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気が抜けて座り込んでからたっぷりと数分を使った後。
黎一はなんともいえない顔をして座り込んだ位置から動いていない。
疲労を感じながらも意識は耳に集中していた。
「どうですか?」
「……わからん」
現在、玄関のドアに耳を押しあてて外の様子を窺っている最中だ。
ドア一枚隔てた向こうにいるはずの仮面着きの気配は一切なく、同時に足音の類も聞こえてこない。
(この場を離れたのか?)
安心はできないがこれから侵入してくる心配は薄い気がする。ならば何かしらの要因で遠ざけることができたということなのか。
さすがに仮面着きがうろついているか様子を確認するのは気が引ける。もしも待ち構えていたら対処のしようがないからだ。
「むむ……」
聞こえた声に意識を向けると、そばだてる黎一の真横で同じ格好をする谺の姿があった。
「何も聞こえませんね」
「顔、近い」
「はわっ!」
肌が白いこともあって赤面すると実にわかりやすい。
転がるように離れた谺は背後の壁にぶつかり頭を抱える。
「ひ、ひたい……」
「何やってんだよ……」
ぐぅ……。
控えめな虫が鳴いた。
「お、お腹減りましたね!」
虫を鳴かせた本人は、相当恥ずかしいのかさっきよりも赤くした顔で開き直る。
「ご飯にしましょう」
「なんか持ってるのか?」
「あるわけないですよ。ここは黎一さんの家ですよ?」
「残念ながら何も持ちこんでないぞ」
「あ」
どうやら失念していたことを思い出したらしい。
「そういえば転校生さんでしたね黎一さん」
「ボケるにはまだ若いぞ?」
「いえいえ若年性という言葉がありましてね」
「それなら仕方ないな」
「ちょ、肯定しないでください!」
谺がボケているかどうかはともかくとして、出会ってすぐ――時間にして数時間程度でここまで砕けた会話ができるのは稀有だろう。最初はもっと控えめな少女だと思っていたのだが、その実、話をしてみるとおもしろい女の子だった。それを知るまで本当なら時間がかかったのだろう。それだけの濃い時間を共に過ごしたのだと思えば悪いことばかりではないのかもしれない。とはいえ命にまで及ぶかは不明であっても危険は間違いなくあったのだ。
仮面着きが人か人ならざるものなのかは知らないが、どう考えても敵と認識すべき相手だ。
意味不明な存在。思い出して鳥肌が立ってくる。
その思考を振り払うように、
「泊まっていくだろ?」
「と、突然ですね」
「帰るって言うなら帰っていいぞ。送ってはいかないけどな」
「男の方なら送ってくださいよ!」
「外には仮面着きがいるかもだし」
「そうでした! 危険なんで泊めてください」
今さっきまで対峙していた存在を忘れているような口ぶりだった。
本当にボケているんじゃないか心配になる。
「風呂入るか」
「一緒にですか!?」
「オーカワイソウニ。その歳でボケてしまったのかー」
凄く適当な口調で風呂場に入ると蛇口を捻る。
幸いにも水道からは水が吐き出され、しばらくすると温水に変わった。空腹を紛らわせる方法はないとしても風呂に入ることはできそうだった。
男の黎一は我慢できるとしても、女の子である谺に風呂に入れないと告げるのはさすがに忍びなかったので助かる。
そこまで確認して僅かな安堵の後。
風呂場を観察すると、やはりというか室内はよくいってコンパクトだった。床や壁はタイル張りで、鏡こそあるもののシャワーなんてついていない。風呂や桶、収納ラックなどは自分で用意する必要があるらしく、狭いはずの風呂場は少し広くすら感じた。
「冗談ですよ!? 冗談ですからね!?」
「わかってるって。それよりも谺から先入っていいぞ」
「わかりました。入ってる最中に乱入する気ですねっ」
ポンと手を打ち合わせて納得顔。
「よし、俺が先に入って上がる時に湯を抜く」
「酷い仕打ちです!?」
「ガタガタ言わずに入れよ」
「わかりましたよぉ……」
ぶつぶつ何やら呟く谺が浴室に向かう。ちなみに脱衣所なんてものは存在しておらず、谺は浴室で服を脱ぐのだろう。
