第17話:ロールバック(再帰する決定論)
リビングの空気は、物理的な質量を持っているかのように重く、そして熱かった。
床に這いつくばるミオの父親と、壁際で虚空を見つめる母親。二人の脳という演算器からは、天城博士のコードが無理やりこじ開けた「無限の未来」という膨大なデータを処理しきれず、目に見えない火花が散っている。
そこに現れた佐藤の姿は、この混沌とした空間において異様なほど「平坦」だった。
彼の周囲だけはテクスチャの乱れも、照明の明滅も発生していない。宇宙OSの直接的な加護を受け、論理的整合性が完全に維持された「絶対的な安全地帯」。
「佐藤……! 何をしに来た」
僕はミオを背中に隠し、タブレットを構えた。だが、佐藤は攻撃を仕掛ける様子もなく、ただ冷徹に、眼鏡の奥の瞳でリビングの惨状を観察していた。
「何、と言われても困るな。私はISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)の管理委員だ。セクター内で発生した致命的なバグ……君たちが実行した『例外処理命令』の推移を確認しに来ただけだよ」
「お父さんたちを、どうするつもりなの!?」
ミオが叫ぶ。佐藤はフッと、憐れむような笑みを浮かべた。
「私が何かをする必要はない。……よく見てごらん。彼らの頭上に浮かんでいる、その真っ赤なエラーログを。それが何を意味しているか、カイ君、君の論理なら理解できるはずだ」
僕はミオの視線を追い、両親のノード・ステータスを脳内でシミュレートした。
赤いタグ――『[ERROR: UNKNOWN_EXCEPTION]』が、激しく明滅している。その下には、処理しきれない演算スタックが積み上がり、ノードの生存可能領域を圧迫していた。
「……演算過負荷。彼らの脳が、自由意志の熱に耐えられないのか」
「その通りだ」
佐藤が一歩、前に出る。彼の足元から、乱れていたリビングの床のテクスチャが、まるでアイロンをかけられたように滑らかに「修正」されていく。
「人間というノードは、本来、決定論という安楽なゆりかごの中で眠るように設計されている。何を食べ、何を話し、誰を愛するか。それらすべてをシステムが提供する『最適解』に委ねることで、彼らは演算リソースを節約し、生存を維持しているんだ。……だが、君たちは彼らに無理やり『自由』という名の猛毒を流し込んだ」
床で悶絶していた父親の動きが、不自然に止まった。
彼の喉から漏れていた、あの「意志」の宿った掠れ声が、プツリと途絶える。
「……あ、……ぁぁ……」
「見なさい。彼らの自己防衛プログラムが作動し始めた」
佐藤の声が、実況者のように淡々と響く。
ミオが「やめて!」と叫んで駆け寄ろうとするが、目に見えない論理の壁に阻まれたかのように、彼女の足が止まった。
父親の頭上に浮かんでいた真っ赤なエラータグが、急速に青色へと変色していく。
それは「救い」ではなかった。
壊れかけたシステムを、最も安定していた「過去の状態」へと強制的に戻す、非情なリセットプロセス。
『[Status]: System_Self_Healing_Initialized...』
『[Action]: Rollback_to_Stable_Build_0420...』
「……ロールバック」
僕はその単語を、苦い毒を飲み込むような思いで口にした。
「自由意志の演算コストを支払い続ける覚悟も、スペックもないノードは、生存のために自ら『台本』へと回帰することを選択する。……ほら、白石さん。君が望んだ『本当のお父さん』は、今、自ら進んで消滅を選んだんだ」
「嘘……嘘よ! お父さん、目を開けて!」
ミオの悲鳴に答えるように、父親がゆっくりと体を起こした。
その動作には、先ほどまでの激しい痛みや困惑の痕跡は一切なかった。床に落ちた新聞を拾い上げ、膝についた埃を丁寧に払う。
顔を上げた彼の瞳には、再び、透き通るような、そして絶望的に空虚な「穏やかさ」が宿っていた。
「……おや、澪。カイ君を送っていったんじゃなかったのかい?」
父親が言った。
