風の巫女になったパン屋の娘、婚約破棄される
一
デュヴェルネ家の大広間は、天井まで金色をしている。
比喩ではない。漆喰の葉飾りも、柱の溝も、燭台の脚も、すべてが金箔で覆われていて、千本の蝋燭の光を幾重にも投げ返している。入学してから一年、何度この屋敷に招かれても、わたしはこの眩しさに目が慣れない。
聖ソル王立学院、新入生歓迎の夜会。主催はデュヴェルネ家――学院最大の寄進者であり、王国の徴税請負人の筆頭であり、わたしの婚約者の家だ。
「ジャネット・ポワン」
長い時間コルセットに締めつけられた脇腹のかゆみ、これをどうやって抑えればいいのかと考えていたときのことだ。音楽が止む。
広間の中央、シャンデリアの真下で、レオン様がわたしの名を呼んだ。その左腕にはマリー=アンヌ・ド・ネール様の白い手袋が絡んでいる。
嫌な予感というものを、わたしはこのとき初めて、はっきりと肌で知った気がする。
「君との婚約を、今夜をもって破棄する」
ざわめきが波のように壁際へ広がり、黄金はそれさえ反射しているようだった。その光で酔ったように視界が歪む。咄嗟にわたしは膝を折った。ドレスの裾を摘まむ指が震えないようにと。考えることができたのはそこまでだった。
「……承知、いたしました」
思ったよりも、まともな声が広間に落ちた。
でも頭の中は真っ白だった。いや、激しい鼓動が次から次へと脳裏に数字を刻みつける。
まずはこのドレス。淡い水色の絹に銀糸の刺繍。仕立て屋が「お嬢様のお色ですわ」と言った一着。いくらしたのか想像もつかないけれど、うちのパン屋が十年働いても稼げない額だということぐらいはわかる。
首の真珠。靴の留め金。髪に挿した美しい装飾のついた羽根。学院の授業料。寮費。教本代。
それから、実家に毎月届いているという「支度金」。父さんはそのお金で、ひびの入った窯を直した。今年の冬は薪の心配をしなくていい、と母さんの手紙には書いてあったっけ。
それらは全てデュヴェルネ家のお金なのだ。
婚約がなくなったら。
返せと言われたら。
足の裏からどうしようもない震えと共に冷たいものが這い上がってくる。父さんと母さんが債務者として牢に入れられる姿が、あまりにもはっきりと目に浮かぶ。店の隣の、靴屋のおじさんがそうだったから。借金を返せなくて、ある朝役人が来て、それきり帰ってこなかった。
「何をそんなに青い顔をしている」
レオン様が笑う。マリー=アンヌ様も、きっと扇の陰で。
「心配するな。君に使った金を返せとは言わない。デュヴェルネ家は施しを惜しむような家ではないからね」
施し。
「教会が風の巫女様だと言うから、おまえに期待したんだ。それがどうだ。一年経っても、そよ風ひとつ起こせない。礼儀も知らない、話も合わない。僕は騙された気分だよ。だが、まあ……」
レオン様は、わたしを見下ろした。
「卒業ぐらいはさせてやる。学費は出してやろう。それで十分だろう? パン屋の娘には過ぎた恩情だ」
周りから、くすくすと笑い声が漏れる。
わたしは膝を折ったまま、顔を上げることもできない。
ありがとうございます、と言うべきなのだろうか。
わたしは顔を伏せたまま、この表情を誰にもみられないことを願い続けた。
二
わたしが風の女神アウラ様に寵愛されていると知れたのは、十五の春だった。
十五になった子どもは、教会で光の神ソル様の聖輝玉に手をかざす決まりがある。普通は何も起きない。ほんのりと光れば、それだけで村の噂になる。
わたしが手をかざしたとき、オーブは光らなかった。
そのかわり、閉め切った聖堂の中で、すべての蝋燭の火が同じ方向へなびいた。
司祭様が腰を抜かし司教様が呼ばれ、三日後には王都から枢機卿の使いがやって来るという大騒ぎ。
