「聖女様は必要ありません」――婚約破棄されたので、私は一夜だけ咲く精霊花で最強ポーションを作って国を捨てます
「聖女セラフィナ、貴様との婚約を破棄する。真の聖女はこのミラだ」
精霊祭の前夜祭。王城の大広間に、王太子アルベルトの声が朗々と響き渡った。
シャンデリアの光がまぶしい。居並ぶ貴族たちのざわめき。ミラが勝ち誇ったように、アルベルトの腕に自分の腕を絡ませている。
私は――セラフィナ・ヴェルミリオは、その光景を眺めながら、内心でこう思っていた。
(え、婚約破棄? むしろご褒美では?)
(円満退職ありがとうございます。退職金は出ませんか。そうですか)
前世の記憶がある。日本の製薬会社で研究職をしていた佐倉澪、三十六歳。過労のすえに死んだ、ブラック労働の犠牲者。
だからこそ、私の信条はただ一つ。
『搾取される場所からは、即撤退』。
「聞いているのか、セラフィナ! 貴様は五年間、聖女の看板を背負いながら、何の華々しい功績も残さなかった。地味に薬を煮ていただけだろう」
地味に薬を煮ていただけ。
その『地味な薬』が王国全土の結界を維持し、魔物の氾濫を五年間ただの一度も許さなかった事実を、この人は本当に理解していない。
私は静かに微笑んだ。愛想ではない。諦観と防御の産物だ。
「かしこまりました、殿下」
「……なんだと?」
アルベルトが眉をひそめる。もっと取り乱すと思っていたのだろう。すがりつき、涙を流し、許しを乞うと。
(残念でした)
私は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。自前のインク壺と共に、その場でさらさらとサインをする。
「その手にある羊皮紙は……これは何だ?」
「退職の書類です。どうぞお納めください」
誰も、その内容を読まなかった。
ミラが「まあ、往生際が悪くなくてよかったですわね」とくすくす笑う。アルベルトは満足げに頷いた。
羊皮紙の一番上には、こう書かれていた。
――『結界維持責任者:セラフィナ。本日をもって、全契約を解除する』。
私は一礼し、踵を返す。
背後で祝宴の音楽が鳴り始めた。私の『退職』を祝う音楽だと思えば、なかなか悪くない。
(さようなら、ブラック王国。次はホワイトな職場を探しますね)
大広間の扉が、私の背後で静かに閉じた。
◆
王都を出て、馬車を乗り継ぐこと三日。
私が辿り着いたのは、王国の最果て――辺境の街レーヴェンだった。
目的地は、この街の冒険者ギルド。前世の知識を活かせば、どこでだって生きていける自信があった。分析化学と植物成分抽出。地味だが、応用の効く技能だ。
「ポーションの納品……だと?」
ギルドの受付で私を見下ろしたのは、身長二メートル近い巨躯の狼獣人だった。
灰銀の狼耳。鋭い黄金の瞳。頬に走る古傷。強面という言葉が服を着て歩いているような迫力に、周囲の冒険者たちが息を呑む。
ギルドマスター、ガルド・ヴォルフハルト。
私は臆せず、持参したポーションを三本、カウンターに並べた。
「傷薬、解毒薬、魔力回復薬です。品質はご自身の目でお確かめください」
ガルドは無言で一本を手に取り、蓋を開け、匂いを嗅ぎ、光にかざした。
その瞬間、彼の耳がぴくりと立った。
「……この純度。魔力の通りの均一さ。おい、あんた、どこの工房で修行した」
「独学です」
「独学、だと」
彼はしばらく私を見つめ、それから、ぽつりと言った。
「王城で搾取されてきた口だな」
私は驚いた。
「なぜ、そう思われるのですか」
「腕がいいのに、自分の値段を知らねえ顔をしてる。……いい仕事をする奴が、正当に扱われねえのが、俺は一番嫌いだ」
ガルドはポーションをカウンターに戻し、私の目をまっすぐ見た。
「うちは違う。働いた分だけ、ちゃんと返す。それが筋だ」
――働いた分だけ、ちゃんと返す。
その言葉が、五年間、いや前世から数えれば数十年間、干からびていた何かに、じわりと染み込んでいくのを感じた。
(ホワイトだ……。ここ、ホワイト職場だ……!)
