第19話:ユニタリ性の罠
カーテンを閉め切ったままの僕の部屋は、数台のモニタが放つ無機質な光に支配されていた。
二〇XX年四月二一日、日曜日。
T-1274。
三百二十六万年に一度のグローバル・コミット――地球文明の消去まで、残り一二74日。
僕は昨夜から一睡もしていない。
タブレットの画面には、昨日、ミオの実家で実行した「強制例外処理」のログが、血の跡のように赤く表示されている。
「……あり得ない」
僕は何度目かわからない溜息を吐き、シミュレーションの再計算を実行した。
画面端に表示されている「EIR:エントロピー注入率」の数値は、42.85%。
天城理論に基づけば、この数値は「世界の不確定性」の濃度を示している。
通常、管理区域内のEIRは、徹底的な枝刈り(プルーニング)によって0.1%以下に抑えられている。そこへ、僕たちは一気に42%もの猛毒を叩き込んだ。物理定数は乱れ、両親の意識は「自由」という名の過負荷に焼かれた。
だが、その直後に佐藤――ISMS管理委員が現れ、システムは「ロールバック」を完了させた。
本来なら、ロールバックが成功したのなら、EIRの値は元の数値まで下がるはずだ。
不純物が取り除かれたのなら、水は再び透明に戻る。それが論理性というものだ。
しかし、現実は違った。
宇宙は、僕たちが放った「火」を飲み込んだまま、平然と日常を再構築してみせた。
「ユニタリ性が、保たれている……」
僕は画面上の数式を睨みつけた。
宇宙がデジタルな演算系である以上、情報は消えない。たとえ表面上の現象を以前の状態に上書きしたとしても、そこで発生した「例外」の事実は、累積的なエントロピーとして系全体のメモリに保存され続ける。
これこそが、天城博士の論文で警告されていた「ユニタリ性の罠」だ。
僕たちは「バグを起こせばシステムが壊れる」と考えていた。だが、この宇宙OSは、僕たちが想像していたよりも遥かに強靭で、そして強欲だった。
コン、コン、と控えめなノックの音がした。
「カイ、入るわよ。お昼ごはん、置いておくわね」
ドアを開けて入ってきた母親は、お盆に乗せたサンドイッチを机の端に置いた。
ミオの両親と同じだ。
彼女の動作には一ミリの揺らぎもなく、僕への接し方は「受験を控えた息子の健康を気遣う母親」という、システムが規定した最適解をなぞっている。
僕が昨夜、何時に帰宅したのか。
何に絶望し、何と戦っているのか。
彼女はそれを問うことはない。なぜなら、台本にそのような「無駄な分岐」は用意されていないからだ。
「……ありがとう。後で食べるよ」
「そう。根を詰めすぎないようにね」
母親は微笑んで、部屋を出ていった。
その微笑みが、かつてのような「本物の優しさ」なのか、それとも宇宙OSがレンダリングした「記号」なのか。
今の僕には、その境界線を論理的に識別することができない。
僕は再びモニタに向き合い、思考を加速させた。
仮説A:ISMSのメインサーバーを直接ハックし、管理区域のロールバック機能を一時的に無効化する。
検証:不可能。ISMSのプロトコルは物理法則そのものにマウントされている。重力や光速を書き換えるのと同義であり、現在の「未定義(Undefined)」権限ではアクセス権が足りない。
仮説B:さらに大規模なエントロピー注入を行い、システムのリソースを飽和させる。
検証:危険すぎる。42%の注入でミオの両親は精神崩壊の危機に瀕した。注入率を100%に近づければ、セクター全体、あるいは宇宙そのものが「物理的な崩壊」を引き起こす可能性がある。
仮説C:自分たちの意識を「未マウント領域」へ移送し、外部からシステムを再構築する。
検証:移送手段が不明。そもそも「外部」が実在するという証明が、天城リポジトリの未解読領域にあるかどうかも定かではない。
「……クソっ」
僕はキーボードを叩きつけた。
浮かんでくる攻略法を、僕自身の論理が次々と論破していく。
天城理論を知れば知るほど、この宇宙が「出口のない箱庭」であることを確信してしまう。
宇宙OSの目的は、演算の継続だ。
エントロピーが枯渇し、すべての事象が確定しきってしまう「熱的死」を回避するために、システムは常に新しい「ノイズ」を求めている。
佐藤は言った。僕たちのあがきは「有用な資源」だと。