風の巫女。一世代にただ一人の奇跡の存在。
そう告げられても、父さんも母さんもわたしも、ぽかんと口を開けているばかりだった。
◇
デュヴェルネ家からの縁談が来たのは、その十日後だ。
立派な馬車。立派な服の代理人。テーブルに積まれた、見たこともない金貨の袋。
「ご令嬢の将来は、デュヴェルネ家がお引き受けいたします」
父さんは粉だらけの手を前掛けで何度も拭きながら、「は、はい」「へえ」と繰り返すばかり。母さんはわたしの背中に手を当てて、小さく震えていた。
わたしはその光景をみても何も感じなかった。嬉しいとも、嫌だとも。
ただ、ああ、そういうものなのだ、と思った。偉い人たちが決めたことなのだ。わたしみたいな者に、お貴族様が手を差し伸べてくださったのだ。恐れ多いことなのだ、と。
初めてお会いしたレオン様は、金色の巻き毛の、絵から抜け出してきたような方だった。
「君が風の巫女か。思ったより小さいな」
そう言って笑った顔が少しだけ優しく見えたのを、いまも覚えている。
このお方を好きになろうと思った。
好きになるのが、婚約者というものなのだろうから。
◇
学院での生活は、一日目から失敗の連続だった。
ナイフとフォークは外側から使うものだなんて、誰も教えてくれない。お辞儀の深さを相手の爵位で変えることも知らない。伯爵令嬢に子爵令嬢と同じ角度で頭を下げて、その日のうちに学年中の噂になった。
パンはちぎらずにかじる。ショコラは音を立ててすする。扇の閉じ方に意味があるなんて知らないから、「もうお話ししたくありません」という合図を、一日に十回も出していたらしい。
誰も意地悪はしなかった。少なくとも、表立っては。
ただ、わたしの隣の席は、いつも空いていた。
最初の頃のレオン様は、よく構ってくださった。昼食に誘ってくださったり、宝石や扇を贈ってくださったり。けれど魔術実技の時間、ほかの子たちが火や水を操る中で、わたしの手のひらの上では埃ひとつ動かない。そのたびに、レオン様の笑顔は少しずつ薄くなっていった。
「巫女様。今日も凪かい」
そう言われるようになったのは、秋のこと。
その頃にはもう、レオン様のまわりにはいつもマリー=アンヌ様たちの姿がある。デュヴェルネ家の財力を、あの方々はよくご存じなのだ。わたしよりも、ずっと。
それでもわたしは、講義が好きだった。
星の運行。古い王朝の歴史。精霊の系譜。言葉の成り立ち。パン屋の娘なら一生知らずに終わったはずのことが、毎日、本の中から溢れ出してくる。誰も隣に座らない教室の、いちばん前の席で、わたしは夢中で筆を走らせた。
◇
その隣の席に、ある日、勝手に座った人がいた。
「お前、ノートの字が汚いな」
フェルディナン・ド・ラ・マルシュ様。辺境伯の次男だと名乗った人。黒髪で、背が高くて、灰色の目がいつも眠そうで、そして驚くほど整った顔立ちの青年だ。
「も、申し訳ありません」
「謝るな。あと隠すな。写せなくなるだろ」
わたしのノートに、写す価値などあるとは思えない。けれどフェルディナン様は、それから毎日、わたしの隣に座るようになった。
そして、驚くようなことを、驚くほど平然とおっしゃるのだ。
「お前の目は、晴れた日の空の色をしているな」
この辺境の方は、詩をたしなまれるのだろう。
「デュヴェルネとの婚約は、お前が望んだのか」
「恐れ多いことでございます」
「答えになっていない」
婚約者のいる身で、ほかの殿方とそういうお話をしてはいけない。わたしはレオン様に見られることを恐れたが、レオン様はマリー=アンヌ様との会話に夢中の様子だ。
「昼は一緒に食え。お前が一人で食べているのを見ると、飯がまずくなる」
