第29話:特異点の会合
ノートパソコンの画面上で、点滅するカーソルが僕を急かしていた。
管理者権限(sudo)の行使。全宇宙のソースコードに、天城博士が用意した「自由意志のパッチ」を適用する。実行キーを叩けば、326万年に一度の絶望は、新たな希望へと上書きされるはずだ。
だが、僕の指がキーに触れる寸前、この無機質な白い世界に「秩序」を具現化したような足音が響いた。
「そこまでだ、カイ君。そして白石さん」
振り返ると、そこには見慣れた、しかし決定的に異質な姿があった。
学級委員長、佐藤。
彼はこの極限状態にあっても、アイロンの効いた制服を一点の乱れもなく着こなし、眼鏡の奥にある瞳で僕たちを冷徹に見据えていた。
「佐藤……君。……やっぱり、来たんだね」
ミオが僕の背中に隠れながら、小さな声で言った。
佐藤は僕たちの数メートル前で足を止めると、手に持っていたクリップボードのような端末を軽く操作した。
「セクターG1への不法侵入、およびルート・ディレクトリへの書き込み試行。ISMS規定第1条に基づき、君たちを『致命的なインシデント』として認定する。……残念だよ。君たちの演算能力は、次世代の宇宙でも有用な資源になり得たというのに」
「次世代……だって?」
僕はノートパソコンを守るように立ちふさがった。
「そうだ。326万年に一度のグローバル・コミットは、単なる破壊ではない。それは、不要なログを整理し、冗長な演算を省き、宇宙というシステムを次の326万年、安定して稼働させるための不可欠なクリーンアップだ」
佐藤の声は、まるで合成音声のように感情が欠落していた。
「君たちが守ろうとしているこの文明は、すでに計算資源の限界に達している。人々は予測可能な行動を繰り返し、新たなエントロピーを生み出さない。安定は死と同義だ。宇宙OSは、これ以上のリソースを君たちという『無価値なループ』に割くことはできない。……だから、消去する。それがこの宇宙の公平な論理だ」
「勝手なことを言うな! 無価値かどうかなんて、演算結果だけで決めるものじゃないはずだ!」
僕が叫んだその時、不意に、場の緊張感を切り裂くような場違いな高笑いが響き渡った。
「あはは! いいこと言うね、バグ君! その通りだよ、価値なんてものは観測者が決めるものだ!」
純白のプラットフォームの向こう側から、バサバサと白い布をなびかせて、一人の少女が現れた。
鈴木だ。
彼女は学校の制服の上に、明らかに自分のサイズに合っていない大きな白衣を羽織り、眼鏡の奥にある知的好奇心に溢れた瞳をギラつかせていた。
「鈴木……さん。どうしてここに」
「どうして? 決まってるじゃない。こんなに面白いショーのフィナーレを、特等席で見ない理由がある? セクターG12の小さなバグが、まさかシステムの心臓部まで辿り着いて、管理権限を乗っ取ろうとするなんて……最高のエキサイティングだよ!」
鈴木は佐藤の隣まで歩み寄ると、彼の冷徹な視線を軽くいなして、僕たちのノートパソコンを覗き込もうとした。
「鈴木さん、下がりなさい。これは管理プロセスの執行中だ」
佐藤が厳しい声を出すが、鈴木は鼻で笑った。
「管理? そんな退屈な言葉、この特異点には似合わないよ、学級委員長。……ねえ、カイ君。君がやろうとしているのは、宇宙という箱庭に『真の乱数』をハードコーディングすることだよね? 予測可能な決定論を破壊して、誰も次に何が起こるか分からないカオスな未来を強制的に定義する。……それ、成功したら、このシミュレーションはどうなっちゃうと思う?」
鈴木は、まるで美味しい獲物を前にした子供のような笑みを浮かべた。
「宇宙が、クラッシュするかもしれない。あるいは……誰も見たことのない、全く新しい物理法則が生まれるかもしれない。私はそれが『見たい』んだ。佐藤君が言う『安定した次世代』なんて、何度繰り返したって同じ演算結果しか出ない退屈なゴミ箱だよ。そんなの観測する価値もない」
「鈴木……君の目的は、ただの好奇心なのか?」
僕の問いに、鈴木は眼鏡のブリッジを押し上げて不敵に笑った。
