第26話:バグの顕現
17時30分を過ぎたはずの現実と、教師が口にした「17時15分」という回答。
その15分の空白は、単なる言い間違いなどではない。宇宙OSという巨大な演算機が、僕たちという「高負荷な例外」を処理するために、周囲のノードへのリソース配分を後回しにした結果生じた、致命的な同期ズレ(ドリフト)だ。
「カイ君……廊下が、変だよ」
ミオが僕の制服の袖をぎゅっと掴んだ。
教室を出て、校門へと続く長い廊下。いつもなら夕日に照らされて滑らかに輝いているはずのリノリウムの床が、今はまるで見覚えのない粗い質感に変貌していた。
目を凝らして見れば見るほど、その違和感は形を成していく。
床と壁の境界線に、本来あるはずのないギザギザとした「段差」が浮き出ている。窓から差し込む光の影も、滑らかなグラデーションを失い、数段階の不自然な階調に分かれていた。
「LOD……詳細度の最適化が働いているんだ」
僕は歩きながら、鞄からタブレットを取り出した。
天文台で「煤けたガラス」を失って以来、僕はミオの視覚データを僕の端末へ転送し、解析することで世界を観測している。
画面には、ミオの網膜が捉えている「生の演算データ(RAW)」をフィルタリングした数値が流れる。
「……やっぱりだ。僕たちの周囲10メートル以内の描画コストが、通常の3倍に跳ね上がってる。宇宙OSは僕たちという『例外』をレンダリングし続けるために、廊下のテクスチャの解像度を強制的に下げて、全体の演算負荷を調整してるんだよ」
階段を降りる途中で、一人の下級生とすれ違った。
彼はスマホを眺めながら、無表情に歩いている。
だが、僕のタブレットがその生徒を捉えた瞬間、警告ログが走った。
[Warning: Animation_Frame_Drop / Node_ID: 88291]
その生徒の足運びが、一瞬だけ「飛んだ」。
スムーズな歩行動作の途中の数フレームが、演算資源の不足によって省略されたのだ。本人は気づいていないようだが、僕たちの目には、彼がコンマ数秒だけ瞬間移動したように見えた。
「カイ君、今の……」
「……ああ。宇宙が彼を『重要度の低いオブジェクト』として処理したんだ。僕たちの近くにいるだけで、普通の人間まで演算の犠牲に巻き込まれ始めてる」
校門を出て、駅へと続く通学路を歩く。
街は、まだ動いていた。
車は走り、商店街からは威勢のいい声が聞こえる。だが、タブレットの画面越しに見る世界は、確実に「薄く」なっていた。
例えば、街路樹の葉。
風に揺れる数千枚の葉を一枚ずつ計算することを宇宙が放棄したのか、それらは数枚ごとの塊として、同期した不自然な動きを繰り返している。
例えば、自動販売機の明かり。
それは夜に向けて点灯し始めているが、光が周囲を照らす「反射計算」が省略され、ただ自販機の表面が白く光っているだけの、奥行きのない発光体(エミッシブ素材)に成り下がっていた。
「……ミオ、あそこの信号を見て」
僕が指差した先。交差点の信号機が、青から黄色に変わろうとしていた。
だが、その変化は異常だった。
黄色い光が灯る前に、一瞬だけ「存在しないはずの色」――ショッキングピンクのノイズが、信号機の表面を走った。
「テクスチャの読み込みエラーだ。色の切り替えという単純な処理にさえ、ラグが発生してる」
信号待ちをしている人々は、誰もそのことに気づかない。
彼らは宇宙OSが用意した「日常」というスクリプトに従って、平然と道路を渡っていく。その姿が、僕にはひどく滑稽で、同時に恐ろしく見えた。彼らの「自由意志」だと思っているものは、このバグだらけの演算結果に過ぎない。
「ねえ、カイ君。あそこに座ってる人……ずっと同じ動きをしてる」
駅前のベンチに座っている一人の老人。
彼は新聞を広げ、ページをめくろうとして……手が止まり、また広げ直す。
その数秒の動作を、まるで壊れたレコードのように、何度も、何度も繰り返していた。