感動に打ち震える私に、ガルドは不器用に付け加えた。
「……腹、減ってねえか」
そして奥から差し出されたのは、見事に焦げたシチューだった。
強面のギルドマスターが、耳をぺたりと伏せながら、ぼそりと言う。
「……口に合わなかったら、言え」
私は思わず笑ってしまった。心から、久しぶりに。
「いただきます。ありがとうございます」
焦げていても、それは私が異世界で初めて口にする、『誰かが私のために作ってくれた』食事だった。
◆
レーヴェンでの日々は、驚くほど順調だった。
私のポーションはたちまち評判を呼び、冒険者たちが列をなす。「セラフィナの薬なら間違いねえ」――そう言われるたび、正当に評価される喜びを噛みしめた。
そんなある夜のこと。
工房で調合をしていた私の肩に、ふわりと何かが乗った。
「るー!」
手のひらサイズの、淡い光を纏うもふもふの毛玉。頭に小さな花の蕾を載せている。
「あなたは……精霊?」
「るー! るるー!」
その子はぴったりと私の胸元に張りつき、離れようとしない。極度の甘えん坊らしい。
私はそっと指先で撫でてやった。すると精霊は嬉しそうに、体毛の色を虹色に変化させる。
「もしかして、王都からついてきたの? 名前はルル、でいいのかしら」
「るー」
こくり、と頷く。片言ながら、不思議と意思の疎通ができた。
そしてルルは、私の知らなかった真実を語り始めた。
「るる。セラフィナ、やさしかった。花に、まいにち、ありがとうって、いってた」
王都で結界の核として使っていた幻精花。私は毎朝、花に語りかけ、丁寧に世話をしていた。前世の研究職の癖だ。
「植物にはストレスをかけない。愛情を注いだほうが成分の質が上がる。……ただ、それだけのつもりだったのだけど」
「るる。でも、それが、けいやく。せいれいは、あいをそそぐひとに、ちからをかす」
「……契約?」
心臓が跳ねた。
幻精花は、ただ摘めば効く花ではない。精霊との『信頼契約』を結んだ者の手にかかって初めて、精霊蜜という真の力を発揮する。
そして五年間、精霊に敬意を払い、花に愛を注いだ人間は――ただ一人。私だけだった。
「るる。ミラが、はなを、つんでも。せいれいの、しゅくふく、ない。ただの、かれたはな」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、王都の結界を支えていたのは称号でも教会の権威でもない。私と精霊たちの、静かな信頼だった――それを、あの夜、羊皮紙一枚で解除してきた、と」
「るる」
「ねえ、ルル。精霊祭の夜、王都の結界は、どうなると思う?」
ルルは、きょとんと首を傾げてから、にんまりと笑ったように見えた。
「るる。おはなが、さかない。けっかい、きえる」
私は静かに、微笑んだ。
諦観の笑みではない。今度こそ、心からの笑みだった。
(さて。ブラック企業の因果応報は、いつ回ってくるでしょうね)
◆
精霊祭当日。王都は、かつてない華やぎに包まれていた。
「ミラ様、こちらへ! 精霊祭の主役ですわ!」
桃色の巻き毛を揺らし、ミラは得意満面で祭壇へと歩んだ。
祭壇の中央には、この夜だけ咲く幻精花が一輪。今宵、この花から精霊蜜を採取し、王国の結界を一年分更新する――それが聖女の最も重要な務めだった。
「簡単ですわ。こんなの、花を摘んで、絞ればいいだけでしょう?」
ミラは軽やかに花に手を伸ばした。アルベルトが誇らしげにそれを見守る。
「見ろ、これが真の聖女の姿だ。セラフィナには一度もこんな華やかさはなかった」
ミラの指が、幻精花を摘み取る。
――ぷつり。
しかし。
花からは、一滴の蜜も、滴らなかった。
「……あら?」
ミラは花を握りしめ、力を込める。ぎゅっ、ぎゅっと。だが花は、みるみるうちに色を失い、枯れていく。手のひらの上で、乾いた花びらがぱらぱらと崩れ落ちた。
「な、なんで? どうして枯れちゃうの?!」
祭壇を取り囲む結界の光が、明滅を始めた。
貴族たちがざわめく。神官長が青ざめて叫ぶ。
「結界が……結界が消えていく! ありえない、なぜだ!」
その時、王都を囲む山の稜線から、地鳴りのような咆哮が轟いた。
五年間、結界に阻まれ続けてきた魔物の群れ。その飢えた影が、堰を切ったように王都へと押し寄せてくる。
「魔物だ! 魔物の氾濫だぞ!」
悲鳴。逃げ惑う人々。崩れる祭りの提灯。
アルベルトは呆然と立ち尽くし、それから喉が裂けんばかりに叫んだ。
