第18話:日曜日の砂
昨夜の出来事は、熱に浮かされた悪い夢だったのではないか。
そう思いたくなるほど、窓から差し込む日曜日の陽光は「高解像度」で、無機質なほどに明るかった。
カイと実家に戻った、昨夜の事。
佐藤という圧倒的な「論理」に打ちのめされ、自分たちのあがきが宇宙の延命燃料に使われているという絶望を突きつけられた私たちは、ろくに言葉も交わせなかった。
ただ、週明けの月曜日に学校で再会することを約束し、今日という日曜日は、それぞれが一人で「この現実」を消化するために使うことに決めた。
カイは、私がこれ以上壊れないようにと、気遣ってくれたのだと思う。
ベッドの中で目を覚ました私の瞳には、天井の隅に張り付いた『[Object_ID: Ceiling_A1 / Texture: Standard_Plaster]』という青い文字列が映り込んでいる。
視界をノイズが埋め尽くす。
意識が覚醒するに従って、世界を構成する膨大なメタデータが、私の脳内に濁流のように流れ込んでくる。
階下からは、トントン、と小気味よい包丁の音が聞こえてきた。
味噌汁の匂い。焼き魚の香り。
どこにでもある、平凡で、幸せな、日曜日の朝の風景。
私は重い体を引きずるようにして階段を下り、リビングのドアを開けた。
「あら、澪。おはよう。よく眠れた?」
キッチンに立つお母さんが、眩しいほどの笑顔で私を振り返った。
その顔の横には、昨日と全く同じ『[Affection_Level: 85% (Optimized)]』のタグが、穏やかに明滅している。
「……お母さん」
「なあに? 今日はいいお天気ね。お父さんもさっき起きて、お庭の掃除をしてるわよ。朝ごはん、すぐできるから座って待っててね」
お母さんの動作には、一分の無駄もなかった。
お皿を並べ、お箸を置き、湯気の立つお椀を運ぶ。
昨夜、壁に背を預けたまま、焦点の合わない目で虚空を指差し、意味をなさない音節を繰り返していたあの姿。
それらは、今の彼女の中には一片も存在していない。
宇宙OSによる、完璧な「ロールバック(強制復旧)」。
「……ねえ、お母さん。昨日のこと、覚えてる?」
私は食卓に座り、お母さんの目を見つめて尋ねた。
お母さんは、お玉で味噌汁を掬う手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「昨日のこと? ああ、カイ君が遊びに来てくれたことね。澪が男の子を連れてくるなんて珍しいから、お母さんちょっと緊張しちゃったわ。でも、とっても礼儀正しい子ね。またいつでも呼びなさいな」
違う。そうじゃない。
私が聞きたいのは、そんな「台本通り」の思い出話じゃない。
「そうじゃなくて……。私が、お母さんに変なことをしたでしょう? カイ君と一緒に、何か……難しい命令を実行して。お母さんとお父さんが、すごく苦しんで……」
「あら、何言ってるの、澪。昨日はみんなで楽しく夕食を食べたじゃない。少し疲れちゃったのかしら。ほら、温かいうちに食べて」
お母さんは、優しく私の頭を撫でた。
その手の温もりさえも、今の私には『[Contact_Response: Gentle_Touch / Heat: 36.5C]』という計算結果の出力にしか感じられない。
彼女が優しければ優しいほど。
彼女が「完璧な母親」を演じれば演じるほど。
私の心は、冷たい刃物で切り刻まれていく。
庭から、お父さんが戻ってきた。
軍手を外し、額の汗を拭う動作さえも、まるでCMのワンシーンのように整然としている。
「おはよう、澪。今日は部活もないんだろう? たまには家でゆっくりするといい」
お父さんは新聞を広げた。
その頭上には『[Status: Action_Queue: Check_Daily_News]』の文字。
私は、たまらなくなって叫んだ。
「お父さん! 昨日の夜、私たちが何をしたか、本当は覚えてるんでしょ!? あんなに苦しそうにしてたじゃない! 『澪』って、私の名前を呼んでくれたじゃない!」
お父さんは新聞から顔を上げ、穏やかな、しかしどこか困惑したような表情を浮かべた。
「澪。どうしたんだ、そんなに大きな声を出して。……ああ、昨夜のことか。君たちが部屋で何か言い合いをしていたのは聞こえていたよ。でも、若い頃は誰だって衝突があるものだ。あまり気に病むな」
「違う! 衝突なんてしてない! 私は、お父さんたちを助けたくて――!」