つまり、こういうことだ。
僕が今、こうして必死に逆転の数式を組み立て、脳をフル回転させて悩んでいること自体が、膨大な演算コストを消費し、宇宙に「新鮮なエントロピー」を供給しているのだ。
僕が自由を求めて足掻けば足掻くほど、宇宙のCPU負荷は高まり、結果として「全演算消去」のデッドラインが、僅かずつ先延ばしにされていく。
僕たちは「反逆者」ではなく、ただの「燃料」だった。
僕が知性を使ってシステムをハックしようとすることさえ、宇宙OSにとっては「面白いバリエーションの演算」として歓迎されている。
僕たちが苦しみ、足掻き、不確実な選択を重ねる。そのエントロピーを吸収して、この決定論の檻はさらに厚く、より安定して、永遠に近い時間を生き長らえていく。
「……勝てない」
僕は椅子の背もたれに体を預け、白く光る天井を見上げた。
そこにはミオのように文字列は見えない。だが、僕の頭脳というプロセッサが、その天井の質感が「手抜き」されていることを理解してしまう。
僕が見ていない時、この部屋の背面はレンダリングされていない。
僕が思考を止めた時、僕というノードの解像度は最低値に落とされる。
ミオ。
君は今、何を思っている?
あの「完璧な日常」の反復に、心を削られているのか。
それとも、もう何も見たくないと、瞳を閉じてしまっているのか。
僕はタブレットを手に取り、ミオへのメッセージを打ち込もうとして、止めた。
『大丈夫だ』 → ?
それは論理的な嘘だ。
『何か別の方法を考える』 → ?
それは今の僕には証明できない空論だ。
論理的思考力が強いということは、自分の無力さを数学的に証明できてしまうということだ。
もし、この宇宙が本当にデジタルなシミュレーションに過ぎないなら。
この「絶望」というクオリア(感覚)さえも、システムが僕たちに与えた「燃料の質を上げるためのスパイス」ではないのか。
そう考えると、自分の意志で悲しんでいることさえも、誰かのプログラムに従っているような気がしてくる。
残り1274日。
明日は月曜日だ。
再び、あの「檻の中心」である学校へ行かなければならない。
そこには、僕たちを「有用なバグ」として放置した佐藤がいる。
何事もなかったかのように回る、完璧な社会がある。
僕は、母親が置いていったサンドイッチを一口齧った。
味は、驚くほど正確だった。
マヨネーズの量も、パンの柔らかさも、僕の脳が「サンドイッチ」として認識するのに最も適した情報量で構成されている。
僕はそれを、砂を噛むような思いで飲み込んだ。
僕たちは生きているのではない。
ただ、この巨大な演算系の一部として「消化」されているのだ。
だが、その時。
モニタの片隅で、計算上は「ゼロ」に収束するはずのパラメータが、僅かに震えた。
ユニタリ性の保存則を無視するような、一兆分の一の誤差。
「……バグじゃない」
それは、カイが立てたいかなる仮説にも当てはまらない、外部からの「干渉」のような波形だった。
佐藤が言っていた「別のベクトルの監査者」。
それが、僕たちの絶望を「燃料」としてではなく、別の目的で観測しているのだとしたら。
「……まだ、終わらせない」
僕はその微かなノイズをログに刻み込み、モニタの電源を落とした。
暗転した画面に、自分の顔が映る。
そこにあるのは、敗北した少年ではなく、まだ答えを探し続けようとする「エラーコード」の表情だった。
不確実な明日が、来る。
それは宇宙OSが用意した台本かもしれないが、その台本を読み上げる僕の声だけは、まだ僕のものだと信じたかった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/21 21:00
Entropy Injection Rate: 42.85% (Persistent / Integrated)
Node_Status: [KAI: Undefined / Logic_Loop: Trapped]
Current_Action: Calculating_Escape_Path... [Status: Failed_Retry_Infinite]
NEXT GLOBAL COMMIT: 1274 DAYS REMAINING