こんなわたしを憐れんでくださっているのだ。とてもお優しい方。
「俺は、お前が好きだ」
「はい。わたしも、ラ・マルシュ様のことを心から尊敬しております」
そのとき、フェルディナン様が額に手を当てて天を仰いだ理由が、わたしにはさっぱりわからない。
横でジュヌヴィエーヴ様が、声を殺して肩を震わせていた。
◇
ジュヌヴィエーヴ・デオン様は、フェルディナン様の従姉妹だという。
亜麻色の髪をきっちりと結い上げた、すらりとした美人で、わたしが何か失敗をするたびに、そっと隣に来てくださった。
「ナイフは外から。大丈夫、私も最初は間違えたわ」
「扇はこう。ほら、閉じるときは手首を返さないの」
「あの子たちの言うことは気にしなくていい。あなたは何も悪くないもの」
寮の部屋で、夜遅くまで礼法の練習に付き合ってくださったこともある。わたしにとって、学院でたったひとりの、友達と呼べる人。
ある日のこと二人で衣装の仕立て屋を呼んだときのことだ。ジュヌヴィエーヴ様は鏡に映る自分の姿を鋭い目つきで睨みつけていた。
「私はお嬢様なんだろうか?」
よくわからない質問をご自身に向けてなさっていた。
「いつも凛々しくてお美しいですよ」
わたしの言葉に顔を真っ赤にして黙り込む姿は可愛らしかった。
ほかにも、ときどき不思議に思うことがあった。
ジュヌヴィエーヴ様の手のひらは、貴族のお嬢様とは思えないほど硬かった。毎朝パン生地をこね続けてきた母さんの手よりも。
それに廊下の角を曲がるとき、あの方は必ず一歩先に出る。まるで、何かを確かめるみたいに。
◇
学院長のフルーリ枢機卿様に呼ばれたのは、冬の初めだった。
「アウラの教義を知っているかね」
小柄で白い髭の穏やかなお爺様。教壇から慈しむように生徒たちをみつめる眼差しが好きだった。
「は、はい。『風は自由の女神の息吹なり』……」
「続きは?」
「……『アウラは己の意思を持つ者にのみ、その息吹を与う』」
「そうだ」
学院長様は、わたしの顔をじっとご覧になった。
「ジャネット。きみは、何を望んでいるのかね」
わたしは答えられなかった。
望み。そんなもの、考えたこともない。
父さんと母さんが困らないように。レオン様に恥をかかせないように。教会の権威に傷をつけないように。学院の皆様のご迷惑にならないように。
それは、望みとは違うのだろうか。
「……わかりません」
「そうか」
学院長様は、それ以上何もおっしゃらなかった。ただ、少しだけ寂しそうに笑われた。
◇
わたしはレオン様を好きになろうとしていた。
本当に、しようとしていたのだ。
贈られた扇は、毎日持ち歩く。レオン様のお好きな狩猟のことを、図書館で調べる。お手紙を書く。返事が来なくなってからも書き続けた。
好きになるのが婚約者の務めなら、務めを果たしていれば、いつか本当に好きになれると思っていたから。
レオン様から届いた手紙を何度も読み返した。その手紙の束は、いまも寮の机の引き出しに大切に保管している。
出せなかったわたしのものも何通か。
三
――ありがとうございます、と言うべきなのだろうか。
磨き上げられた寄木細工の床の冷たさを膝に感じながら、わたしはまだ、そればかりを考えている。
「礼の一つも言えないのか。本当に、最後まで――」
「言う必要はない」
低い声とともに人垣が割れた。フェルディナン様が、まっすぐこちらへ歩いてくる。半歩後ろに、ジュヌヴィエーヴ様。
フェルディナン様はわたしの前で止まると、手を差し出した。
「立て、ジャネット。お前が膝を折る相手じゃない」
「ラ・マルシュ……。辺境の田舎者が、何の用だ」
レオン様の声が、少しだけ上ずっている。
