第20話:透明な監獄
20XX年4月22日、月曜日。
目覚まし時計が放つ無機質な電子音は、昨日までの絶望など一切関知しないという態度で、正確に午前7時を刻んでいた。
326万年に一度のグローバル・コミットまで、残り1273日。
僕は重い瞼をこじ開け、自室の天井を見上げた。
日曜日の間、僕は42.85%という異常なEIR(エントロピー注入率)が世界を壊さない理由を、何万通りもの計算式で解き明かそうとした。だが、辿り着いた結論はいつも同じだった。
この宇宙OSは、僕たちが生み出した「火」を、延命のための「燃料」として完全にシステムの一部に組み込んでしまったのだ。
僕は制服に着替え、鏡の前に立った。
鏡の中の僕は、どこにでもいる平凡な高校生に見える。だが、この瞳の奥に蓄積された絶望のログだけは、誰にも共有できない非公開のデータだ。
家を出て、駅へと向かう。
通勤・通学路を行き交う人々の群れは、驚くほど「いつも通り」だった。
信号が青に変われば、集団は一定の速度で歩き出す。ぶつかりそうになれば、最小限の角度で回避する。その動作の一つ一つに、天城理論が定義する「枝刈り(プルーニング)」の極致が見て取れる。
昨夜、ミオの両親を襲ったあの惨劇も、この街のデータベース上では、既に「存在しない例外」としてパッチが当てられているのだろう。
学校の校門をくぐった瞬間、肌を刺すような違和感に襲われた。
いや、正確には「違和感の欠如」という名の違和感だ。
二日前、僕たちは間違いなくこの世界の根幹にハックを仕掛けた。
管理区域のルールを破り、禁忌のコードを実行した。
それなのに、学校の空気は澱み一つなく、澄み切っていた。
「おはよう、カイ君。今日は一段と顔色が悪いな。体調でも崩したのかい?」
廊下を歩いていると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
声の主を振り返り、僕は息を呑んだ。
そこには、腕章を巻いた学級委員長の佐藤が、いつものように穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「……佐藤」
「おや、そんなに警戒しなくてもいい。ここは学校だよ。私は君たちのクラスメイトであり、この秩序を守る委員長だ」
佐藤は眼鏡を押し上げ、僕の横を通り過ぎようとした。
その歩調も、声のトーンも、先週までの彼と何ら変わりはない。
僕が拳を握りしめ、彼の背中に言葉を叩きつけた。
「……どういうつもりだ。僕たちを『放置する』というのは、こういうことか?」
佐藤は立ち止まり、ゆっくりと僕の方へ顔を向けた。
その瞳の奥には、敵意も怒りも、ましてや優しささえも存在しなかった。
ただ、システムが正常に稼働していることを確認する、冷徹なセンサーのような光。
「勘違いしないでほしい。君たちを監視していないわけではない。……ただ、監視する必要がなくなったんだよ。君たちがどれほど『自由意志』を行使しようと、それは既に宇宙OSの許容範囲内に収まっている。今の君たちは、言わば『檻の中を自由に走り回ることが許されたモルモット』だ」
「……何だと」
「君たちが放出するエントロピーは、42.85%という安定した高水準を維持している。それは、このセクターの演算寿命を確実に延ばしている。……ありがとう、カイ君。君のおかげで、グローバル・コミットのデッドラインは一秒たりとも前倒しされることはなくなった。君は、世界にとって最も『有用なバグ』になったんだよ」
佐藤の言葉は、鋭利なナイフよりも深く僕の誇りを切り裂いた。
反逆しているつもりが、実はシステムの維持に加担させられている。
戦うべき「敵」が、僕たちの存在を否定するのではなく、むしろ「利用」し、微笑みながら受け入れている。
これほど屈辱的な敗北があるだろうか。
佐藤は「じゃあ、HRに遅れないように」とだけ言い残し、事務的な足取りで去っていった。
彼が消えた後の廊下で、僕は自分の存在が透明になっていくような感覚に陥った。
教室に入ると、そこには既にミオが座っていた。
彼女は窓の外をじっと見つめ、周囲の喧騒から隔絶されたように静止していた。
僕が近づくと、彼女はゆっくりと視線を動かした。その瞳は、絶望を通り越し、深い虚無の色に染まっていた。
「……おはよう、カイ君」
彼女の声はカサカサに乾いていた。
「……ミオ。体調は……ご両親は、どうだった?」
ミオは微かに唇を歪めた。
「『完璧』だよ。今朝も、お母さんは私の好きなおかずを作って、お父さんは天気予報の話をして、私を送り出してくれた。……昨日のことなんて、夢にも思ってないみたい。……私が見ているあの青い文字だけが、二人の正体を教えてくれる。……それ以外は、全部『普通』なの」
