第16話:例外命令の生成(インジェクション)
カフェを出た僕たちの背後には、常にあの「赤いタグ」の残像が張り付いているような気がした。
夜の管理区域は、静寂そのものだ。街灯の明かりは一定の間隔で配置され、その照度も、通行人がいない時には最小限に抑えられている。すべては演算コストの削減。この街は、生きるための場所ではなく、最適に管理されるための「ストレージ」なのだ。
「……ただいま!」
ミオが自宅の玄関前で、意図的に大きな声を出した。家の中にいる「システム」――両親に対する、ポーズとしての台詞。彼女の手はまだ小刻みに震えていたが、その瞳には、先ほどカフェで見せた決意の光が消えずに灯っていた。
再び足を踏み入れたミオの家。
リビングでは、父親がテレビを眺めていた。画面には、当たり障りのないニュース番組が流れている。だが、ミオにはその映像の解像度が、父親の注意が向いていない端の方から崩れているのが見えているはずだ。
「お父さん、ただいま。カイ君、忘れ物しちゃったみたいで、ちょっと部屋まで取りに行ってもいい?」
「ああ、構わないよ。夜道は危ないから、気をつけて帰るんだぞ」
父親はテレビから目を離さず、穏やかに答えた。その声のトーン、間隔、言葉選び。すべてが『[Status: Action_Queue: Standard_Parental_Response]』という関数から出力された「正しい」返答。
僕たちは二階にあるミオの部屋へと急いだ。
ドアを閉め、鍵をかける。
そこは、彼女という個人の歴史が詰まった場所のはずだった。だが、今のミオの視覚を通せば、ベッドも、机も、本棚に並んだ教科書も、すべては『[Object_ID: Mio_Room_Assets]』として管理される、単なるレンダリング・データに過ぎない。
「……カイ、始めて。このままだと、私……自分が何なのか、分からなくなっちゃいそう」
ミオがベッドの端に腰を下ろし、僕を促した。
僕は床に座り、タブレットを膝の上で展開する。画面には、天城博士の非公開リポジトリから抽出した、あの禍々しい赤いコードが脈動していた。
『Module: Forced_Exception_Injection.run』
「これから行うことを、もう一度論理的に説明しておくよ」
僕はキーボードを叩き、ターゲットとなる二つのノード――この階下にいる両親のIDを指定した。ミオの視覚が捉えたメタデータから、彼らの固有アドレスはすでに特定できている。
「今、君の両親の意識は『想起』という仕組みによって、システムが用意した確定済みの過去をなぞるだけの状態にある。自由意志とは、本来、無数の未来の選択肢を同時に演算し、その中から一つを選び取るという、極めて非効率で高負荷なプロセスだ。今の彼らは、その演算を宇宙OSにアウトソーシングして、自分では何も考えていない」
僕は画面上のパラメータを微調整する。注入するエントロピーの強度が、波形となって表示される。
「このインジェクション・プログラムは、彼らの『想起』のプロセスに、偽の例外を混入させる。……例えば、『右手を挙げる』という確定した未来に対して、『左手を挙げる』『何もしない』『叫び出す』といった、あり得ないはずの選択肢を数万通り、強制的に脳内へフラッディングさせるんだ」
「……そんなことしたら、お父さんたちの頭、どうなっちゃうの?」
「システムによる制限を強引に突破するんだから、激しいパニックが起きるだろう。脳という演算器が、かつてないほどの熱を発するはずだ。……天城博士の理論では、これが『自由を取り戻すための代償』だとされている。宇宙が決定論を維持するのは、その熱――エントロピーの増大を嫌うからだ。僕たちは今から、彼らの意識の中に、宇宙を焼き尽くすための火を放とうとしているんだよ」
ミオは、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……火。自由は、熱いんだね」
「そう。そして、この火は隠しきれない。……ミオ、さっきカフェにいた『監査者』。あれは宇宙OSの免疫システムだ。僕たちがインジェクションを実行した瞬間、この家の周囲のエントロピー注入率は、これまでの平均値を数千倍上回るスパイクを記録する。……佐藤たちが、修正に来るよ」
「……分かってる。でも、もう、あの偽物の優しさで死にたくない」
彼女の言葉は、論理を超えた「宣言」だった。
