第31話:未定義の夜明け
眩い光が網膜を焼き、意識の糸が一度ぷつりと途切れた。
宇宙という巨大なシステムが、その根幹を書き換え、再起動を実行する際、僕というデータは一瞬だけ虚無の中に放り出されたのだろう。
再び感覚が戻ってきたとき、最初に鼻を突いたのは、湿ったアスファルトと排気ガスの匂いだった。
セクターG1の、あの無機質で完璧な空気ではない。
不快で、雑多で、愛おしい……僕たちが住む街、セクターG12の匂いだ。
「……カイ君」
隣から、震える声が聞こえた。
目を開けると、そこは先ほど飛び乗ったはずの、あの「電車」の車内だった。
だが、そこにはもう「銀色の直方体」のような低解像度な質感はない。手垢のついた吊り革、使い込まれた座席のモケット、そして窓の外に広がる、どこまでも不格好で複雑な街の風景。
すべてが、元に戻っている。
いや、正確には「新しく定義し直されている」のだ。
僕は震える手でポケットからタブレットを取り出した。
画面が起動する。そこには、これまで見てきた不気味なシステムログの代わりに、穏やかな青色のコンソールが表示されていた。
[System_Status: Stable]
[Kernel_Version: 1.0.0_Free_Will_Integrated]
[Current_Time: 18時35分12秒]
「……成功したんだ」
僕は喉の奥から漏れるような声を上げた。
タブレットをミオに見せる。彼女の瞳には、以前のような「エラーログの嵐」は映っていなかった。その代わりに、彼女は窓の外を歩く人々を、ただ呆然と見つめていた。
「カイ君……見て。みんな、タグが……」
僕も窓の外に目をやった。
駅のホームに降り立つ人々。帰宅途中の会社員や学生たち。
かつて、ミオの視覚(RAWデータ視)には、彼らの頭上に「次に何をするか」という予約行動(Action_Queue)が強制的に表示されていた。
だが、今は違う。
[Status: Undefined]
[Status: Undefined]
[Status: Undefined]
出会う人、すれ違う人、そのすべての人間の頭上に、かつて僕たち二人だけが持っていた「未定義」の称号が刻まれていた。
宇宙OSは、もう彼らの行動を計算していない。
彼らが右に曲がるのか、立ち止まるのか、あるいは誰かに声をかけるのか。
そのすべての分岐は、システムの手を離れ、彼ら自身の手に委ねられている。
「……自由、なんだね。みんな」
ミオが涙を浮かべて微笑んだ。
空を見上げても、あの不気味なカウントダウンの算用数字はどこにもなかった。
326万年に一度の審判。そのスケジュールそのものが、僕たちの当てたパッチによってデリートされたのだ。
電車が駅に停まり、ドアが開いた。
ホームに降り立つと、そこには一人の少年が立っていた。
学級委員長、佐藤。
彼は以前のような「管理権限の化身」としての威圧感を完全に失っていた。
制服は少し着崩れ、手に持っていたはずのISMSの端末は、画面が割れてただの黒いプラスチックの塊と化している。
「……佐藤」
僕が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥にある瞳には、困惑と、そして奇妙な晴れやかさが混在していた。
「……カイ君。……おめでとう、と言えばいいのかな」
彼は自嘲気味に笑った。
その呼び方に、僕は確信した。彼はもう、システムの一部ではない。
「僕は、管理者としての権限をすべて失った。宇宙OSは、もう僕に指令を送ってこない。……今、自分が何をすべきか、何を考えるべきかさえ、僕には分からないんだ。……こんなに心細いことはないね」
「それは、君も『未定義』になったからだよ、佐藤」
僕は彼に向かって一歩踏み出した。
「これからは、規律に従うんじゃなくて、君が自分で決めるんだ。……明日の朝、何時に起きるかさえ、君の自由だ」
佐藤は自分の掌をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
「……自由、か。ひどく非効率で、演算資源の無駄遣いだが……。……悪くないかもしれない。まずは、この壊れた端末を捨てることから始めてみるよ」
