第14話:聖域のノイズ
玄関のドアが開いた瞬間、僕の鼻腔を突いたのは、どこにでもある「夕食の匂い」だった。
カレーか、あるいは肉じゃがだろうか。家庭という概念を構成する際、宇宙OSが最も好んで選択する、統計的に正解率の高い芳香。
だが、僕の隣で凍りついているミオにとって、その匂いはもはや安らぎの記号ではなかった。
「……あら、澪。おかえりなさい。あら……お友達?」
廊下の奥から現れた女性――ミオの母親が、驚いたように、しかし完璧な角度の笑みを浮かべてこちらを見た。
ミオの指先が、僕の制服の袖を千切れんばかりに強く握りしめる。
「落ち着いて、ミオ。何が見えてるか説明できるか?」
「……お母さんの、顔の横に……」
ミオの声は掠れていた。彼女の瞳は、母親の背後に広がる空間と、その存在自体に張り付いた「データ」を必死に拒絶しようとしている。
「『[Entity: Mother / Status: Active]』……『[Action_Queue: Standard_Greeting_Guest]』……『[Affection_Level: 85% (Optimized)]』……。カイ、お母さんが笑ってるのに、その横に『最適化済み』って、青い文字が出てて……消えないの」
母親はミオの硬直を気にする様子もなく、流れるような動作でスリッパを並べた。
本来なら、年頃の娘が突然見知らぬ男子を連れて帰れば、もっと動揺や困惑、あるいは詰問があってしかるべきだ。だが、この「管理区域」という名の演算最適化領域において、住人たちは「最も社会的に摩擦の少ない回答」を選択するように、その意識を制限されている。
「初めまして。クラスメイトのカイです。急にすみません」
「いいのよ、気にしないで。澪が友達を連れてくるなんて珍しいわね。さあ、上がって。今ちょうど、夕食の準備ができたところだから」
母親の返答には、一分の隙もなかった。まるで、僕が来ることをあらかじめ予測していたかのように、あるいは僕という「入力」に対して、最も演算コストの低い「歓迎」という関数が呼び出されたかのように。
僕はミオの背中にそっと手を添え、彼女を促した。
今の彼女を一人にするわけにはいかない。もし僕がここで立ち去れば、ミオのノードは「台本のない孤独」と「視覚化された決定論」の矛盾に耐えきれず、精神的なオーバーフローを起こすだろう。
家の中は、不自然なほどに「整って」いた。
だが、その整い方は、美意識によるものではない。
廊下に置かれた観葉植物、壁に掛けられたカレンダー、使い込まれたはずの棚。ミオの視界には、それらすべてに注釈がついているはずだ。
「……あそこの、棚の裏側……『[Object_LOD: Low / Render: None]』。……見えてないところは、描画さえされてないんだ」
ミオが呟く。天城理論の言う通りだ。宇宙OSは、観測者の視線が届かない場所の演算を徹底的にサボる。扉の閉まったクローゼットの中や、重い家具の裏側は、開けられる瞬間まで「概念」としてしか存在せず、その物理的な質感はレンダリングされない。
リビングに入ると、そこには父親もいた。新聞を置いて顔を上げた父親もまた、母親と全く同じ、標準的な「父親の歓迎」というルーチンを実行した。
「ほう、澪の友達か。珍しいな。まあ、座りなさい。腹が減っているだろう」
食卓には、湯気を立てる料理が並んでいた。
肉じゃが、冷奴、味噌汁、そして炊きたての白飯。
見た目は完璧だ。だが、ミオは箸を持とうとしない。彼女の瞳には、湯気の一つ一つにさえ『[Particle_Effect: Steam_Medium]』というラベルが見えているのだろう。
「……これ、何なの?」
ミオが震える声で尋ねた。
「何って、肉じゃがよ。澪の好きな、お父さんの実家の味付けにしたんだけど……何か変かしら?」
母親が小首を傾げる。その動作もまた、統計的に「可愛らしい母親」を象徴するフレームワークの再生に過ぎない。
「違う……。味とか、そういうことじゃないの。……お母さん、今日、何を考えて私にこれを作ったの? 何を見て、私に笑いかけてるの?」
「何をって……澪が喜ぶと思って、決まってるじゃない。変な子ね」
母親はコロコロと笑った。
その笑顔を、ミオは直視できずに顔を伏せた。
