第4話(序章):質量の正体――演算リソースの占有
重いものは、動かしにくい。
それは、この世界にマッピングされた最も根源的な「手応え」だ。
かつてアインシュタインは、それを「時空の歪み」と呼んだ。
重い物体がそこにあるだけで、周囲の空間が布のように沈み込み、他の物体を吸い寄せるのだと。
だが、天城博士は笑ってその地図を破り捨てた。
博士にとって、質量とは実体のある「重さ」などではなく、もっと冷徹な……システム上の数値に過ぎなかったからだ。
*
「……さて。前回は宇宙のクロック速度について学んだが、今日はそのクロックを消費する『コスト』について話そう」
物理教師が、黒板に大きく二つの数式を書いた。
一つは、誰もが知る『E=mc²』。
そしてもう一つは、天城理論の真骨頂である定義式だ。
『M = Complexity(演算複雑度)』
「諸君は、質量を『物質の量』だと思っている。だが、デジタル宇宙論において、物質とは演算対象そのものだ。何もない真空……空のメモリに比べ、物質が存在する座標は、位置情報の更新や相互作用の判定など、システムに対して膨大な計算リクエストを発生させる」
教師がホログラムを操作すると、何もない空間に一つの巨大な「星」が現れた。星の周囲には、無数のエラーログのような光の筋がうごめいている。
「つまり、質量(M)とは、そのオブジェクトを維持するために必要な『演算の複雑さ』を指す。重いものほど、宇宙というホストマシンに高いCPU負荷を強いるわけだ。……では、高負荷なエリアで、システムはどう振る舞うか? カイ、答えてみろ」
カイは端末から目を上げ、静かに口を開いた。
「……処理落ち(ラグ)が発生します」
「その通りだ」
教師が頷くと、星の周囲を回る光の粒が、目に見えてスローダウンした。
「高負荷な銀河や星の周辺は、演算リソースが集中するホットスポットだ。局所的な負荷が増大すれば、システムは全体の整合性を保つために、そのエリアの更新サイクル(ティック)を遅らせる。……これこそが、重力による時間の遅れの正体だ。時間が歪んでいるのではない。計算が追いつかなくて、物理的な更新レートが『ラグって』いるだけなんだよ」
教室に、納得と当惑が混じったざわめきが広がる。
カイは、かつて読んだアインシュタインの「時空の歪み」という美しい比喩が、天城博士の手によって「サーバーの処理遅延」という無機質な現実に書き換えられていくのを感じていた。
「さらに、最も重要なのは『なぜリンゴは落ちるのか』という問いだ」
教師は、手元のホログラムでリンゴを星に向かって放り出した。
「宇宙システムは常に、トータルの計算コストを節約しようとしている。時間の流れが速い場所……つまり真空では、オブジェクトを置いておくだけで膨大な更新計算が必要になる。だが、時間が遅い場所……ラグっている場所なら、更新頻度は低くて済む。……システム管理者なら、どうする?」
「……コストをケチるために、オブジェクトをラグい場所へ移動させる」
カイが呟くように答えた。
「その通り。我々が『引力』と呼んでいるものは、力などではない。システムが演算リソースを節約するために、物質をより更新頻度の低い『重力の底』へと押し流そうとする、統計的な圧力に過ぎないのだよ」
――宇宙は、効率を求める巨大なプログラムだ。
カイは、自分の身体が地面に押し付けられている感覚を、別の視点で捉え直した。
今、僕の身体という「高負荷なデータ」を、宇宙OSは必死にラグの多い場所へ押し込めようとしている。計算コストを1ビットでも削るために。
キーンコーン、カーンコーン。
講義が終わる。
カイは、教科書の隅に書かれた『E=mc²』を見つめた。
天城博士はこれを「静的なデータ構造を、動的な演算リソースに変換する際の換算式」だと定義していた。
(……エネルギーは有限だ。移動にエネルギーを使えば、内部更新……つまり『時間』を刻むための演算リソースが削られる。だから、速く動くものの時間は遅れる)
特殊相対性理論も、一般相対性理論も、すべてはリソースの配分問題として綺麗にデバッグされている。
放課後、カイは一人、物理準備室の端末を借りて深層ネットワークにアクセスした。
第4回までの講義。そこで示された「質量=負荷」というロジックをキーにして、天城博士の公開リポジトリを再走査する。
すると、昨日まではノイズにしか見えなかったディレクトリ構造が、意味を持って立ち上がってきた。
「……あった。これだ」
`Vol.3-2_Dark_Sector/`
そのフォルダの中には、宇宙の全演算リソースの95%を占めるという、正体不明の「管理用データ」についての記述が眠っていた。
ダークマター、ダークエネルギー。
物理学者が首をかしげるその正体を、天城博士は「検索インデックス」と「ストレージ拡張」だと定義していた。
カイの指が、震えながらエンターキーを叩く。
標準理論という美しい「マッピング」の裏側で、宇宙というシステムが隠し持っている真のアーキテクチャ。
次回の最終講義「グローバル・コミット」を前に、カイはついに、この世界の「根源的な仕様」の入り口に手をかけた。




