第2話(序章):ハミルトニアン拘束とアイドル状態
朝、目が覚めた瞬間に、僕らは「世界という地図」を現実へとマッピングし始める。
網膜が捉えた光の刺激を、脳内にある『空間』という座標系に配置する。
指先が触れた冷たさを、『物質』という属性に紐付ける。
そうやって、自分という存在が今、この場所に連続して存在しているのだと、疑いもなく信じ込む。
だが、それは天城博士がかつて指摘した通り、不完全なインターフェースが見せる幻想に過ぎない。
僕らが「現実」と呼んでいるものは、宇宙という巨大なシステムが吐き出した演算結果の、ほんの一部を切り取っただけの「出力レイヤー」なのだから。
*
「……さて、前回の講義で、宇宙は連続体ではなく、離散体であると学んだ。今日はそのさらに深淵……『時間』の正体について踏み込もう」
物理教師の声が、昨日よりも一段低く教室に響いた。
ホログラムの黒板には、大きな文字で『H≈0』と表示されている。
「旧時代の人間を最も悩ませ、そして最も絶望させた数式がこれだ。ハミルトニアン拘束。端的に言えば、宇宙の全エネルギーを足し合わせると、それは必ずゼロに近似されるという法則だ」
教師は生徒たちを見渡す。そこには、数式を文字通りに受け取って戸惑う者と、いつもの退屈な呪文として聞き流す者が混在していた。
「諸君、想像してみろ。車が走り、星が輝き、君たちが今こうして呼吸をしている。そこには膨大なエネルギーが消費されているはずだ。だというのに、宇宙全体の家計簿をつければ、残高は常に『ゼロ』だと言う。旧時代の物理学者は、この矛盾を解消するために一生を捧げた。……だが、天木博士の答えは驚くほどシンプルだった」
教師が指を鳴らす。ホログラムが、一枚の映画のフィルムへと切り替わった。
「天城博士は言った。宇宙は、実行中ではない。宇宙は、次の状態へ遷移するための待機状態にあるのだ、と」
カイは、手元の端末でその言葉を噛み締めた。
宇宙全体の波動関数が時間発展しないことを示すホイーラー・ドウィット方程式。時間は物理的実体ではなく、変化を記述するための便利な座標、すなわち「地図」に過ぎない。
「物理的な宇宙は、因果関係によって順序付けられた事象のネットワーク……B系列(Before/After)として、ブロック宇宙的に並列している。そこには『過去・現在・未来』という区別はなく、すべての事象は同時に存在している。ハミルトニアン拘束がゼロを示すのは、宇宙そのものが、一瞬一瞬、完璧にバランスの取れた『静止データ』の連鎖として存在しているからに他ならない」
教師が歩を止め、教室が静まり返る。
「では、なぜ我々は『動いている』と感じ、なぜ『今』という実感を抱くのか? その答えを解くために、天城博士が提唱した有名な思考実験を挙げよう。……通称『想起無きデバイス』の実験だ」
カイの端末を動かす手が止まった。これこそが、天城理論において「意識」を定義する最重要のロジックだ。
「諸君、完璧な記録機能を持つが、意識……つまり自己参照機能を持たないデバイスを想像してほしい。そのデバイスは、一秒前の自分の状態をハードディスクに完璧に記録することができる。だが、このデバイスにとって、その記録は単なる『現在の物理的なビット配列』に過ぎない。過去のデータを現在のデータとして持っているだけで、そこに『過ぎ去った感覚』は発生しない」
教師は、何も映っていないホログラムの空間を指差した。
「この『想起無きデバイス』は、時間の流れを感じるだろうか? 答えは、明確に『No』だ。過去を参照し、それを現在の知覚と結びつける機能……すなわち『想起(Recall)』を持たない存在にとって、時間は物理的にも主観的にも存在し得ない」
カイは、自分の指先を見つめた。
この指を動かしているという感覚、窓から差し込む光の眩しさ。それらすべては、静止したデータの中から「意味」を抽出する際に発生する、一種の演算結果なのか。
「我々生命プロセスが、このデバイスと決定的に異なる点。それが意識による『想起』だ。我々は脳内にある過去の痕跡を読み出し、それを『かつて自分が体験した状態である』と解釈する。そして現在と過去の間に、自分の体験という『ストーリー(物語)』を構成するんだ。このストーリー構成というソフトウェア的なエフェクトこそが、物理的には存在しない『時間の流れ』というクオリアを生み出している」
カイは端末に、自分なりのメモを打ち込む。
『宇宙 = 巨大な静的データベース。
時間 = 実在しない。想起によって捏造された物語。
想起無きデバイス = 点で存在し、時間を持たない。』
講義は佳境に入る。
「つまり、時間は外部から流れてくるものではない。我々が、静止した宇宙のログを読み解き、内部的に生成している幻想なのだ。我々は、変化しない永遠の宇宙の中で、記憶という名の化石を拾い集め、そこに『時間』という夢を見ているに過ぎない」
キーンコーン、カーンコーン。
授業の終わりを告げるチャイムが、やけに現実味を欠いた音色で響く。
生徒たちは我先にと席を立ち、賑やかな放課後へと溶け込んでいく。
だがカイは、しばらく席を立つことができなかった。
自分の血潮の音も、窓から聞こえる部活動の掛け声も、すべては『H≈0』の静止した闇の中で、一瞬ごとに「想起」によって繋ぎ止められている、儚い物語の断片にしか思えなかった。
「……マッピングの先に、物語があるのか」
カイは小さく呟いた。
もし、この世界が静止した巨大な地図なのだとしたら。
自分という「物語」を記述している真のコードは、一体どこに隠されているのだろうか。
天城博士が遺した、標準理論の美しすぎる静寂。
カイは自分の端末の奥底で、昨日よりも一歩深く、禁じられたディレクトリへのアクセス・プロトコルを練り始めた。
第2回講義、終了。
時間の正体が消えた世界で、カイの孤独なデバッグが加速していく。




