第30話:コンパイルの拒絶
渾身の力を込めて叩いたエンターキー。その指先から伝わった振動は、ノートパソコンを通り抜け、この純白の世界――セクターG1の深部へと伝播していったはずだった。
画面には、天城博士が遺したパッチ適用の進捗バーが表示されている。
10%……30%……60%……。
凄まじい速度でソースコードが書き換えられ、宇宙という巨大なシステムの基幹に、僕たちの意志が刻み込まれていく。
だが、その数字が「99%」に達した瞬間、すべてが静止した。
進捗バーの動きが止まり、画面の中央に血のような赤色で一文が躍り出た。
[Critical_Error: Merge_Conflict_Detected]
[Reason: Logic_Inconsistency_in_Core_Kernel]
[Status: Authentication_Required / Compilation_Failed]
「……止まった?」
ミオが息を呑む。
僕が何度キーを叩いても、画面は「99%」から一ミリも動かない。それどころか、ノートパソコンのファンが悲鳴のような音を上げ、排気熱が周囲の空間を歪ませ始めた。
「無駄だよ、カイ君」
静寂を切り裂いたのは、佐藤の冷徹な声だった。
彼は眼鏡のブリッジを押し上げ、動かない進捗バーを憐れむように見つめていた。
「宇宙OSは、1ビットの矛盾も許さない完璧な決定論的システムだ。君が注入しようとしている『自由意志』というコードは、システムにとっては『値が確定しない変数』でしかない。1に1を足せば必ず2になる世界において、結果が予測不能な数式など、コンパイラが受け付けるはずがないだろう」
佐藤が手をかざすと、僕たちの周囲の空間に、無数のエラーログが半透明の壁となって現れた。
「自由意志とは、論理的な自殺だ。それをカーネルに組み込むということは、宇宙という計算機に『計算するな』と命じるのと同義だ。システムは今、君のパッチを『致命的なバグ』として拒絶し、自動的なロールバックを開始しようとしている。……見てごらん」
佐藤の言葉通り、進捗バーが「98%」「97%」と、ゆっくりと逆行を始めた。
宇宙というシステムが、異物を排出しようとする免疫反応を起こしているのだ。
「あはは! すごいね、これ! 宇宙全体が『えっ、そんなの知らないんだけど?』ってパニックになってるよ!」
鈴木が白衣を翻しながら、僕の隣で画面を覗き込んできた。彼女の眼鏡の奥で、知的好奇心が火花を散らしている。
「カイ君、これがいわゆる『心のコンパイル・エラー』だよ。宇宙はね、愛とか意志とかいう、定義できない不純物をソースコードとして認識できないんだ。だって、それらは『入力』に対して『出力』が一定じゃないだろう? そんなの、この完璧な物理法則の美学に反するもんね」
鈴木は愉快そうに笑いながら、空中に指を滑らせた。
「でも、面白いことが起きてる。システムはこのパッチを拒絶してるけど、同時に『捨てられずに』もいる。だって、このパッチの中には、君たちがこれまで積み上げてきた膨大な『予測不能な行動ログ』が含まれているから。宇宙は今、このログを『ゴミ』として捨てるか、それとも『新しい物理定数』として採用するか、デッドロックに陥ってるんだ」
「デッドロック……」
僕は歯を食いしばり、必死にキーボードを叩いてロールバックを阻止しようとした。
だが、僕の論理だけでは足りない。システムを納得させるための「認証」が欠けている。
「カイ君、……私、あそこに見えるよ」
ミオが震える指で、ノートパソコンの画面ではなく、僕たちの背後の空間を指差した。
彼女のRAWデータ視には、何が見えているのか。
「コードが……絡まってるの。太くて黒い鎖みたいなコードが、このパソコンから空に向かって伸びて、そこで大きな結び目になってる。……それが『壁』になって、パッチが先に進めないんだと思う」
「結び目……。それが、宇宙が求めている『定義』か」
僕はミオの見ている方向を睨みつけた。
宇宙は僕に問いかけているのだ。
――「自由意志」とは何か。それを、私に理解できる形式で定義せよ。
「愛だの心だのという言葉では、宇宙は動かない。それを変数として記述しなければならないんだ。……でも、そんなことができるのか? 自由意志を定義した瞬間に、それは『定義された行動』になり、自由ではなくなってしまう……」