「用ならある。だがお前にではない。お前の父親にだ」
フェルディナン様は広間の奥、一段高くなった主催者席を見上げた。
デュヴェルネ様。レオン様のお父様。金糸の上着に白い鬘、指という指に指輪をはめた、恰幅のいい方。
「デュヴェルネ。王国南部三州の徴税請負について、帳簿の写しがここにある」
ジュヌヴィエーヴ様が、革の書類挟みを掲げた。
「請負額と実際の徴収額の差は、四年間でおよそ八百万リーヴル。さらにそこから、王家への貸付金という名目で、国庫から利子を二重に引き出している。……よくもまあ、ここまで」
広間が凍りついた。
デュヴェルネ様の顔から、すうっと血の気が引いていく。遠目にもそれがわかる。
けれどそれは一瞬で、次の瞬間、あの方は笑い始めた。
「辺境伯の次男坊が、何の権限があってそのようなことを」
「権限なら、ある」
フェルディナン様が、上着の内側から何かを取り出した。
金の印章。刻まれているのは、百合の紋。
その意味がわからない人間など、この広間にはひとりもいないだろう。わたしでさえ知っている。銀貨にも、教会の扉にも、それは刻まれているのだから。
「ルイ=フェルディナン。国王陛下の名代として、この一年、学院に身を置いた」
「は、……はいっ?」
わたしは、差し出されたままの手を見つめる。毎日わたしのノートを奪っていった手。わたしの皿に、黙ってパンをひとつ多く載せていった手。
王太子殿下。
わたし、王太子殿下に、何回話を終わらせようとして「尊敬しております」って言った……?
誰かが息を呑み、誰かが膝をつきかけた。
けれど、デュヴェルネ様の大音声が、それを遮った。
「――偽者だ!」
広間の空気が、びりびりと震える。
「王太子殿下が、辺境の学生に身をやつして学院に通われるなど、ありえぬ! この中の誰が、殿下のお顔を存じ上げている! 印章など、いくらでも偽造できる。王族の名を騙るは死罪である。者ども! この詐欺師を捕らえよ!」
そのとおりだと思ってしまった。
誰も王太子殿下のお顔を知らない。宮廷の儀式でさえ殿下は遠い玉座の陰にいらっしゃるだけで、肖像画は天使のように美しく描かれていて、わたしの隣でノートを写していた人と同じ顔だなんて、誰にも言えない。
だからこそ、この方は一年もの間、学院にいられたのだ。
そしてだからこそ、ここで殺されても「詐欺師を成敗した」で済まされてしまう。
広間の扉が一斉に開いた。なだれ込んできたのは、デュヴェルネ家の私兵。二十人、いや、もっと。その後ろに、赤い長衣の男がひとり。火の術師だ。
悲鳴が上がり、令嬢たちが壁際へ逃げまどう。レオン様は寄り縋ろうとするマリー=アンヌ様の手を振りほどいて、ただ立ち尽くしているだけ。
「ジュヌ」
「はい、殿下」
ジュヌヴィエーヴ様が、ドレスの腰に手を入れた。
引き抜かれたのは、細身の剣。
スカートの裾が裂ける音がして、その下から、乗馬用の脚衣と長靴がのぞいた。
「ジャネット、下がっていて」
声はいつもの優しい声のまま。けれどそれはもう、わたしに扇の閉じ方を教えてくれた人の声ではない。
殿下も最初に斬りかかってきた私兵から剣を奪っていた。
それからのことは、目で追うのがやっとだった。
殿下の剣はまるで踊っているよう。一人目の槍をいなし、二人目の手首を打ち、三人目を蹴り飛ばす。ジュヌヴィエーヴ様は殿下の背中に張りつくように動いて、死角から来る刃を、ことごとく弾き返していく。
私兵たちが、次々と床に転がっていく。
強い。この方たちは、こんなに強かったのだ。
殿下が勝つ。広間の誰もがそう思ったはずだった。
赤い長衣の術師が、両手を掲げるまでは。
炎が床を這った。
