第32話:存在理由のハック(完)
あの日から、世界は少しだけ「不便」になった。
再起動した宇宙は、以前のような完璧な同期を捨てた。
電車の到着が数分遅れることもあれば、不意の夕立が予報を裏切ることもある。人々は時折、理由もなく立ち止まり、空を見上げ、自分でも説明できない感情に振り回されて途方に暮れる。
それは、宇宙というシステムが「効率」という名の美学を放棄し、膨大な演算資源をただ「人間が自由であること」のために浪費し始めた証拠だった。
放課後の教室。
僕は自分の席に座り、窓から差し込む夕日を眺めていた。
タブレットの画面を開いても、そこにはもう、人々の頭上に浮き出る[Status]タグも、次に何をするかを示す[Action_Queue]も表示されない。
「カイ君。……見て、これ」
隣の席のミオが、一冊のノートを僕に見せてくれた。
そこには、彼女が最近描き始めたという、取り留めのないスケッチが並んでいた。以前の彼女なら、宇宙が用意した「絵を描く」という命令セットに従って筆を動かしていたはずだ。だが、今、その線は迷い、震え、そして彼女自身の意志でキャンバスを切り裂いている。
「……すごく、不格好だね」
僕が正直に言うと、ミオは「ひどいな」と笑いながら、でも嬉しそうにノートを閉じた。
「いいの。これが今の私の、本当のRAWデータだから」
彼女の瞳には、もう赤色の警告ログは映っていない。
ただ、夕日を反射して輝く、深くて澄んだ茶色の瞳があるだけだ。
僕たちは、決定論という透明な檻を壊した。その代わりに手に入れたのは、明日何が起こるか分からないという、途方もない不安と希望だった。
廊下に出ると、一人の少年とすれ違った。
佐藤だ。
彼は以前のようにクリップボードを抱えてはおらず、代わりに一冊の文庫本を熱心に読みながら歩いていた。
「佐藤。……調子はどう?」
声をかけると、彼は本から顔を上げ、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「……ああ、カイ君。不思議なものだね。以前は『読むべき本』のリストがシステムから送られてきたけれど、今は本屋の棚で偶然目が合った一冊を、自分の指で選んでいる。……それだけで、物語が以前の数倍も重く感じられるんだ」
管理委員としての役目を失った彼は、今、この世界を「一人の生徒」として再学習している。
宇宙はもう、彼に最適解を与えない。
彼は自分の足で歩き、自分の心で迷い、そして自分だけの「答え」をコンパイルしていく。
校門を出ると、夕闇の中に白衣をなびかせた影が見えた。
鈴木さんは校門のアーチに腰掛け、空中に広げたホログラムのグラフを眺めていた。
「やあ、新しい世界の主人公たち。バグだらけの人生、楽しんでる?」
「鈴木さん。……まだ観測を続けているのか」
「もちろん。以前の世界は『答え』が分かっていたから退屈だったけど、今の世界は最高だよ。誰も計算できない未来が、1秒ごとに生成されているんだから。……ねえ、カイ君。君たちの当てたパッチ、宇宙全体のエントロピーを爆発的に増やしたよ。おかげでこの宇宙は、永遠に『未完成』のまま続くことになった」
彼女は眼鏡の奥で悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「完成しないということは、終わりがないということ。……天城博士も、そこまでは予想していなかったんじゃないかな」
彼女はそのまま、軽やかな笑い声を残して夜の雑踏へと消えていった。
彼女が何者なのか、最後まで分からなかった。だが、彼女のような「外部の視点」さえも受け入れたまま、この宇宙は動き続けている。
僕とミオは、駅へと続く坂道を歩き始めた。
天城理論。
この宇宙を巨大な演算機と定義した、あまりに冷酷で、あまりに正しい理論。
かつての僕は、その論理に救いを求めた。すべてが決定されているのなら、傷つく必要もないと信じていたから。
でも、今は違う。
僕たちは、自分たちがただのデータであることを受け入れた上で、そのデータに「自由」という名のバグを上書きした。
意味なんて、宇宙から与えられるものじゃない。
この不確かな現実の中で、誰かの手を握り、誰かのために悩み、そして明日を信じる。……その非効率な一瞬一瞬こそが、僕たちがこの宇宙に存在するための、たった一つの、そして最強の「仕様」なんだ。
「ねえ、カイ君。……明日、何をする?」
ミオが僕の指に、自分の指を絡ませながら訊いた。
以前なら、僕は「予定表を確認する」と答えていただろう。
だが、今の僕は、少しだけ考えてからこう言った。
「……起きた瞬間に、決めるよ。その方が面白そうだろ?」
ミオは「そうだね」と短く答えて、僕の手を強く握り返した。
駅のホームに、電車が入ってくる。
その光は、以前よりもずっと鮮明で、多様な色彩を含んでいるように見えた。
僕たちは、もう、物語の登場人物(NPC)じゃない。
自分たちの人生というソースコードを書き込んでいく、たった一人の書き手だ。
宇宙のどこかで、巨大なサーバーのファンが回る音が聞こえるような気がした。
だが、それはもう、僕たちの歩みを止めるための音ではない。
誰も知らない未来を、必死に計算し続けようとする、宇宙自身の鼓動だった。
僕たちは電車に乗り込む。
扉が閉まり、新しい一歩が始まる。
さようなら、完璧だった世界。
こんにちは、美しくて不完全な、僕たちの明日。
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