タブレットを確認する。
[Status: Action_Queue_Stuck / Retry_Count: 42]
「演算資源が足りなくて、次の行動への遷移に失敗してるんだ。……宇宙は、僕たちという巨大な負荷を抱えたまま、この世界の『整合性』を維持しようとして、あちこちで小さな破綻を起こし始めてる」
ふと、駅前の時計塔に目をやった。
そこには「17時45分」と表示されている。
だが、僕の持っているスマートフォンの時計は「18時02分」を示し、タブレットの内部システムクロックは「17時20分」を刻んでいた。
何が正しいのか、もう誰にもわからない。
場所によって、オブジェクトによって、時間の流れという「演算ステップ」がバラバラに乖離し始めている。
僕たちの歩く速度に合わせて、街の街灯が点いたり消えたりを繰り返す。宇宙が、僕たちの座標(位置データ)を更新するたびに、周囲の環境データを再読み込み(リロード)しているのが、物理的な音として聞こえてくるようだった。
「カイ君、空が……」
ミオが指差した上空。
夕焼けの赤色が、まるでペンキを塗りつぶしたように、一瞬で「漆黒」に塗り替えられた。
夜が来たのではない。スカイボックスの描画データがクラッシュし、背景色がデフォルトの「黒」にリセットされたのだ。
だが、数秒後には何事もなかったかのように、また汚いグラデーションの夕焼けが戻ってくる。
「……必死だな」
僕は思わず笑いそうになった。
326万年もの間、完璧を装ってきたこの宇宙が、たった二人の「ウィルス」を抱え込んだだけで、ここまで無様に綻びを見せている。
タブレットの画面に、再び「グローバル・コミット」の予測修正値が躍り出た。
1262……1152……940……。
数字はもはや、一定の法則性すら失っていた。
ある瞬間には残り1000日を超え、次の瞬間には一桁まで暴落し、また数百日に戻る。
宇宙OSが、僕たちの「例外」がもたらす未来の不確定性に振り回され、残りの演算寿命を正確に算出できなくなっているのだ。
「いいよ、もっと狂え。計算不能になって、全部白紙に戻ればいい」
「ミオ。電車に乗るぞ」
「どこに行くの?」
「とにかく移動し続けるんだ。一箇所に留まれば、宇宙OSは僕たちを隔離して排除する計算を完了させてしまう。電車に乗って、次々と新しいセクターへ僕たちの『バグ』を運び込む。宇宙に、絶え間ないキャッシュ・ミスと再レンダリングを強要してやるんだ」
僕はミオの手を引き、駅のホームへと続く階段を駆け上がった。
足元のコンクリートが、踏みしめるたびに「ポリゴンが欠ける」ような嫌な感触を伝えてくる。
世界は、まだ決定的な「終わり」を迎えてはいない。
だが、その「終わり方」さえも、もはや宇宙の台本通りにはいかないことを、この狂った数字たちが証明していた。
ホームに滑り込んできた電車。
その車体は、本来あるはずの広告や窓が消失し、ただの「銀色の直方体」として描写されていた。
「行こう、ミオ。このバグだらけの電車に乗って、どこまで世界が耐えられるか試してやる」
僕たちは、解像度を失った銀色の塊の中へと飛び込んだ。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20?4/0?/24 1?:42 (Inconsistent: Clock_Skew_Max)
System Integrity: 92.1% (Corrupted_Node_Detected)
Entropy Injection Rate: [Data_Expunged]
Active_Virus: Kai (Logic), Mio (RAW)
Memory_Leak: Sector_G12_Station_Area
NEXT GLOBAL COMMIT: Unknown(Unstable_Fluctuation: Recalculating...)




