじゃないか!」

 二人は特に準備するものもなく着替えだけを済ませ黎一の部屋を後にしていた。

 棚から牡丹餅が出てくるわけでもないので、登校の道すがら食糧確保を目的に商店街を目指している。

「っていうか黎一さん意地悪です」

 頬を膨らませる谺に苦笑。

「なんていうか谺って弄ると面白いんだよな」

「そうやって虐める側になるんですね」

 そっぽを向いて横目で訴えてくる視線。

 それを受け流しつつ、

「勘違いしないでほしいな。これはスキンシップであって虐めじゃない。少なくとも俺は友達という前提でやってる。そうじゃなきゃこんな酷いことしない」

「スキンシップ……友達……だったらいい――わけないじゃないですか!? しかも酷いことしてる自覚あるし!」

「ちっ、騙されなかったか」

「舌打ち!? 騙されませんよ!」

 わざとらしく悔しがると谺が小さく噴き出す。

「もう。黎一さんってもっと大人な人だと思ってました」

「お、言うねぇ。谺はもっと大人しいと思ってた」

「本当は大人しいですよ。学校の私を見たら黎一さんは別人だと思うくらいです」

「俺だって大人だぞ? なんたって子供を作れる年齢だ。試してみるか?」

「……今のセクハラですよ」

「俺も今のはないと思った」

 微妙な時間が二人の間に流れる。

 それもほんの短い時間だった。

「あ、いい頃合いみたいです」

 ぱっと顔を綻ばせた谺が指差す先に一軒の店が見えた。

 仮面着き遭遇後に隠れていた店。

 先導する谺の後についていくと、漂ってくるのは焼きたてパンの芳ばしい香り。

 看板にはパン工房園崎の文字があった。

 店構えは清潔感のある白を基調にした外観で万人受けしそうである。覗いたガラス越しの内装も悪くなかった。

「お邪魔しまーす」

 空腹に急かされてでもいるのかさっさと店内に消える谺。その後ろから入店すると歓迎するように声がかかる。

 どうやら店主ないし店員は奥で作業中のようである。フロアには黎一と谺の二人だけしかいなかった。

 間取りはそこまで広くはなく、並べられる種類も多くはなさそう、というのが第一印象。「なさそう」というのは他でもなく、商品であるパンが陳列されていないからあくまで想像の域を出ていないのだ。

「いらっしゃい、谺ちゃん」

 そこへ現れたのは若い女性。

 さきほどまで作業中だったようで頭にバンダナが巻かれたエプロン姿だった。

「おはようございます、園崎さん」

「ん、おはよう。えっとそちらさんは?」

 谺と挨拶し合った女性は、店内を見て歩いている黎一の存在に気づいた様子。

「紹介しますね。こちらはパン工房園崎の店主さんで園崎峰子さんです。それでこちらは駿河黎一さんです」

「ただいま紹介に預かった園崎峰子だよ。谺ちゃんが言ったように店主してる、よろしく」

「同じく紹介された駿河黎一です。昨日越してきました」

 差し出された手を握り返す。

「谺ちゃんも隅におけないね」

「?」

 唐突にそんなことを言い出す峰子。

 しかし視線を向けられた当人は理解していない。

「彼氏かい?」

「彼氏です」

 ハンドサイン混じりの峰子と全く同じサインをして黎一が答える。

「ちょ、違いますよ!? 黎一さんも何を言ってるんですか!?」

「違うのかい」

「違うのか」

「なんで二人とも残念そうなんですか!?」

 必死に突っ込みを入れる谺は肩で息をしていると、

「だって谺で遊ぶと楽しいし」

「お、駿河クンわかってるじゃないか」

 にんまりする峰子とがっしりとした握手。

 それを傍から見る谺の目はうんざりしたものだった。

「おっと、遊んでる場合じゃなかった。パンがそろそろ焼き上がるんだった」

「峰子さん仕事してください」

 谺に疲れ切った視線を向けられた峰子は苦笑を浮かべて厨房へと戻っていく。

「なんだろう、親近感を覚える人だな」

「気さくでとてもいい人ですよ」

「美人だしな」

「私の憧れです」

「ちょっとー、悪口じゃないだろうねー?」

 二人の会話が微かに聞こえたらしい峰子が厨房から声を寄こしてくる。

 もちろん本人の思うようなことではないので、谺が否定の返事を投げる。

「じゃーん」

 言いながら現れた峰子は持った紙袋一つを差し出してくる。

「え、でもお金」

「いいからいいから」

 鞄から財布を取り出そうとした谺を制して峰子はにんまりとした笑顔を浮かべる。

「谺ちゃんには紹介料。駿河クンには歓迎を込めて、ね?」

「ヨッ! 園崎さん太い腹!」

「太いって言うな! くびれとるわ!」

 峰子に頭を思いっきり叩かれる黎一。

 思いのほか痛い。やはりパン生地を捏ねているせいか腕力は相当だった。

「それと峰子でいいよ。どうせ歳もそんなに離れてないでしょ」

「え、マジッすか!?」

「どういう意味かな? 年齢的なことならぶつよ?」

「もうぶたないでください……」

 頭を抱える黎一を満足げに見る峰子。

 壮絶な痛みではないが、そう何度も受けたいダメージではなかった。

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