「……カイ。お母さんの横の文字が……変わった。……『[Response_Selection: Safety_Standard_Pattern_C]』。……お母さん、私の質問に対して、システムが用意した安全な回答を……ただ選んでるだけなの」
僕は黙って肉じゃがを口に運んだ。
味は、驚くほど「普通」だった。美味しすぎず、不味すぎず、誰もが「肉じゃが」と聞いて思い浮かべる最大公約数的な味。エントロピーが極限まで抑えられた、予測可能な味覚。
「ミオ。彼らに悪気はないんだ。……というより、『悪気』という計算コストのかかる感情すら、今の彼らからは剥奪されている。326万年に一度のグローバル・コミットを控えたこの宇宙において、彼らは最も『正しい』存在なんだよ。余計なエントロピーを排出せず、宇宙の寿命を縮めない、完璧な歯車だ」
僕の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
だが、それが論理的な真実だった。この管理区域の人々は、幸せなのだ。迷うこともなく、悩むこともなく、宇宙OSが用意した「最適解」というレールの上を滑るように生きていけるのだから。
「……そんなの、死んでるのと一緒だよ」
ミオが顔を上げた。その頬には、大粒の涙が伝っていた。
「ねえ、カイ。お父さんも、お母さんも、私を見て笑ってくれるけど……。これは、二人じゃない。二人の形をした、ただのプログラムだわ。……私、嫌だよ。こんな、文字だらけの偽物に囲まれて……これから先、1275日も生きていけない!」
食卓の空気が、一瞬だけ凍りついた。
ミオの激しい感情は、この安定した空間において、明らかな「ノイズ」だった。
母親の顔から笑みが消え、無表情な数フレームが挟まる。宇宙OSが、この予測不能な入力に対して、どの応答パターンを返すか再演算しているラグだ。
「……澪。少し疲れているみたいね。今日はもう、お友達に帰ってもらって、早く休みなさい」
母親の声から、温度が消えていた。
それは怒りではない。単なる「異常事態への標準的な対処」だった。
「……ごめんなさいお母さん。カイ君送ってくるね」
ミオは椅子を蹴るように立ち上がり、僕の腕を掴んで玄関へと走り出した。
背後からは「また遊びに来てね」という、父親のテンプレート通りの声が聞こえてきた。その声には、娘の異変を心配するような揺らぎは微塵も含まれていなかった。
外に出ると、夜の空気は冷たかった。
街灯の下、ミオは僕の胸に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
「……カイ、助けて。……お父さんと、お母さんを、元に戻して。……あの人たちを、ただの人形にしないで。……どんなに私を叱ってもいい、喧嘩してもいいから……あの青い文字を、消してよ……!」
僕は彼女の震える肩を抱き寄せながら、夜空を見上げた。
高度に最適化されたこの街の空には、星の一つも見えない。ただ、大気という名の描画負荷を軽減するために、一様な闇が広がっているだけだ。
「……わかった。約束する」
僕は、天城博士の非公開リポジトリの奥底に眠っていた、あるコードを思い出していた。
それは、宇宙の基本法則を局所的に書き換え、ノードに「例外処理」を強制する禁忌の命令。
だが、それを行えば、この静かな監獄は崩壊し、宇宙OSの「監視」が僕たちを本格的に排除しに来るだろう。
それでも。
隣で泣きじゃくるこの少女を、このまま決定論の檻に閉じ込めておくことは、僕の論理が許さなかった。
「……書き換えてやる。この、バグ一つないクソみたいな世界を」
僕たちは、自分たちの意志で、破滅へのカウントダウンを加速させることを選んだ。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 20:15
Entropy Injection Rate: 0.125% (Stable / Observation Mode)
Node_Status: [KAI: Undefined] / [MIO: Undefined / Emotional_Overflow]
Warning: Local anomaly detected in Sector_G12_Household_Node.
Task: Synchronizing backup data for pruned nodes... Complete.
NEXT GLOBAL COMMIT: 1275 DAYS REMAINING




