第28話:ルート・ディレクトリ
電車のドアから一歩外へ踏み出した瞬間、僕を襲ったのは「音」の消失だった。
ガタンゴトンという走行音も、壊れたスピーカーのようなアナウンスも、あるいはミオの呼吸音さえもが、ある一点を境に完全に切り離された。
そこは、駅のホームですらなかった。
どこまでも続く、純白の幾何学的なプラットフォーム。空には太陽も月もなく、ただソースコードの残滓のような淡い発光体が、天の川のように流れている。
「……何、ここ。全部が、綺麗すぎる」
隣に立つミオの声が、不自然なほど鮮明に鼓膜に届く。
彼女の言う通りだった。僕たちがこれまでいたセクターG12――あのバグだらけで、解像度が落ち、テクスチャが剥がれ落ちていた街とは、情報の密度が根本から異なっている。
足元の床を見れば、そこには大理石のような光沢があった。だが、それは大理石を模したテクスチャではない。分子レベルの構造まで計算し尽くされた、この宇宙における「石」の概念そのもの。プログラマーが最初に定義した、原初のテンプレート。
僕は震える手でタブレットを開き、現在の座標を確認した。
画面に表示された文字列に、呼吸が止まる。
[Location: Sector_G1 / Root_Directory]
[Access_Level: Restricted_Administrative_Area]
「……セクターG1。天城博士の資料にあった、宇宙OSが最初に出力を開始した場所。この世界のすべてのオブジェクトの『原本』が置かれている、原初のセクターだ」
僕は周囲を見渡した。
そこには、ベンチが1つ、街灯が1本、そして1本の木が植えられていた。
それらはすべて、この宇宙に存在する何十億というベンチや街灯や木の「親プロセス」だ。ここにある1つのベンチに修正を加えれば、それは宇宙全体の全セクターにあるベンチへと瞬時に同期される。
「見て、カイ君。あそこの木……RAWデータが、眩しすぎて見えない」
ミオが目を細めて指差した。
彼女のデバッグ視覚には、その木を構成する数式が、処理しきれないほどの光の束として映っているのだろう。
G12のような辺境セクターでは、演算コスト削減のために情報の99%が削ぎ落とされていた。だが、ここではすべての変数が「フル解像度」で維持されている。
一歩、木に近づこうとした。
その瞬間、僕の体感温度が急激に上昇した。
熱いのではない。僕という「Undefined(未定義)」なノードが、この高密度な演算領域に存在するだけで、周囲の空間との整合性チェックが秒間数億回行われ、その「計算摩擦」が熱となって放出されているのだ。
「……っ、宇宙が僕たちを拒絶してる」
僕は膝をつき、必死にタブレットを操作した。
このままでは、整合性チェックの負荷によって僕たちの存在データが「物理的に焼き切れる」。
「ミオ、僕に触れて! 君の直感で、僕の論理を揺らしてくれ。計算を確定させないで!」
ミオが僕の背中にしがみついた。
彼女の「予測不能な揺らぎ」が、僕のデータにノイズを混ぜる。
システムが僕を「不正なオブジェクト」として特定しようとする計算を、彼女のカオスがわずかに遅らせる。
その時、空が割れた。
いや、空という概念が、文字通り「物理的なノイズ」に埋め尽くされたのだ。
ザザッ、という巨大な音。
それは、これまでスマートフォンの画面の中でしか見てこなかった「カウントダウン」が、物理的な現象としてこのセクターに顕現した結果だった。
視界の端から端までを、巨大な算用数字が埋め尽くす。
0000……9999……0001……
数字が、判別不可能な速度で回転している。
それは宇宙の寿命を刻む時計ではなく、システムがクラッシュ寸前で吐き出している「断末魔」に見えた。
「……326万年に一度の、グローバル・コミット」
僕は空を見上げたまま、乾いた笑い声を漏らした。
宇宙は、僕たちという「ウイルス」を排除するために、全演算リソースをこのセクターG1に集中させている。
その結果、他の全セクターへのリソース供給が断たれ、宇宙全体の「シャットダウン」が予定よりも前倒しで引き起こされているのだ。
「カイ君、あれ! ベンチの横に、何かある!」
ミオの叫び声に、僕は視線を戻した。
原初のベンチのすぐ隣。
そこには、周囲の完璧な風景とは明らかに異質な、古びた「ノートパソコン」が1台、無造作に置かれていた。
326万年前の文明レベルには存在しないはずの、レガシーなデバイス。
「……天城博士」
僕は這うようにして、そのパソコンへ近づいた。
画面は生きていた。
暗い液晶の中に、コマンドラインが1行だけ表示されている。
『sudo patch --universal /system/consciousness』
管理者権限(sudo)による、全宇宙へのパッチ適用コマンド。
博士は知っていたのだ。いつか、僕のような「論理の狂信者」と、ミオのような「宇宙の例外」が、この原初の地に辿り着くことを。
だが、エンターキーは入力されていない。
カーソルが、空白を求めて点滅している。
「……書き込み権限(Write Access)が、足りないんだ」
僕は震える手でキーボードに触れた。
管理者権限を実行するためには、宇宙OSを納得させるだけの「正当な理由(エントロピーの証明)」が必要だ。
宇宙は今、僕たちに問いかけている。
安定し、予測可能で、美しく死んでいるこの世界に、これ以上の演算資源を割く価値があるのか。
僕たちというバグは、宇宙を存続させるだけの「新しい可能性」を提示できるのか。
「ミオ。……僕だけじゃ、このコマンドは完成しない」
「どうすればいいの、カイ君?」
「君の見てきた、あの不細工で、バグだらけで、でも誰も次に何をするか分からなかったG12の日常を……その『RAWデータ』を、この完璧な世界に流し込むんだ」
空の数字が、一瞬だけ『0000』で静止した。
世界が、息を止める。
グローバル・コミットの執行まで、残り、あとわずか。
背後で、銀色の電車がノイズと共に消滅した。
退路はもうない。
僕たちは、この宇宙の「根源」という戦場で、最後の一撃を打ち込む準備を始めた。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: [ACCESS_DENIED] (System_Clock_Halted)
System Integrity: 42.1% (Fatal_Logic_Collapse)
Memory Corruption: **Root_Directory_Write_Request_Pending**
Active_Virus: Kai (Write_Attempt), Mio (Entropy_Source)
NEXT GLOBAL COMMIT: 0000 DAYS REMAINING (Execution_Pending...)