彼女の指が、机の端をなぞる。
その視界には、クラスメイトたちに張り付いた膨大な行動キューや、教室内のオブジェクトの解像度情報が流れ続けているはずだ。
「……ねえ、カイ君。私たち、もう戦う相手がいないんだね。佐藤君も、学校のみんなも、誰も私たちを責めない。……ただ、無視されてる。……私たちが何をしても、世界はビクともしないし、むしろ喜んでる。……これなら、あのデッドスポットで低解像度なまま消えてしまったほうが、ずっとマシだった」
ミオの言葉に、僕は何も返せなかった。
授業が始まっても、その感覚は強まるばかりだった。
教壇に立つ教師の言葉は、まるで録音された音声を再生しているかのように抑揚がなく、最適化されていた。
黒板に書かれる数式。
ノートを取る生徒たちの筆音。
そのすべてが、完璧な調和の中で進行していく。
僕たちが机を叩いて叫んだとしても、システムは瞬時にそれを「突発的なノイズ」として処理し、全体の流れを修正してしまうだろう。
これこそが、宇宙OSが用意した「透明な監獄」の真体だ。
物理的な壁はない。鎖もない。
ただ、「何をしても無駄である」という論理的な確定事項が、僕たちの四方を囲んでいる。
自由意志という名の熱量は、この巨大な冷却装置の中に吸い込まれ、ただの安定した背景放射へと変換されていく。
放課後、僕たちはいつものように屋上へと向かった。
以前はそこが、世界の違和感を語り合える唯一の聖域だった。
だが、今の僕たちにとっては、そこさえも宇宙が用意した「観測用のケージ」の一部にしか見えなかった。
夕日に染まる街並みを眺めながら、僕は一人でタブレットを操作し続けた。
相変わらず、EIRは42.85%。
僕がどんなにログを解析しても、佐藤の論理を破綻させる穴は見つからない。
「……打つ手が、ない。今の僕の頭脳じゃ、自分の無力さを証明することしかできない」
僕が自嘲気味に呟くと、ミオが隣で小さく息を吐いた。
「……敵がいない時間が、一番つらいね。……誰かに怒鳴られたり、消去されそうになったりしてる時のほうが、まだ『生きてる』って感じがしたよ」
ミオの言葉は、鋭い真実を突いていた。
戦うべき対象を失い、ただ「許可された異常」として日常に溶かされていく。
それは、意識が想起という演算結果の奴隷になることと、本質的に何が違うのだろうか。
太陽が沈み、管理区域の街灯が一斉に点灯する。
一ミリの遅延もなく、効率的に夜が配置されていく。
残り1273日。
僕たちはこの静かな地獄の中で、あと何度、この「完璧な月曜日」を繰り返さなければならないのか。
不意に、風が止まった。
屋上のフェンス越しに見える街の風景が、一瞬だけ、ノイズのように揺らいだ。
ミオが目を見開く。
「……今、何か……」
「ミオ?」
「……わからない。でも、青い文字が……一瞬だけ、全部消えた気がした」
僕は慌ててログを確認したが、数値に変化はない。EIRは不動の42.85%。
だが、僕自身の直感が、論理の裏側で警鐘を鳴らしていた。
佐藤の言う通り、僕たちの抵抗が「燃料」として受理されているなら。
この閉塞感を打ち破るには、もはや「世界をバグらせる」以上の、全く別のロジックが必要になる。
透明な檻の向こう側で、何かが動き始めていた。
それは、宇宙OSの設計思想にも、天城博士の理論にもない、未知の変数の胎動だった。
僕は震える手でタブレットを閉じ、ミオの冷たい手を握った。
「……明日も、学校へ行こう。……僕たちが消えない限り、まだ演算は終わっていない」
僕の言葉は、自分自身に言い聞かせるための脆弱なパッチに過ぎなかった。
だが、今はそれだけが、この透明な世界で僕を僕として繋ぎ止める、唯一の未定義命令だった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/22 16:30
Entropy Injection Rate: 42.85% (Baseline_Shift_Accepted)
Node_Status: [KAI: Undefined] / [MIO: Undefined / Visual_Anomaly_Detected]
Current_Action: Daily_Routine_Consistency: 100.00%. No ISMS intervention required.
Warning: Local sector stability is exceptionally high. Anomaly buffer is full.
NEXT GLOBAL COMMIT: 1273 DAYS REMAINING