その声は、完璧に調整された周波数。一ミリの狂いもない『[Status: Action_Queue: Standard_Parental_Response]』。
続いて、壁際で固まっていた母親もまた、何事もなかったかのように台所へ向かった。
「そうよ、澪。もう遅いんだから、カイ君も気をつけて帰ってもらわないと。……あら、お皿を割っちゃったみたい。後で片付けないとね」
割れた食器の破片を、彼女は笑顔で跨いだ。
インジェクションが成功した直後の、あの「熱」はどこにもない。そこにあるのは、完全に冷却され、再構築された「完璧な日常」という名の地獄だった。
「……あああああぁぁぁ!」
ミオがその場に崩れ落ち、床を拳で叩いた。
救おうとして、インジェクションを試み、一瞬だけ再会できた「意志」。それは、宇宙OSという巨大な慣性の前では、瞬きほどの時間も維持できなかった。
佐藤は満足そうに頷き、僕に向き直った。
「理解できたかな、カイ君。局所的なエントロピーの注入で、この宇宙の『決定』は覆らない。君たちの行動は、湖に小石を投げ込むようなものだ。波紋は一瞬広がるが、すぐに水面は元通りになる」
僕は唇を噛み締め、佐藤を睨みつけた。
「……なら、なぜ僕たちを今すぐ消去しない。規約違反なんだろう? バグを放置するのは、君の美学に反するはずだ」
「美学、か。面白い表現だ」
佐藤は眼鏡を押し上げた。
「当初は、君たちを排除する予定だった。だが、システムの上層部……監査部門から別の裁定が下ったんだ。……君たちの行動は、宇宙全体で見れば微々たるものだが、その『予測不能なノイズ』が注入されることで、宇宙全体の演算寿命が、僅かだが延びていることが判明した」
「……何?」
「エントロピーが完全に枯渇し、熱的死を迎えるのを防ぐための『延命措置』として、君たちの存在は受理された。……いわば、檻の中のモルモットだ。君たちが無意味にあがき、エントロピーを放出し続ける限り、宇宙OSは君たちを放置することにした。……せいぜい頑張ってくれ。君たちの絶望的なあがきは、この宇宙にとって『有用な資源』だ」
佐藤の言葉は、消去の宣告よりも残酷だった。
自分たちの自由意志による反抗すら、宇宙を維持するための燃料として組み込まれている。僕たちは、逃げ場のないシステムの一部として、踊らされているに過ぎない。
「……私はこれで失礼するよ。週明けの学校には遅れないように」
佐藤は「監査者」を引き連れ、玄関へと向かった。
ドアが閉まる寸前、彼は振り返らずに付け加えた。
「ああ、それと……。最近、私とは別のベクトルの監査ノードがこの付近をうろついているようだ。……君たちのエントロピーを欲しがる者が他にもいる。気をつけたまえ」
静かになったリビング。
ミオは動かない。背中を丸めて、ただ静かに泣いている。
その横で、父親がテレビのチャンネルを変えた。
「カイ君、せっかくだからお茶でも飲んでいくかい? いい茶葉があるんだ」
その「親切な提案」が、僕の耳には、宇宙が吐き出したエラーメッセージのように聞こえた。
326万年に一度のグローバル・コミットまで、あと1275日。
僕たちは今日、初めての敗北を味わった。
圧倒的な決定論という壁の前に、僕たちの「自由」はあまりに無力だった。
だが、絶望の淵に沈む僕たちの前に、新たな「ノイズ」が近づいていた。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 23:45
Entropy Injection Rate: 42.85% (Stabilizing / Post-Spike)
Node_Status: [KAI: Undefined] / [MIO: Undefined / Deep_Despair] / [PARENTS: Fallback_to_Pruned_State]
Current_Action: SATOH_Exited. Audit_Log_Updated.
NEXT GLOBAL COMMIT: 1,275 DAYS REMAINING




