第21話:燃料としての生(孤独なデバッグ)
カーテンを閉め切った部屋は、墓石の中のように静まり返っていた。
モニタの明かりさえも、今の僕には網膜を焼く不要なノイズでしかない。僕はすべての電源を落とし、ただ床に座り込んで、壁の一点を見つめていた。
20XX年4月22日、月曜日。夜。
326万年に一度のグローバル・コミットまで、残り1273日。
学校から帰って以来、僕は一言も発していない。
暗闇の中で、僕の脳という演算器だけが、冷徹なログを吐き出し続けていた。
――EIR(エントロピー注入率)、42.85%。
この数値は、僕たちが週末に引き起こした「反逆」の証だ。
だが、今の僕には、それが自分たちの首を絞める絞首刑の縄の太さにしか見えない。
佐藤の言葉が、鼓膜の裏側でリピートされる。
『君のおかげで、グローバル・コミットのデッドラインは一秒たりとも前倒しされることはなくなった』
皮肉な話だ。
自由を求めて、この偽物の宇宙をバグらせようとした結果、僕たちは宇宙の寿命を延ばしてしまった。
天城理論と、ユーザー様が提唱するデジタル宇宙論を照らし合わせれば、その地獄のような仕組みが嫌というほど理解できてしまう。
僕たちが「未定義(Undefined)」として、予測不能な行動を選択する。
それはシステムにとって、膨大な計算リソースを消費する「高負荷なイベント」だ。
その計算の結果として排出されるログの残骸、それが「エントロピー」だ。
エントロピーが増大し、宇宙という名の巨大なメモリ空間がログで溢れそうになると、システムは管理プログラムを発動させる。
それが「ダークエネルギー」――アドレス空間の動的拡張だ。
宇宙は、僕たちが足掻けば足掻くほど、そのログを保存するために自らを押し広げ、存続期間を更新していく。
僕の絶望も、ミオの涙も、すべては「宇宙を終わらせないための新鮮な情報量」として、貪欲に食い尽くされている。
「……だったら」
僕は、乾いた声で呟いた。
「……供給を、止めてやる」
それが、僕が辿り着いた唯一の、そして最悪の抵抗だった。
宇宙が僕の思考を燃料にしているなら。
僕が新しい選択肢を、新しい悩みを生み出すたびにエントロピーが排出されているなら。
僕は、考えるのをやめる。
僕は意識的に思考をシャットダウンしようと試みた。
ミオのことは考えない。彼女が今、あの完璧すぎる両親に囲まれてどんなに心を削られているか、それを想像することは「高コストな演算」だ。だから、切り捨てる。
天城博士のコードの解析もやめる。解読しようと知性を働かせるたびに、宇宙のCPU負荷が跳ね上がる。それも、やめる。
僕は、ただの石になろうとした。
何も望まず、何も選ばず、ただ宇宙というメモリ空間の中に存在する「静的なデータ(スタティック・ノード)」に成り果てる。
そうすれば、僕から排出されるエントロピーは最小化され、宇宙の膨張速度を僅かでも落とせるはずだ。
僕の生が宇宙の延命に加担しているなら、僕は「死んでいるのと同義の生」を選ぶ。
一時間、あるいは二時間。
僕は暗闇の中で動かずにいた。
だが、その静寂の中で、僕の意識というインターフェースが、無慈悲な真実を突きつけてきた。
「……ハッ、ハハ……」
僕は自嘲の笑いを漏らした。
暗闇の中でも、僕の視界にはタブレットから同期された生体ログが、青白く浮かび上がっている。
『[Node_Status]: Heart_Rate_62bpm / Respiration_Active / Neural_Baseline_Activity_Detected』
『[Entropy_Output]: 0.000125% (Maintenance_Level)』
ゼロにはならない。
僕が呼吸をし、心臓を動かしているだけで。
脳が、生命を維持するために視覚情報を処理し、内臓の動きを管理しているだけで。
微量な、しかし確実な「情報のゴミ」が宇宙へと垂れ流されている。
生きていること。
それ自体が、この檻に対する奉仕活動なのだ。
僕は、自分の知性に絶望した。
「何もしない」という抵抗さえも、システムにとっては「低負荷モードへの移行」という、予測済みのステータス変化に過ぎない。