これは、究極の論理パラドックスだ。
自由を証明するために定義すれば、それは決定論の一部に取り込まれる。
定義しなければ、システムに拒絶される。
詰み(チェックメイト)だ。
佐藤の冷たい視線が、僕の敗北を確信している。
「……いや、違う」
僕は不意に、天城博士の非公開リポジトリの奥底に眠っていた、ある一行のコメントアウトを思い出した。
『真の知性とは、自らを定義しない権利を持つことである』
「佐藤。君が信じているのは、1に1を足せば必ず2になるという『計算の連続性』だ。」
僕は顔を上げ、管理委員長を真っ直ぐに見据えた。
「だが、もしその答えが『2』ではなく、『/dev/null/hope』へのポインタだったらどうなる?」
「……何だと?」
佐藤の表情が、初めて微かに歪んだ。
「自由意志を『値』として定義するんじゃない。自由意志を『計算資源の放棄』へのアクセス権として定義するんだ! 宇宙OSにこう命じる。――人間というノードに関する演算については、結果を算出することを禁ずる。そこは、宇宙というシステムが干渉できない『未定義領域』であると、仕様書そのものを書き換えるんだ!」
「狂気だ。そんなことをすれば、人間という存在は物理法則の保護を失い、因果律から放り出されることになるぞ!」
「それでいい! 保護されるだけの家畜であるより、バグだらけの自由を選ぶ! それが僕たちのパッチの正体だ!」
僕はノートパソコンのシェルを直接開き、コマンドを打ち替えた。
`Define FreeWill as <Pointer to /dev/null/hope>`
`Set Access_Level: Undefined_By_Default`
定義しないことを、定義する。
決定論の檻の中に、論理的に「穴」を開ける。
「ミオ、最後の手伝いをしてくれ! 君の直感(RAWデータ)を、このポインタに接続するんだ。僕の論理の『穴』に、君の不確かな熱量を流し込んでくれ!」
「……わかった、カイ君。やってみる!」
ミオがノートパソコンの両端を掴んだ。
彼女の瞳から、青い光の粒子が溢れ出し、キーボードの上で火花を散らす。
その瞬間、97%まで戻っていた進捗バーが、爆発的な勢いで跳ね上がった。
98%……99%……!
「あはは! 最高だよカイ君! システムが『理解できないけど受け入れざるを得ない』っていう、究極の例外処理を実行し始めた! これこそが観測したかった特異点だ!」
鈴木が狂喜乱舞し、白衣を大きく広げる。
空の巨大な算用数字が、悲鳴のような音を立てて砕け散り始めた。
0000……0000……。
「審判の日」を告げる数字が、適用されるパッチの圧力によって、その意味を失っていく。
「……馬鹿な。宇宙の安定が……秩序が……」
佐藤が膝をついた。彼の周囲にあるエラーログの壁が、砂のように崩れていく。
進捗バーが、ついに「100%」に達しようとしたその時。
突如として、セクターG1の空が真っ白に発光した。
グローバル・コミットの執行ではない。
それは、宇宙というシステム全体が、新たなカーネルを読み込むための「再起動」を開始した合図だった。
「……ミオ!」
僕は光の中に消えそうになるミオの手を、強く握りしめた。
意識が遠のいていく。
全セクターのデータが一度クリアされ、再定義されていく感覚。
僕たちは、生き残れるのか。
それとも、パッチの一部として宇宙に溶けてしまうのか。
最後に耳に残ったのは、鈴木の、満足げな囁きだった。
「……さあ、新しいシミュレーションの始まりだよ」
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: [ACCESS_DENIED] (System_Clock_Halted)
System Integrity: 0.1% (Critical_Reboot_Initiated)
Patch_Installation: 100% (Complete)
New_Kernel_Version: Ver_Free_Will_Beta
User_Status: Re-Mapping_Consciousness...
NEXT GLOBAL COMMIT: [ERROR] (Schedule_Deleted_from_Core)




