第25話:例外の胎動
実行キーを押した指先から、熱が奪われていくような錯覚に陥った。
屋上の冷たい空気のせいではない。僕たちが今、この宇宙という巨大なシステムの、決して触れてはならない「深淵」に手を伸ばしたことへの、生物としての本能的な拒絶反応だろう。
タブレットの画面上で、カーソルが規則正しく点滅している。
一見、何の変哲もないコンソール画面だ。だが、その裏側では天城博士が遺した禁忌のコード……宇宙OSが「計算を放棄した領域(/dev/null/hope)」へのマウントが完了し、僕たちの存在そのものを「未定義の例外」としてシステムに注入し続けている。
「……終わったの?」
ミオが、僕の肩越しに画面を覗き込みながら、震える声で尋ねた。
「いや、始まったんだ」
僕は画面を閉じ、タブレットを鞄に仕舞った。
見た目に劇的な変化はない。空は相変わらずレンダリングされた完璧な夕焼けを映し出し、校庭からは部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくる。
だが、僕にはわかる。
この瞬間、僕とミオを起点として、世界という「プログラム」の実行速度が確実に、わずかに低下し始めた。
「行こう、ミオ。僕たちの『日常』が、どう壊れていくかを確認しなきゃならない」
屋上の重い扉を開け、校舎の中へと足を踏み入れた。
階段を降りる一歩一歩が、以前よりも「重く」感じる。それは物理的な重力が増したわけではない。宇宙OSが、僕たちの位置情報(座標データ)を更新するたびに、本来なら存在しないはずの「例外処理」にリソースを割かれ、演算の優先順位を迷っている証拠だ。
「カイ君……見て」
踊り場で、ミオが立ち止まった。
彼女の瞳――「生の演算データ(RAW)」を視覚化するデバッグ・モードとなった瞳が、廊下の先を凝視している。
視線の先には、放課後の教室を掃除しているクラスメイトたちがいた。
「何が見える?」
「……ノイズ。みんなのステータス・タグが、細かく明滅してる。……[Action_Queue]が、書き換えられ続けてるみたいに」
僕は廊下の窓から、中庭に設置された大きな時計を見上げた。
長針が、一分刻みで進もうとしている。
カチッ。
その音が聞こえた瞬間、僕は違和感を覚えた。
音が、遅れたのだ。
針が動いた視覚情報の入力から、音が鼓膜に届くまでのわずかなインターバル。通常なら脳が自動的に補正するはずの「ラグ」が、補正しきれないほどの長さで発生している。
「物理法則の『レンダリング』が追いついていないんだ」
僕は独り言のように呟いた。
デジタル宇宙論において、光速とは「情報伝達の限界速度」であり、重力とは「オブジェクト間の演算密度」だ。そして「時間」とは、宇宙OSが全ノードの更新を終えるまでの一サイクル(一クロック)に過ぎない。
僕たちが「ウイルス」として演算負荷を増大させればさせるほど、宇宙のクロック周波数は低下する。
一台のパソコンで、重いゲームを立ち上げすぎた時のように、世界全体の動作が「カクつき」始めている。
僕たちは、まだ授業の片付けが残っている自分たちの教室へと戻った。
教室の中では、担任の田中先生が教壇で書類を整理していた。
先生の動きは、外から見る分には正常だ。だが、僕たちが教室に入った瞬間、先生が顔を上げた。
「おや、天城に白石。まだ残っていたのか」
先生の言葉。その最後の「か」の音が、ほんのわずかに、デジタルノイズのように響いた。
田中先生というオブジェクトの音声データが、バッファアンダーランを起こしている。
「先生、今の時間は?」
僕が問いかけると、先生は左腕の時計に目をやった。
「……17時、15分だ」
先生の視線が時計に固定されたまま、三秒、四秒と静止する。
まるで、次の行動を入力されるのを待っているかのような、奇妙な静止。
「……15分だ」
先生が、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「……カイ君、怖い」
ミオが僕の腕を掴んだ。
彼女には見えているのだろう。先生の頭上に浮かぶ[Status]が、ループ処理(While_Loop)に陥り、エラーを吐き出し続けている様が。
「落ち着いて、ミオ。これが僕たちの選んだ道だ。宇宙は、僕たちという『計算できない不純物』を同じ空間に含んだ状態で、周囲の人間の行動を決定論的に計算しようとして、矛盾を引き起こしているんだ」
本来、田中先生の「17時15分の行動」は、宇宙が数億年前から計算済みの結果だった。