「よしよし、わかったから。な、お母さん、澪に美味しい卵焼きを作ってやってくれ。少し情緒不安定な時期なのかもしれないな」
お父さんは、包み込むような包容力を見せて、再び新聞に目を落とした。
怒りもしない。否定もしない。
ただ、システムが用意した「思春期の娘を持つ父親の標準的な対応(パターンC)」を再生しているだけ。
昨夜のあのインジェクション。
一瞬だけ、二人の瞳に宿った「意志」の光。
自由の熱に焼かれながらも、私の名前を呼んでくれた、あの剥き出しの「魂」。
それは、この完璧な日常という砂に飲み込まれ、完全に埋没してしまった。
宇宙は、情報を保存する。
カイが言っていた「ユニタリ性」。
私が注入したあの「火」は、消えたのではなく、この厚い「決定論」の地層の下に、永遠に閉じ込められたのだ。
二人は今、システムの底で、自分たちの自由を人質に取られたまま、上から「幸せな家族」という皮を被せられている。
それが、どれほどの地獄か。
私はお父さんが差し出した味噌汁を一口飲んだ。
美味しい。
悔しいほどに、お母さんの味だ。
出汁の濃さも、具の切り方も、私が生まれてからずっと慣れ親しんできた「最適解」。
でも、私にはわかってしまう。
お母さんがこの味噌汁を作ったのは、私を愛しているからではなく、それが『[Logic: Daily_Recursive_Task]』として規定されているからだということが。
食事の間も、二人は「完璧」だった。
最近の学校の成績の話。
来月の連休の予定。
近所のスーパーの特売の情報。
すべてが、エントロピーの低い、安全で平穏な情報の交換。
「……ねえ、お母さん。昨日、お皿を割ったわよね」
私は、最後の抵抗を試みた。
「お皿? あら、そんなことあったかしら。戸棚を確認したけど、欠けているものなんて一つもなかったわよ。澪の勘違いじゃない?」
お母さんは、屈託なく笑った。
当然だ。システムがロールバックした際、物理的な破損もすべて修正されたのだから。
この家には、もう、傷一つ残っていない。
私の記憶の中にある惨劇だけが、この「きれいな世界」において、唯一の不純物として浮いている。
食後、自分の部屋に戻った私は、ベッドに突っ伏した。
自分の瞳を閉じても、瞼の裏には、両親に張り付いたあの「青い文字」が焼き付いて離れない。
助けたかった。
二人を、この檻から出したかった。
でも、私がやったことは、二人の檻をさらに強固にし、その苦しみを宇宙のエネルギーとして献上しただけだった。
私はスマホを取り出し、カイへのメッセージ画面を開いた。
『打つ手なしになったような絶望』。
カイも今、自分の部屋で、同じ重力に押し潰されているのだろうか。
それとも、彼の冷徹な論理は、すでにこの「燃料としての生」を、新たな数式として受け入れてしまっているのだろうか。
「……消えたい」
思わず、独り言が漏れた。
未定義(Undefined)のステータスを持つ私が、この世界から消えることはできるのだろうか。
それとも、私が消えようとすることさえ、宇宙にとっては「良質な情報の変化」として利用されるだけなのだろうか。
窓の外では、日曜日の街が、完璧なルーチンで動いている。
散歩をする人、車を洗う人、買い物に行く人。
そのすべてが、宇宙OSという神の指先に動かされている人形。
カイ。
私たちは、どうすればいい?
この「正しい世界」で、どうやって息をすればいいの?
私は返信のない画面を見つめたまま、深い泥のような眠りへと逃げ込んだ。
夢の中でなら、あの青い文字のない、本当の両親に会えるような気がしたから。
だが、夢さえも、想起という演算の結果に過ぎないことを、私はまだ認めたくなかった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/21 14:20
Entropy Injection Rate: 42.85% (Stable / Background_Noise_Processing)
Node_Status: [MIO: Undefined / Psychological_Load: Critical]
Note: Target nodes [Mother/Father] have completed recursion to baseline.
Interaction_Quality: 100% Deterministic.
NEXT GLOBAL COMMIT: 1274 DAYS REMAINING