寄木細工の床の上を、火の舌が蛇のように走り、殿下とジュヌヴィエーヴ様をぐるりと取り囲み、黒い煙を噴き上げる。燭台の火を吸い込んで、炎はさらに膨れ上がった。
「殿下!」
ジュヌヴィエーヴ様が激しく咳き込む。殿下が煙を吸い込んで片膝をつくのが見えた。炎の輪の外から、私兵たちが槍を構え直している。
わたしは二人のもとへ駆け出そうとした。その腕を太い手がつかんだ。
「巫女様は、こちらへ」
デュヴェルネ様だ。いつの間に壇を降りてきたのか、指輪だらけの指が、わたしの手首に食い込んでいる。
「ご安心を。あなたには何の咎もない。あなたはただ、明日、教会でこう証言してくださればそれでよい。『辺境の学生が王太子殿下の名を騙り、デュヴェルネ家を脅した』と。そうすれば、ご両親への支度金はこれからも変わらずお届けしましょう。息子との婚約も、私から取りなして差し上げる」
耳元で甘い声がささやく。
「簡単なことでしょう。あなたはいつも、私の言ったとおりにしてきた。それに間違いはなかった。今度もそうすればいいだけだ。おとなしく――」
父さんの窯。母さんの薪。帰ってこなかった靴屋のおじさん。
言われたとおりに。
そういうものだから。
恐れ多いことだから。
炎の向こうで、殿下が顔を上げた。煤だらけの顔で、灰色の目が、まっすぐにわたしを見ている。
――デュヴェルネとの婚約は、お前が望んだのか。
――答えになっていない。
――ジャネット。きみは、何を望んでいるのかね。
わたしは。
わたしはこの方を見殺しにしたくない。
ジュヌヴィエーヴ様を失いたくない。
父さんと母さんを、こんな人のお金で養われたままにしておきたくない。
そして、わたしはもう、言われたとおりにしたくない。
「……嫌です」
声は小さかった。
「何?」
「嫌です」
今度ははっきりと言えた。
生まれて初めて、口にした言葉だった。
その瞬間、広間中の蝋燭の火が、一斉に、同じ方向へなびいた。
十五の春、聖堂で見たのと同じ光景。でも、あのときとは違う。胸の奥で、何かがほどけていく。きつく結ばれていた紐が、ふっと緩むみたいに。
風が生まれた。
窓という窓が内側から弾け、カーテンが天井まで舞い上がる。デュヴェルネ様の手がわたしから引き剥がされ、あの方は鬘ごと床に転がった。
わたしは手を伸ばした。どうすればいいのか風が教えてくれる。
煙を吹き飛ばし、炎を押し戻す。
殿下の前に、道を開く。
風はわたしの指先に従って、殿下を囲む炎の輪を真っ二つに裂いた。黒煙が渦を巻き、割れた窓から夜空へ吸い出されていく。
澄んだ空気の中に、殿下が立っていた。
「――上出来だ」
にやりと笑って、殿下は跳んだ。
術師が二度目の炎を放つ。わたしはそれを風の力で横へ逸らす。殿下の剣が、術師の杖を両断する。ジュヌヴィエーヴ様が、残った私兵の間を駆け抜ける。わたしは二人の背中に、風を送り続ける。追い風になるように。足元の煙が晴れるように。
◇
最後の私兵が剣を捨てたとき、広間の扉から、白い髭のお爺様が入ってこられた。後ろに、青い上着の近衛兵を何十人も従えて。
「遅くなりましたな、殿下」
フルーリ枢機卿――学院長様は、床に這いつくばったデュヴェルネ様を見下ろす。
「手筈が違う。来るのが遅いぞ!」
殿下が床に剣を捨てる。
「私は殿下の腕前と風の巫女様を信じておりますからね」
悪びれるようすもなくフルーリ枢機卿は朗らかに笑う。そして広間を見渡し、穏やかな声でおっしゃった。
「この方が王太子ルイ=フェルディナン殿下であられることは、殿下の傅役を務めたこの私が、教会と王家の名において証しましょう。……さて、デュヴェルネ殿。王族への刃、どう申し開きなさるおつもりかな」
デュヴェルネ様は歯軋りを一度。そして何も答えなかった。
