第15話:禁忌のデバッグ・コマンド
駅ビルの一角にある、深夜まで営業しているチェーン系のカフェ。
ミオと僕は、窓際のボックス席に向かい合って座っていた。
「……ごめんなさいお母さん。カイ君送ってくるね」
そう言って実家を飛び出してきたミオは、出されたままの手付かずのアイスコーヒーを、虚ろな目で見つめている。
店内には数人の客がいたが、その誰もが例外なく、端末を眺めるか、あるいは一定の周期でカップを口に運ぶという「最適化された」動作を繰り返していた。
「……ねえ、カイ。ここも、同じだね」
ミオが静かに呟く。彼女の視界には、店員がテーブルを拭く動作にさえ『[Action_Queue: Table_Cleanup / Interval: 300s]』といった無機質な属性情報が張り付いているのだろう。
「ああ。管理区域内である以上、演算効率化の優先度は最大に設定されている。店員の愛想の良さも、客の寛いでいる雰囲気も、すべてはシステムが用意した、最も低コストで『カフェらしさ』を演出するためのテンプレートに過ぎないんだ」
僕はカバンからタブレットを取り出し、ネットワークを介して天城博士の非公開リポジトリへアクセスした。
この端末は、僕の思考を論理的なコマンドに変換し、宇宙の深層ディレクトリへと潜るための唯一の「鍵」だ。
「さっきの君の両親の様子……あれは天城理論で言うところの『高深度の枝刈り(ディープ・プルーニング)』だよ。ミオ、君は彼らの感情レベルが数値化されているのを見たと言ったね」
ミオは小さく頷いた。
「お母さんの……『[Affection_Level: 85% (Optimized)]』……。愛してるっていう気持ちまで、パーセンテージで決められてた」
「それが、この安定した社会を維持するための宇宙OSの『仕様』なんだ。本来、人間というノードは極めて演算負荷が高い。一人の人間が真剣に悩み、迷い、予測不能な行動を選択するたびに、宇宙は膨大な数の未来の分岐をシミュレーションしなければならなくなる。それは宇宙全体の演算リソースを激しく浪費する行為だ」
僕は画面上に、天城博士が残した数理カーネルのダイアグラムを展開した。
「だから、システムは人々から『選択』という特権を奪った。家庭、職場、学校――あらかじめ決められた役割を与え、その範囲内でしか行動させないように制限をかけたんだ。そうすれば、宇宙OSは数秒先、数年先の未来を計算する必要がなくなる。ただ、保存されている台本を再生するだけで済むからね。エントロピーの増大は止まり、宇宙は平穏を保つ。……引き換えに、人々の魂からは『不確実性』という名の自由が失われた」
「……そんなの、あんまりだよ」
ミオの瞳に、再び涙が溜まり始める。
「お父さんもお母さんも、あんなに優しかったのに。私を育ててくれた思い出も、全部……全部、システムが決めたデータなの? 私たちの家族は、ただの効率化された演算結果だったっていうの?」
僕は残酷な事実を口にするしかなかった。
「少なくとも今の彼らにとっては、そうだ。彼らは自分たちが自由だと思い込まされているけれど、実際には宇宙OSという巨大な意志の操り人形に過ぎない。君がどんなに彼らに本心をぶつけても、彼らの脳内にある『応答関数』が、最適化された、波風の立たない答えを選び出してしまう」
僕はタブレットの画面をスクロールさせ、リポジトリのさらに深い階層、暗号化されたディレクトリ「/sys/exception/handler/」を叩いた。
そこには、天城博士が生前、この決定論的な世界を「デバッグ」するために遺したと思われる、未完成のコード群が眠っていた。
「……あった」
僕の指が止まる。
そのファイル名は、周囲のソースコードとは異質な、赤黒い警告色を放っているように見えた。
『Module: Forced_Exception_Injection.run』
僕はそのソースコードの内容を、論理回路をフル回転させて解析し始めた。
それは、既存の物理法則や社会規範という名の「台本」を無視し、対象のノード(脳)に直接「例外処理」を流し込むためのインジェクション・プログラムだった。
「ミオ。これを使えば、君の両親を『元に戻せる』かもしれない」
ミオが顔を上げ、僕を食い入るように見つめた。
「本当……? あの青い文字を、消せるの?」
