プロローグ
鴉の鳴き声が闇に響き渡る。
男はその中を必死の形相で走っていた。
流れる汗によって髪は肌に張り付き、纏う服はまるで雨に打たれたように濡れている。
重くなっていく一方の足を引きずるようにして動かす。
それ以外に考える暇≪いとま≫を持たないように集中しなければならなかった。
それでも背後に感じる異質な空気あるいは雰囲気に、振り向きたい衝動に駆られる。
首の筋肉を意識的に力まなければすぐにでも顔が後方へ向いてしまうと男自身は思う。
追われる焦燥感。
終わりの見えない絶望感。
どうしてこんなことになったのか……。
始まりは車のエンジントラブル。
町場まで徒歩一時間はかからない距離。
問題はそこが山間であること、時間が夕暮れ時だったということ。
定時で帰宅すればよかったのか。
不調を感じていた車を早急に整備するべきだったのか。
全てはタイミングであり、起こってしまったことは覆らない。
不意に背後に迫る気配を感じた。
後方でそれが存在しているのを肯定するように枯れ枝か何かの折れる音が聞こえた。
不安。緊張。恐怖……それらが綯い交ぜになった感情に紛れるようにして、ある行動原理が鎌首をもたげるのを男は感じていた。
その行動原理とは好奇心。
集会などで突然の訪問を告げる音があれば、それが気になり振り向くように。
お化け屋敷やホラー映画を、怖がりなのに見に行くように。
男は振り返った。
振り返ってしまった。
そして男はそれを見た。
照らすもののない闇の中で、それでも蠢いているとわかるそれらが自身に迫ってきているのを。
それから間もなく、男の断末魔の叫びが響く。
反応したのは近くにいた鴉。
驚きに羽ばたいたあと――山間には静寂だけが残された。