しかし、そこに「未来が確定していない(Undefined)」僕たちが干渉したことで、先生の行動ログに分岐が発生してしまった。宇宙OSは、その無数の分岐を再計算しようとして、リソースを使い果たしている。
僕は、自分の机の上に置いてあった鉛筆を手に取った。
そして、あえて「論理的ではない」行動を取ることにした。
机の端から、それをわざと落とす。
ただし、ただ落とすのではない。空中で指を複雑に動かし、重力加速度に逆らうような微細な回転を加える。
鉛筆が、床に向かって落ちていく。
だが、その速度は異常だった。
スローモーションのようにゆっくりと、時折、空間に「引っかかる」ような挙動を見せながら。
カチ、カチカチッ。
鉛筆が床に触れる寸前、空中で一瞬だけ「停止」した。
座標が確定できない、描画のバグ。
「……見て、ミオ。物理演算の優先順位が下がってる」
「鉛筆が……浮いてる……?」
「いや、落ちるという『処理』が、行列の後ろに回されたんだ。今の宇宙にとっては、僕たちの存在という巨大なエラーを隠蔽する処理の方が、重力計算よりも重要なんだよ」
床に落ちた鉛筆は、パチンという乾いた音を立てて跳ねたが、その音は鉛筆が床に触れてから一秒後に遅れて聞こえた。
世界が、崩れ始めている。
精巧に作られた箱庭の、その繋ぎ目が見え始めていた。
その時、僕のポケットの中でスマートフォンが激しく振動した。
取り出すと、画面には「非公開リポジトリ」からの緊急アラートが表示されていた。
それは、天城博士が設定した監視プログラムが、宇宙の「ある変化」を検知したことを示していた。
「……何、これ」
画面を覗き込んだミオが息を呑む。
『Critical System Alert: Clock Drift Detected.』
『Global Commit Schedule: Forcefully Accelerated.』
宇宙OSの制御ログが、真っ赤な警告文字で埋め尽くされている。
僕たちがウイルスを注入したことで、宇宙は僕たちを排除するために「予定」を早めたのだ。
不要なファイルを消去するために、無理やりシャットダウンを強行するように。
「……残り日数が、減ってる」
ミオが指差した先。
かつて「1271日」と表示されていたカウントダウンが、目まぐるしい速さで数字を減らしていた。
1270……1265……1240……。
一秒が経つごとに、数日分の「未来」が、演算の最適化によって削り取られていく。
宇宙は、僕たちを「なかったこと」にするために、この世界という物語を、強引にエンディングへと進めようとしていた。
「カイ君、どうしよう……このままだと、すぐに『あの日』が来ちゃう」
ミオの顔から血の気が引いていく。
だが、僕は冷めた頭で、加速する数字を見つめていた。
「いいよ。望むところだ。だらだらと執行を待つより、ずっといい」
僕はミオの手を強く握りしめた。
「宇宙が焦ってるんだ。僕たちが『無視できない脅威』になった証拠だよ。……来るなら来ればいい。326万年に一度の『更新要求』、受けて立ってやる」
校舎の窓から見える空が、一瞬だけ、ノイズのような紫色の閃光を放った。
それは夕焼けの空に現れた、致命的な描画エラー(アーティファクト)だった。
僕たちは、もはや引き返せない。
このラグだらけの世界で、僕たちは「自由」という名のバグを、宇宙の深部へと刻み込み続ける。
校内のスピーカーから、下校時刻を告げるチャイムが流れ始めた。
だが、そのメロディは不協和音を奏で、途中でテープを引き伸ばしたような不気味な低音へと変わっていった。
誰もいないはずの廊下で、誰かのステータス・タグが高速で明滅する音がした。
宇宙が、僕たちを「見つけた」のだ。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 2024/05/24 17:22
System Integrity: 98.2% (Warning: Clock_Drift_Active)
Memory Corruption: Level_3 (Target: /dev/null/hope)
Process_Status: Virus_Active (Kai, Mio)
Update_Status: Global Commit pre-poned due to Critical_Exception.
NEXT GLOBAL COMMIT: 1212 DAYS REMAINING (Accelerating)