「セラフィナを呼び戻せ! あの女なら結界を張れるはずだ! 今すぐ連れてこい!」
駆け込んできた文官が、震える手で一枚の羊皮紙を差し出した。
「で、殿下……これを……あの断罪の夜、セラフィナ様が残された書類を、今になって読みまして……」
アルベルトはひったくるように羊皮紙を奪い、目を走らせた。
――『結界維持責任者:セラフィナ。本日をもって、全契約を解除する』。
「な……なんだ、これは……!」
「法的にも、精霊契約的にも……セラフィナ様は、もう王国とは無関係でございます。あの方を縛る術は、我らには……何一つ、ございません」
アルベルトの手から、羊皮紙が滑り落ちた。
ミラは枯れた花を握りしめたまま、その場に膝をつく。
「うそ……わたし、聖女なのに……なんで、なんでなの……!」
答える者は、誰もいなかった。
遠くで、また一つ、魔物の咆哮が響いた。
◆
同じ夜。辺境の街レーヴェンは、静かな奇跡に包まれていた。
「セラフィナ! 見てくれ、これは一体……!」
ガルドが珍しく声を上ずらせて工房に飛び込んできた。私は彼に連れられ、外へ出る。
そして、息を呑んだ。
街のはずれの丘。そこに――幻精花が、一面に咲き誇っていた。
本来なら王都の祭壇に、この夜、たった一輪だけ咲くはずの幻の花。それが、辺境の夜風に揺れて、月光の下、満開に群れている。
「るー! るるー!」
ルルが嬉しそうに私の周りを飛び回る。そして、その後に続くように――無数の光が、夜空から降ってきた。
小さな精霊たち。虹色に瞬く光の粒が、次から次へと、丘に舞い降りてくる。
「精霊たちが……移り住んできたのか」ガルドが呆然と呟く。
私は、彼らの声を聴いた気がした。
『あなたのそばがいい』
『ここには、愛を注いでくれる人がいる』
胸が熱くなる。
王都は、称号を奪った。功績を奪った。婚約者を奪った――いや、あれは差し上げたのだけれど。
でも、精霊たちだけは、誰にも奪えなかった。彼らは、自分の意思で、私を選んでくれた。
「ガルド。私、この地に新しい結界を張ります。ここを、精霊たちが安心して暮らせる場所にします」
ガルドは古傷のある頬を緩め、ぶっきらぼうに頷いた。
「……ああ。手伝うぜ。この街には、昔、守れなかった連中がいる。あんたの花で、こいつらの眠る土地が守られるなら――俺は、それでいい」
彼の横顔に、一瞬、深い影が過ぎった。
この辺境が、かつて魔物の氾濫で滅びかけたこと。ガルドが『守れなかった者たち』への贖罪で、獣人の里を再建してきたこと。私はまだ、その全てを知らない。
でも、いつか聞かせてほしいと思った。
「その話、いつか聞かせてください。……ありがとう。みんな」
私は幻精花の丘に膝をつき、そっと一輪に触れた。
花は、私の手の中で、とろりと甘い精霊蜜を滴らせる。
満開の幻精花に囲まれて、辺境の空に、新しい結界の光が静かに立ち上っていった。
◆
それから数日後。
私の工房の前に、二つの人影が現れた。
泥まみれの、みすぼらしい姿。かつての栄光など見る影もない。
王太子アルベルトと、ミラだった。
「セラフィナ……頼む、王都に戻ってきてくれ。魔物の氾濫が止まらないんだ。城下は半壊し、民は逃げ惑っている。結界を、もう一度、君の力で……」
あの傲慢な男が、頭を下げている。ミラも、泥だらけの顔で涙を流していた。
「ごめんなさい、セラフィナ様……わたし、知らなかったんです。花が、あなたじゃなきゃ咲かないなんて……お願い、助けて……!」
私は、工房の戸口に立ったまま、二人を静かに見下ろした。
怒鳴らない。詰らない。ただ、淡々と。
「殿下。一つ、確認させてください。あの断罪の夜、私が差し出した羊皮紙を、殿下はお読みになりましたか?」
アルベルトの顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「……読まなかった」
「ミラ様。あなたは、幻精花を摘む前に、一度でも精霊に敬意を払いましたか? 花に、ありがとうと声をかけましたか?」
ミラは、言葉に詰まる。
「……そんなこと、しませんでした」
「そうですか」
私は、ふっと微笑んだ。諦観でも、防御でもない。ただ、清々しいほど静かな笑みだった。
「私は五年間、毎朝、花に声をかけました。精霊たちの名を覚え、一人ひとりに礼を尽くしました。結界は、聖女の称号が張るものではありません。愛を注いだ者の手に、精霊が応えて張るものです」
「そ、それなら、これからでも――」