「正確には、文字を消すんじゃない。彼らのステータスを、僕たちと同じ『未定義(Undefined)』へと強制的に昇格させるんだ。宇宙OSの整合性チェックを一時的にフリーズさせ、彼らの意識に、外部からの高エネルギーなエントロピーを直接注入する。そうすれば、彼らはシステムから切り離され、自分の意志で、台本にない言葉を喋れるようになるはずだ」
だが、僕はそこで言葉を切り、彼女の目を真っ直ぐに見た。
この「救い」には、逃れられない致命的なリスクが伴う。
「……ただし、代償がある。いや、二つの大きな障害があると言ったほうがいい」
「……代償?」
「一つは、彼ら自身の負荷だ。これまで演算をシステムに丸投げして『楽』をしていた脳に、突然、真の自由――つまり無限の選択肢と不確実性を叩き込むんだ。それは老朽化したコンピュータに最新の超高負荷ゲームを実行させるようなものだ。最悪の場合、彼らの精神は演算過負荷で焼き切れる。あるいは、その恐怖に耐えきれず、自ら廃人になることを選ぶかもしれない」
ミオの息が止まる。だが、僕は容赦なく二つ目のリスクを告げた。
「もう一つは、システムの監視だ。管理区域内で、二つものノードが同時に『未定義』に変わる。それは宇宙OSのセキュリティシステム……ISMSにとって、見過ごすことのできない致命的なエラーログになる。必ず、佐藤たちのようなエージェントが、バグを『修正』するためにやってくるはずだ」
静まり返ったカフェの店内に、コーヒーマシンの作動する無機質な音だけが響く。
周囲の客たちは、相変わらず「最適化された日常」を演じ続けている。窓の外には、326万年に一度の終焉に向けて、淡々と演算を消化し続ける無機質な街が広がっていた。
ミオは長い間、黙って自分の手を見つめていた。
やがて、彼女は震える声で、しかしはっきりと言った。
「……やって。カイ」
「いいのか? 彼らが壊れてしまうかもしれないんだぞ」
「あのままでいるのは……あんな、プログラムされた偽物の優しさに囲まれて生きるのは、もう耐えられないの。もし、お父さんとお母さんの魂が、あの青い文字の奥にまだ閉じ込められているなら……私は、それを助け出したい。それがどんなに苦しくて、どんなに怖くても……本当の二人に、会いたいんだよ」
ミオの覚悟は、僕の論理的な予測を上回っていた。
彼女の直感は、生存の安全性よりも、存在の真実を選んだのだ。それは、この効率化された宇宙において、最も「エントロピーの高い」美しい選択だった。
「……わかった。君がそう言うなら、僕の論理は君をサポートするためにある」
僕はタブレットの画面に、複雑な数理コードを展開した。
ミオが見てしまった、両親の感情レベルや応答パターンの数値をパラメータとして入力し、注入すべきエントロピーの強度を精密に計算し始める。
「326万年に一度のグローバル・コミットまで、あと1275日。……僕たちが最初に行うのは、宇宙OSに対する、宣戦布告だ」
僕はキーボードを叩き、実行ファイルを作成した。
「禁忌のデバッグ・コマンド」。
それを実行したとき、僕たちの日常は、二度と元には戻らない。
カフェの自動ドアが開き、一人の客が入ってきた。
ミオがその人物を一瞥し、息を呑む。
「……カイ、あのお客さん……」
ミオの視線の先。新しく入ってきた男性客の頭上には、周囲の客とは明らかに異なる、不気味に明滅する赤いタグが浮かんでいた。
『[Status: Active_Auditor / Node_Name: UNKNOWN]』
僕たちの行動は、すでに「監視」され始めているのかもしれない。
僕はミオの手を引き、カフェをあとにした。
決行の場所は、彼女の実家。
偽りの聖域が崩壊するまで、残された時間はあとわずかだった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 21:30
Entropy Injection Rate: 0.125% (Stable / Observation Mode)
Node_Status: [KAI: Undefined] / [MIO: Undefined / Debugger_Layer_Active]
Warning: Forbidden command sequence [Forced_Exception_Injection] initialized in buffer.
Alert: External monitor detected. Connection status: [Tracing...]
NEXT GLOBAL COMMIT: 1275 DAYS REMAINING