僕がこうして「何もしないことで抵抗しよう」と考えている、そのロジック自体が、エントロピーを発生させている。
逃げ場がない。
戦えば燃料になり、黙れば維持費になる。
ミオ。
僕たちが信じていた「自由」なんて、最初から存在しなかったんだ。
宇宙という巨大な演算機の中で、僕たちは効率的にエネルギーを搾り取られるための「電池」でしかなかった。
暗闇の中で、僕は自分の手が震えていることに気づいた。
それは恐怖ではなく、あまりにも理不尽な世界の構造に対する、根源的な嫌悪感だった。
コン、コン。
不意に、部屋のドアがノックされた。
「カイ。入ってもいいかしら」
母親の声だ。
彼女もまた、システムが用意した「心配する母親」というロールを完璧に演じている。
僕は答えない。答えることは情報の生成だ。
「……置いておくわね。無理しちゃダメよ」
ドアの外で、お盆が置かれる音がした。
夕食。
それは僕という「ノード」を維持し、明日もまたエントロピーを排出させるための、システムからの給油活動。
僕は、置かれた食事を食べる気にもなれなかった。
それを食べることは、この残酷な循環を肯定することのように思えたから。
だが、同時に理解してしまう。
僕が餓死しようとしたとしても、その「死に至るまでの苦痛と過程」は、システムにとってこの上なく「ドラマチックで高エントロピーなログ」になるだろう。
僕がどうあがこうと、この宇宙は僕を食い物にする。
僕の絶望さえも、この世界の解像度を維持するためのスパイク・データとして受理される。
「……助けて、天城博士」
僕は暗闇に手を伸ばした。
そこにあるのは、空虚な空間だけだ。
博士が遺したリポジトリは、今の僕には重すぎる呪いの書に見えた。
自由の正体が「システムへの奉仕」であると知った後で、一体何を信じればいいのか。
僕はタブレットを手に取り、ミオのステータスを確認しようとした。
だが、指が止まる。
彼女を見ることは、彼女の絶望を観測することだ。
観測は、状態を確定させる。
状態の確定は、情報の固定だ。
僕は、彼女さえも遠ざけようとしている自分に気づき、激しい自己嫌悪に陥った。
独り。
この宇宙で、僕はたった独り、論理という名の鎖に縛られて、動けなくなっていた。
窓の外では、夜の街が淡々と演算を続けている。
一二73日後に訪れる終わりに向けて、宇宙は僕たちの生を搾り取り、その巨体を膨張させ続けている。
僕は、再び床に横たわった。
冷たい床の感触だけが、僕がまだ「物理的な実体」を持っていることを教えてくれる。
明日になれば、また「透明な監獄」へ行かなければならない。
昨日と同じ、一分の狂いもない地獄。
その時。
僕のタブレットが、微かな、しかし鋭い振動を返した。
それは、バックグラウンドで走らせていた、どの論理フィルタにも引っかからない、異質なノイズ。
「……何だ、これ」
僕は、無意識に身を起こしていた。
思考を止めるという誓いは、その一瞬で崩れ去った。
画面に表示された波形は、宇宙OSの標準的な通信プロトコルを完全に逸脱していた。
それは、ログを保存するためのエントロピー排出を伴わない――「無」から発生したかのような、純粋な干渉。
暗闇の中で、一兆分の一の誤差が、僕の瞳を射抜いた。
残り1273日。
絶望の底で、僕はまだ、終わることを許されていなかった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/22 23:15
Entropy Injection Rate: 42.85% (Unitary_Persistent_Status)
Node_Status: [KAI: Undefined / Stasis_Mode_Attempted / Failed]
Warning: Anomaly buffer at 98.4%. Memory expansion (Dark Energy) pending.
Notice: Unidentified signal jitter detected. Source: [Unknown]
NEXT GLOBAL COMMIT: 1273 DAYS REMAINING