「いいえ」
私は、はっきりと遮った。
「もう、遅いです」
そして、告げた。前世からずっと、いつか言ってやりたかった、その一言を。
「御社との契約は終了しました。――転職先はホワイトなので」
アルベルトが、絶句する。
ミラが、へなへなとその場に崩れ落ちた。
その時、私の背後から、大きな影がぬっと現れた。
ガルドだ。二メートルの巨躯で腕を組み、黄金の瞳で二人を睥睨する。
「聞いての通りだ。セラフィナはうちの職員でな。二度と、この街の敷居をまたぐな」
強面の獣人の一喝に、アルベルトは腰を抜かさんばかりに後ずさった。
「るー!」
ルルも私の肩の上で、精一杯胸を張って威嚇している。もふもふが。
私は二人に背を向けた。
「お引き取りください。結界の張り方なら、精霊への敬意から学び直すことです。――もっとも、精霊たちはもう、この辺境にしかいませんが」
工房の扉が、静かに閉まる。
かつて私を切り捨てた者たちが、今、泥の中で立ち尽くしている。
でも、私はもう振り返らなかった。
前を向く人生に、後悔を積む余白はいらない。
◆
その夜、辺境レーヴェンで、ささやかな精霊祭が開かれた。
王都のそれとは違う。シャンデリアも、着飾った貴族もいない。
あるのは、満開の幻精花の丘と、篝火と、集まった街の人々。そして、無数の精霊たちの光。
「ほら、食え。今日は特別に、焦がしてねえぞ」
ガルドが得意げに料理を差し出す。今度こそ、ちゃんと美味しいシチューだった。
「るー! るるー!」
ルルが花の蜜を頬張って、幸せそうに虹色に光る。
私は篝火のそばに座り、丘一面の幻精花を眺めた。
一夜だけ咲く、幻の花。これまで誰にも顧みられなかった、私の価値の象徴。
その花が今、この辺境の地で、こんなにも堂々と咲き誇っている。
(悪くない人生だ)
前世で過労死した佐倉澪。転生して搾取された薬師聖女セラフィナ。
どちらの私も、やっと――報われた気がした。
その時。
丘の中央の幻精花が、ひときわ強く輝いた。
藍色の光が立ち上り、人の形を取っていく。
夜空を溶かしたような長い髪。性別を超越した中性的な美貌。全身から荘厳な精霊光を放つ、古き存在。
「精霊王……ウンディオール様」
ルルが、すっと姿勢を正した。あの甘えん坊のもふもふが、使者としての顔を見せる。
精霊王は、静かに私の前に降り立った。
「セラフィナよ」
その声は、荘重で、含蓄に満ちていた。
「五年の間、我らは見ていた。名も無き実務者として、ただ黙々と結界を守り、精霊に真摯な敬意を払い続けたお前の姿を」
私は、言葉を失った。
「人間の権威が定めた『聖女』の称号など、空虚なものよ。花は、正しく愛を注いだ者の前でだけ咲く。――お前はとうに、我らの聖女であった」
精霊王の手が、私の額に触れる。
温かな光が、体の芯まで満ちていく。
「今、正式に授けよう。真の聖女の称号を。誰にも奪えぬ、精霊たちの総意によって」
丘の精霊たちが一斉に舞い上がり、祝福の光が花吹雪のように降り注いだ。
「るー! るるー!」ルルが泣きながら私の胸に飛び込んでくる。ガルドが、静かに、しかし誇らしげに頷いていた。
そして精霊王は、一通の書状を私に差し出した。
藍色の封蝋。見覚えのない、けれど気品ある紋章。
「この書状は……?」
「隣国からの正式な招待状だ。彼の国もまた、精霊との絆を失いかけている。お前の力を――いや、お前という人間を、求めている」
私は、その招待状をそっと受け取った。
「まだ、決めなくてよい」精霊王は微笑んだ。「お前の人生は、もうお前だけのものだ。搾取される場所からは、いつでも去ればいい。愛を注げる場所を、自分で選べばいい」
その言葉が、胸に染みた。
『搾取される場所からは、即撤退』――前世からの信条。
でも今の私は、もう一つ知っている。
愛を注いだ場所は、必ず、応えてくれるということを。
精霊王の姿が光に溶けて消え、後には満開の幻精花だけが残った。
私は、隣に立つガルドを見上げた。
「ねえ、ガルド。隣国、一緒に行ってみる?」
ガルドは一瞬固まり、それから耳をぺたりと伏せて、ぶっきらぼうに答えた。
「……お前が行くなら、どこへだって行く。飯は、俺が作る」
私は笑った。
「ふふ。……それは、とても心強いですね」
篝火の向こう、幻精花が夜風に揺れる。
一夜だけ咲くはずのその花は、今夜だけは、いつまでも枯れそうになかった。
次の物語への扉が、静かに、けれど確かに、開き始めていた。