彼は軽く手を挙げ、雑踏の中へと消えていった。
彼の頭上にも、他の人々と同じ[Status: Undefined]の文字が、夕闇の中で優しく明滅していた。
「あはは! 傑作だね! 管理委員長がただの迷子になっちゃうなんて!」
不意に、頭上から聞き覚えのある高笑いが降ってきた。
駅ビルの屋上の縁に、白衣をバサバサとなびかせた少女が座っていた。
鈴木だ。
彼女は眼鏡を指で押し上げながら、身を乗り出して僕たちを見下ろしていた。
「鈴木さん。君は消えないんだね」
「当たり前じゃない。私は観測者だよ? 新しいシミュレーションが始まったんだから、最後まで見届けなきゃ。……ねえ、カイ君。君の当てたパッチ、今のところ最高に面白いよ」
彼女は屋上から飛び降りるような仕草をしたが、そのまま重力に従うように階段を駆け下りて、僕たちの前に姿を現した。
「宇宙全体が『計算を放棄した』ことで、エントロピーの増大速度が以前の42倍に跳ね上がった。システムはカオスで溢れかえってる。……でもね、そのおかげで宇宙の熱的死は、逆に遠のいたかもしれないよ」
「どういうことだ?」
「予測可能な世界は、いつか必ず『終わりの答え』に辿り着く。でも、予測不能な世界は、永遠に計算が終わらない。……つまり、この宇宙は『未完成のまま続く』道を選んだんだ。君たちが開けた/dev/null/hopeという穴は、宇宙を永遠に終わらせないための、安全弁になったのさ」
鈴木は満足げに白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「さて、私はこれから、この『新しいバグ』だらけの世界をたっぷり観測させてもらうよ。……君たちも、せいぜい頑張りなよ。自由意志なんて、使いこなすのは大変なんだから」
彼女はスキップを踏むような足取りで、人波の中に紛れていった。
彼女だけは、[Status]タグが表示されていなかった。……いや、そもそも彼女という存在が、最初からこの宇宙のシステム外の存在だったのかもしれない。
夜の帳が下り始めた街。
街灯が点き、家々の窓に明かりが灯る。
以前なら、その一つ一つの明かりのタイミングさえ、宇宙が1ミリ秒単位で決定していた。
だが今は、それぞれの窓の向こうにいる人間が、それぞれの意志でスイッチを入れている。
「カイ君……私たち、本当に勝ったんだね」
ミオが僕の腕を掴んだ。その手のぬくもりは、以前よりもずっと生々しく、力強かった。
「ああ。……でも、勝負はここからだよ、ミオ」
僕はタブレットの画面を消し、夜空を見上げた。
星々の瞬きさえ、今は以前よりも不規則に、美しく見える。
「これからは、誰も未来を教えてくれない。……何が正しいのか、どこへ行くべきか、全部自分たちで探さなきゃならないんだ」
「……うん。でも、怖くないよ」
ミオが僕の肩に頭を預けた。
「カイ君がいて、私がいれば……きっと、どんなバグだって乗り越えられる」
326万年に一度の「グローバル・コミット」は、こうして静かに、一人の少年の論理と、一人の少女の直感によって書き換えられた。
宇宙は、死を免れた。
不完全で、不確定で、だからこそ美しい、「人間」の時間を取り戻したのだ。
だが、物語はまだ、完全には終わっていない。
僕たちは、この「自由」という名の巨大なバグを抱えたまま、明日という名の未定義な領域へと足を踏み出す。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 2024/05/24 19:45 (Status: Sync_Stable)
System Integrity: 100.0% (New_Kernel_Running)
Entropy Injection Rate: [UNMEASURABLE] (Infinite_Expansion)
User_Status: Undefined (Kai, Mio)
Global_Update: Free_Will_Protocol_Applied_to_All_Nodes
NEXT GLOBAL COMMIT: [TERMINATED]