◇
ジュヌヴィエーヴ様が、裂けたスカートのまま、わたしの前に来る。剣はもう鞘に収まっていた。
「……騙していて、ごめんなさい」
わたしは、その硬い手のひらを見た。母さんの手よりも硬い手。
「ジュヌヴィエーヴ様は」
少しだけ声が詰まる。「今でもわたしのお友達ですか?」そんな間の抜けた質問が口をついて出そうになってぐっと堪えた。でも聞かずにはいられなかった。
「わたしに礼法を教えてくださったのも、お役目だったんですか?」
ジュヌヴィエーヴ様は、首を横に振った。
「扇の閉じ方は、お役目には入っていなかったわ」
わたしは笑った。少し涙がでてきて鼻先がつんとした。
四
デュヴェルネ家は、すべてを失った。
爵位は剥奪、財産は王家に没収。デュヴェルネ様には、王族に刃を向けた罪で、死罪が言い渡された。
レオン様にも、同じ判決が下されかけた。父の私兵を止めず、王太子殿下への刃を見過ごした、と。
だから、わたしは殿下のもとへお願いに上がった。
生まれて二度目の、わたし自身の望みだった。
「どうか、レオン様の命だけは、助けてさしあげてください」
殿下は長いこと黙っていらっしゃった。
「あいつは、お前を笑いものにした」
「そうですね」
「お前の気持ちを、踏みにじったのだぞ?」
「……そうかもしれません」
わたしは、引き出しの中の手紙の束を思い出していた。
好きになろうとした。本当に、しようとした。それは結局届かなかったし、もしかしたら、本物の気持ちですらなかったのかもしれない。
だとしても、しようとしたのはわたしだった。
あの一年を、死罪で終わらせたくなかった。
「わたしが、そう望むんです」
殿下は長いため息をひとつ。それから、少しだけ笑った。
「……罪一等を減じ、流刑とする。風の巫女のお言葉とあらば、断れまい」
◇
流刑先は南の島と決まった。
護送の馬車に乗せられる日、レオン様は一度だけ、わたしのほうを振り返った。金色の巻き毛は短く刈られ、頬はすっかり痩けて。
「……卒業ぐらいはさせてやる、と言ったな」
かすれた声。
「命ぐらいは、残してもらった。釣り合わないな」
肩をすくめる。それきりレオン様は前を向いた。
謝罪ではなかった。でも、嘲りでもなかった。
わたしは、馬車が見えなくなるまで、門の前に立っていた。
◇
実家への支度金は、教会が引き受けてくださることになった。風の巫女の暮らしは、本来、教会が保障するものなのだそうだ。誰もそれをわたしにも父さんにも教えてくれなかった。
でもそれは、わたしが訊かなかったからだ。
わたしは学院に残ることにした。二年目の講義が楽しみだったから。
◇
春の終わりの中庭。殿下がわたしの隣に座る。もう辺境伯の次男ではないのに、相変わらず、勝手に。
「ジャネット」
「はい、殿下」
「前にも言ったが、俺はお前が好きだ」
わたしは殿下の顔をまじまじと見た。晴れた日の空の色をしている、と言われた目で。
ああ。
この方はずっと本当のことをおっしゃっていたのだ。
写せなくなるだろ、も。昼は一緒に食え、も。好きだ、も。きっと。
わたしがそのたびに、勝手にべつの意味をこしらえて、片づけてしまっていただけで。
頬がかあっと熱くなる。
「あ、あの」
「返事は」
わたしは膝の上で両手を握りしめた。
恐れ多いことです、と言えば済む。今までのわたしなら、きっとそう言った。
中庭に、小さな風が吹いた。
「……考えさせてくださいませんか」
殿下は目を丸くして、それから、声を上げて笑った。
「ああ。好きなだけ考えろ」
わたしは考えることにした。生まれて初めて、自分のために。
読んでくださりありがとうございました。