「好奇心? いや、これは『観測』だよ。観測されない現実は、存在しないのと変わらない。……君たちがこの宇宙で生きているという証明は、君たちの意志じゃなくて、それを見て『面白い』と感じる私が決定するんだ。……さあ、カイ君。そのエンターキーを叩きなよ。世界が壊れる瞬間を、私に見せて」
「させるわけにはいかない」
佐藤が静かに一歩踏み出した。彼の周囲で、物理定数の数値が激しく明滅し、空間そのものが「武器」へと変換されようとしていた。
「カイ君、白石さん。君たちは『自由意志』を尊いものだと信じているようだが、それは宇宙のメモリを浪費するバグに過ぎない。君たちが『恋』と呼ぶものも、『苦悩』と呼ぶものも、すべては未定義な変数に対する条件反射だ。……そんな不安定なものを、永劫不変のソースコードに組み込むことは、宇宙に対する冒涜だ」
「冒涜なんかじゃない……!」
それまで黙っていたミオが、絞り出すような声で言った。
彼女は僕の背中から踏み出し、佐藤を真っ直ぐに見据えた。
「私には見えるよ。佐藤君の頭の上にも、鈴木さんの周りにも、数字の海が流れてる。……確かに、私たちはただの計算結果かもしれない。でもね、その計算が合わなくて、エラーを吐いて、泣いたり笑ったりする一瞬一瞬は……。少なくとも、私にとっては、宇宙の寿命よりもずっと重いものなの。……それを『無価値』だなんて、宇宙OSにも、誰にも、言わせたくない!」
ミオの言葉に呼応するように、僕の持つノートパソコンの画面が激しく明滅した。
書き込み権限(Write Access)のゲージが、じわじわと上昇していく。
「……面白い。バグの分際で、システムの守護者に説教とはね」
鈴木が愉快そうに手を叩いた。
「いいよ、カイ君。ミオちゃん。佐藤君がシステムを『守る』という論理なら、私はこの世界を『壊す』という論理を支持する。……学級委員長、残念だったね。私の『観測者権限(Observer Privileges)』は、今の君の管理権限よりもわずかにレイヤーが上なんだ。……今だけは、君の削除プロセスを一時停止させてあげる」
「鈴木……! 貴様、自分の立場を忘れたのか!」
佐藤が初めて声を荒らげた。
鈴木は白衣を翻し、空中に浮かぶ不可視のコンソールを操作した。
「立場? 私は観測者。面白い方が勝ち。……さあ、カイ君。パッチ適用のための最終演算リソースは、私が一時的に提供する。……でも、気をつけてね。そのパッチを当てた瞬間、君たちも、この宇宙も、二度と元の『完璧な円環』には戻れない。……文字通り、誰も計算できない未来へと突っ込むことになる」
僕はミオの手を握り、ノートパソコンのキーボードに指を置いた。
空に浮かぶ巨大な算用数字が、再び『0000』で静止した。
これが、最後のチャンスだ。
「佐藤……。君の論理は正しいのかもしれない。でも、僕は正しいだけの世界なんていらない。……予測不能で、バグだらけで、明日何が起こるか分からないからこそ、僕たちは生きてる実感が持てるんだ。……326万年の安定を、僕たちが今、ここで終わらせてやる」
僕は深呼吸をし、渾身の力を込めて、エンターキーを叩いた。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: [ACCESS_DENIED] (System_Clock_Halted)
System Integrity: 35.2% (Fatal_Patch_Initiated)
User_Input: sudo patch --universal /system/consciousness --force
Conflict_Detected: Administrator [Sato] vs Observer [Suzuki]
Memory_Corruption: Root_Patching_In_Progress...
NEXT GLOBAL COMMIT: 0000 DAYS REMAINING (Interrupted_by_Patch_Installation)