「あのー、黎一さん」
「あんだよ」
「お湯が張れても桶がありません。これでは湯浴みができません」
「手で掬え」
「ちょっとその回答はどうかと思いますけど!?」
年頃の女の子にそう言われ、自分でもそれはないなと思い至る。
「待ってろ。それっぽいの探すから」
「はーい。あとボディーソープとかください」
「注文が多いな!?」
「年頃なので」
「ぐっ」
それを言われたら何も返せない。
桶代わりを探すよりも先に見つけやすいものを探す。漁るのは先に送っておいた荷物である。
「入れておいた気がする」
段ボールの中をガサゴソと目当ての物を発見。満足して浴室前まで移動すると、視界の端に脱いだ制服と面積の小さい布切れが入ってくる。健全な男子として興味こそあるが欲望をコントロールするときだと判断。
「先にコレな」
浴室の戸を僅かに開けて差し出す。
「なんですかコレ」
磨り硝子越しに色の薄い肌色が浮かんでいる。
おそらく怪訝そうな顔をしている反応だった。
「いや見ればわかるだろ」
一枚の戸を挟んだ状態で谺は一糸纏わぬ姿だ。
こういう場合、女性の方が気を使うのだろうし、男の方もそれなりの葛藤を持って当たるはずだ。けれどもそういったなんともいえない雰囲気は皆無だった。そうなったのはたぶん黎一の手渡した一品による困惑が原因なのだろう。
「――石鹸だ」
「髪がごわごわになっちゃいますよ!?」
平然と、あまりに当然に言った黎一に悲鳴に似た谺の声が浴室に木霊する。
「一日くらいいいだろ」
「ダメです! 女の子は髪を大切にしなきゃいけないんです! 指通り滑らかな髪の方がいいです!」
「だったら返せよ石鹸!」
戸を開けようとすると向こうも阻止しようと抵抗。
「ちょ、なに開けようとしてるんですか。うら若き乙女が入ってるんですよ!?」
「そんなこと知るか。石鹸使わないなら返せよ!」
「誰も使わないなんて言ってないじゃないですか!」
「今の発言で使う可能性なんてないだろ!」
「ありますー、私、今から使いますー」
「おまっ、ワガママだな!?」
「黎一さんは早く桶代わり探してください」
「そして人使い荒いな!?」
すったもんだの末。
結局、石鹸は使用することになり、黎一は桶の代替品を捜索する。
「谺のやつ最初の印象まったくないぞ」
虐められていたのが嘘みたいな自由さだ。
あれだけ自由に動ければ友達の一人でもできそうなものではないだろうか。
「お。これなんかよさそうだな」
最後になった棚にそれらしいことができそうな一品を見つける。何気に使えそうなものが出てきたことで、疲労などからくる異様にテンションが上がってくる。
「谺、いいもの発見したぞ」
「ちょうどよかったです。今、髪を洗ってるところでして」
意気揚々とした足取りはまるで小躍りでもしそうなステップ。
そこで気づいていれば回避できたかもしれない。
しかし気づかなかったのだから回避できるわけもなく――。
「あ」
なにかに足を取られてつんのめる。
そういえばと視線を足元に向けると、さっきは意識して見ないようにしていた制服が目に入る。そして必然的に傍に落ちている可愛らしいデザインの布切れも入ってくるわけで。
「はぶぉ!?」
「きゃ!」
盛大な音を立てて戸を倒し、体の前面に響く痛みに堪える。
「いでぇ……」
痛みを堪えつつ四つん這いに起き上がると、目の前の光景に絶句する。
またしても霧に包まれたのかと一瞬危機感に襲われる。
しかしその心配は無用。
なぜならそれは霧ではなく浴槽から立ち上る湯気によるもの。
だとすれば――。
「…………」
目が合った。
今日会ったばかりの同級生。
わけのわからない状況から共に生還することで、それなりに交友が深まった少女。
闖入者の登場で驚きに見開かれた目は血のように赤く、色素の薄い髪はしっとりと濡れていた。
温まった肌は平時よりも赤味を帯び、それを隠すように覆う泡がなんとも扇情的だった。
「れ、黎一……さん?」
「ご注文の品をどうぞ」
そう言って黎一が献上したのはスポ魂漫画で見るようなヤカンだった。