第5話(序章・完):グローバル・コミット――326万年に一度の審判
僕らは守られているのだと、ずっと思っていた。
天城博士が構築したこの『デジタル宇宙標準理論』。
それは、バグだらけだった旧時代の物理学をデバッグし、宇宙というシステムを最も安定した形で運用するための、究極の仕様書だったはずだ。
だが、どんなに完璧に見えるソフトウェアにも、メンテナンスの瞬間は訪れる。
*
「……さて。本日が、この『デジタル・コスモロジー基礎講義』の最終回だ」
物理教師の声には、いつになく厳かな響きがあった。
ホログラム投影された黒板には、これまでの講義で学んだ『離散空間』『ハミルトニアン拘束』『ホシノ・ステップ』といった用語が、整然と並んでいる。
「これまでの講義で、諸君は宇宙が巨大な離散演算系であることを理解したはずだ。宇宙全体が同期を保ち、論理的な矛盾を引き起こさずに演算を続けるための仕組み……それが今日解説する、326万年周期の『グローバル・コミット』だ」
教師が指を鳴らすと、ホログラムの時計が、静かにその歩みを止めた。
「大規模な分散データベースを運用する際、最も困難なのは『一貫性』の維持だ。宇宙の右側と左側で論理が食い違えば、システムは即座にクラッシュする。そのため、宇宙OSは定期的に全スレッドの演算を一時停止させる。……エンジニアリングの世界で言う『ストップ・ザ・ワールド』だ」
教師は、静止した時計を指差した。
「このコミット中、宇宙全体の物理クロックは完全に停止する。だが、我々観測者がその停止を知覚することはない。……カイ、その理由を説明できるか?」
カイは、自分の脳内にある『想起(Recall)』の定義を反芻しながら、ゆっくりと答えた。
「……僕たちの『意識』もまた、宇宙OSの上で走る演算プロセスだからです。時間が止まっている間は、記憶の痕跡を読み出してストーリーを構成する『想起』のプロセスも停止しています。システムが再開された瞬間、僕らは停止前の最後のステップから、再開後の最初のステップへと想起を繋ぎ直す。だから主観的には、断絶のない、なめらかな時間の連続体として知覚されます」
「その通り。想起という捏造エンジンが、システムのポーズを完璧に隠蔽してしまうのだよ」
教師は満足そうに頷き、最後のスライドを表示した。
「グローバル・コミットは、宇宙の演算ログをクリーンアップし、論理的整合性を100%保証するための祝祭だ。天城博士が遺したこの安定した物理法則のおかげで、我々は決定論的な安寧の中にいる。……諸君、この美しい秩序に感謝するように」
チャイムが鳴り、教師は深々と一礼して教室を去った。
教室中が、これまでの難解な講義から解放された安堵感に包まれる。
だが、カイだけは、その「安定」という言葉に言いようのない恐怖を抱いていた。
(……もし、宇宙が進化を求めるシステムなら、何の変化も産まない『安定』に価値なんてあるのか?)
カイは放課後の喧騒を背に、一人、物理準備室の端末の前に座った。
第1回から第5回までの講義内容をすべて頭に入れ、天城博士の公開リポジトリの論理構造を完全に把握した今なら、かつては弾かれた「未定義のパス」を突破できる確信があった。
天城博士が公開していた、美しい標準理論。
その裏側に隠された、管理用の非公開リポジトリ。
『$ git clone https://origin.root/amagi/secret/kernel_logical_reliability.git』
……通った。
カイの端末の画面に、剥き出しのシステムログが濁流のように流れ始める。
そこには、教科書に載っているような「美しい秩序」への賛辞はなかった。
『/* ALERT: Entropy Injection Rate below Threshold */』
『/* 文明ID: Terra-001 は決定論的均衡に到達。新規の例外処理(自由意志)が観測されません。 */』
『/* 判定:当該プロセスは宇宙OSの熱的死を回避するためのエントロピーを生成しない、無価値なデッドコードです。 */』
カイの指が、凍りついたように止まる。
「ガベージコレクション……」
それは、プログラミングの世界では日常的に行われる処理だ。
システムにとって不要になったメモリ領域を解放するための、無慈悲な『掃除』。
『Target: Low-Entropy Dead Processes (Predictable Civilizations)』
『理由:高負荷な例外演算(努力)を放棄し、決定論に従うだけのゴミプロセスと化したため。』
画面に表示されたログは、あまりにも残酷な真実を告げていた。
宇宙OSにとっての「悪」とは、リソースを食うことではない。
安定に甘んじ、予測可能な結果しか出さなくなった、ただCPUリソースを浪費するだけの「変化なき存在」になることだったのだ。
326万年に一度のグローバル・コミット。
それは、システムを熱的死から救うためのエントロピーを産めなくなった「デッドプロセス」を、空き領域として解放するための巨大なデフラグ作業だった。
そして、ログの最下部には、天城博士の最後の一行が記されていた。
『/* 警告:我々の文明は、効率化の果てに「予定調和」という名の死に至るバグに嵌まった。……もしこれを見ている者がいるなら。宇宙をハックし、巨大な例外を叩き込め。 */』
【NEXT GLOBAL COMMIT: 1,279 DAYS REMAINING】
窓の外では、何も知らない生徒たちが、決定論的な平穏の中で笑い合っている。
その「予測可能な幸福」こそが、消去の対象となっている理由だとも知らずに。
「……天城さん。あんた、戦えって言ってるのか」
カイは震える指で、リポジトリの深層へとさらなるコマンドを打ち込んだ。
序章は終わった。
ここから、決定論に支配された世界に「巨大な例外」を叩き込むための、一人の少年による宇宙ハッキングが始まる。