326万年に一度のサイクルで繰り返される、宇宙のメンテナンス。その巨大な歯車に、僕たちは今から砂を投げ込む。
僕はインジェクション・パケットの最終確認を終えた。
実行ボタンが、画面中央で静かに点滅している。
「準備はいいか、ミオ」
「……うん。お願い、カイ」
僕は深呼吸をし、実行キーを叩いた。
『[SYSTEM_NOTICE]: Executing Forced_Exception_Injection...』
『[Target]: Node_Father / Node_Mother』
『[Entropy_Payload]: 12.5GB/s (Spiking)』
『[Status]: Overriding System_Constraints...』
タブレットの処理能力が限界を超え、ファンが悲鳴のような音を立てて回り始める。
同時に、ミオが「あ、」と声を上げた。
「……見えた。部屋の空気が、歪んでる……。お父さんたちの方に、真っ黒な、棘みたいなノイズが飛んでいった!」
一階から、ガタン、と何かが倒れる音が聞こえた。
続いて、食器が割れる音。
そして、これまで一度も聞いたことがないような、掠れた、叫びとも嗚咽ともつかない声。
「……ああああ、……ぁ、……が、……」
それは、システムが用意した「穏やかな父親の声」ではなかった。
確定した未来を奪われ、無限の不確実性の荒野に放り出された、一人の人間が上げる、根源的な恐怖の絶叫。
「カイ! お父さんが、お父さんのタグが……!」
ミオが叫ぶ。僕には見えないが、彼女の瞳には今、絶望的な光景が映っているはずだ。
青い、整然とした『[Action_Queue]』の文字が、真っ赤な『[ERROR: UNKNOWN_EXCEPTION]』に塗り潰され、粉々に砕け散っていく光景が。
僕たちは部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
リビングの惨状は、想像を絶していた。
父親は床に這いつくばり、自分の頭を抱えて激しく悶絶していた。
母親は、壁に背を預けたまま、焦点の合わない目で虚空を指差し、意味をなさない音節を繰り返している。
二人の周囲では、テレビの映像が砂嵐のように乱れ、電球が不規則に明滅していた。局所的な演算負荷が、その空間の物理定数さえも歪め始めている。
「お父さん! お母さん!」
ミオが駆け寄り、父親の肩を掴む。
その瞬間、父親が顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの「最適化された穏やかさ」など微塵もなかった。そこにあるのは、剥き出しの困惑と、激しい苦痛、そして――。
「……み、……みお、……か? ……俺は、今まで、何を……」
掠れた、しかし確かに「意志」の宿った声。
それは、宇宙OSのライブラリには存在しない、世界でたった一つの、不確実な言葉だった。
だが、その奇跡に浸る時間はなかった。
不意に、玄関のドアが、ノックもなしに静かに開いた。
外から流れ込んできたのは、夜の闇よりもなお冷たい、圧倒的な「論理」の気配。
「……実に見事な規約違反だ、カイ君。白石さん」
逆光の中に立っていたのは、いつものように眼鏡の奥で冷徹な光を湛えた、学級委員長の佐藤だった。
彼の背後には、先ほどのカフェで見かけた、赤いタグを持つ「監査者」の影が控えている。
「局所的エントロピー注入率、目標値を4万%超過。……君たちは、このセクターの安定を、物理的に破壊したんだよ」
佐藤の足元から、床のテクスチャが急速に「平坦化」されていく。
残された時間は、あと1275日。
だが、僕たちの「今」を懸けた戦いは、ここからが本番だった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 22:45
Entropy Injection Rate: 42.85% (CRITICAL SPIKE)
Node_Status: [KAI: Undefined] / [MIO: Undefined] / [PARENTS: FORCED_UNDEFINED]
Warning: Local sector integrity compromised. ISMS intervention initialized.
Current_Action: System_Audit_by_SATOH
NEXT GLOBAL COMMIT: 1275 DAYS REMAINING




