第11話:演算の断崖、あるいは説明の余白
天文台の鉄扉を閉めた瞬間、背後で「世界」が音を立てて冷えていくのがわかった。
先ほどまで、煤けたガラスと僕たちの介入によってあれほど緻密に描き出されていた山頂の景色が、急速に色を失い、簡略化されていく。
山を下る道は、ひどい有様だった。
数メートル先で階段の輪郭がガタガタの階段状になり、地面の土は数種類の茶色い四角形がタイル状に繰り返されているだけだ。標準理論の教科書が謳う「離散空間の完璧な統合」など、そこには欠片もなかった。
「……ねえ、カイ君。やっぱりここ、変だよ」
ミオが僕のシャツの裾を掴んだまま、足元を恐る恐る見下ろした。
彼女が蹴飛ばした小石は、複雑な放物線を描くことなく、あらかじめ決められた三種類の軌道のうちの一つを選んで、カチ、カチ、と無機質な音を立てて転がっていった。
「ああ。ここにはもう、『正規の物理演算』は割り振られていない。標準理論(天城理論)で習っただろう? 宇宙は有限のリソースで動いている。ここは誰も見ていない、計算する価値のない領域――デッドスポットとして、宇宙OSが演算をサボっているんだ。かつて録音された環境データと、簡略化されたアニメーションを再生しているだけに過ぎない」
ガサ。……ガサガサ。……ガサ。
茂みの奥から聞こえる風の音は、さっきから五秒周期で完璧にループしている。
「……それは、授業でも聞いたよ。リソースの最適化とか、描画予算の話とか。でも、教科書には『標準パッチによって観測者の視界は常に滑らかに補完される』って書いてあったじゃない。それなのに……なんで私の目には、こんなにカクカクして見えるの? それに、あの……」
ミオが、立ち止まって僕を見た。
彼女の瞳は、今の僕のステータス――[Node_Name: KAI / Status: Undefined]という透明な文字列をじっと見つめている。
「なんでカイ君の横に、あんな変な文字が見えるの? 天城博士の理論では、管理データ(メタデータ)は高次元領域に秘匿されていて、三次元の観測者には決して知覚できないって……それが宇宙の鉄則だって習ったのに」
僕は足を止め、視線を落とした。彼女の抱く違和感は正しい。彼女は「物理学が嘘だった」と疑っているのではない。「教わった仕様と、目の前の挙動が違う」ことに怯えているのだ。
「標準理論は、あくまで『行儀の良いユーザー』のためのマニュアルなんだ、ミオ。天城博士が公表した理論は、宇宙が正常に、美しく動いていることを前提にしている。でも、僕がアクセスしている『非公開リポジトリ』は、その裏側にある……博士が決して表に出さなかった、宇宙の『汚いソースコード』そのものなんだよ」
「非公開リポジトリ……。天城博士の、隠された研究?」
「そう。博士は知っていたんだ。宇宙OSが、実はバグだらけで、至る所で手抜きをしていることを。そして、それを隠蔽するために僕たちの脳に『標準パッチ』を強制適用して、世界をアンチエイリアス(滑らか)処理して見せていることをね。……佐藤たちISMS管理委員の仕事は、その隠蔽工作を維持することだ。彼らが君に当てようとしたパッチは、君の認識をもう一度『綺麗な嘘の世界』に閉じ込めるための修正プログラムだったんだよ」
僕は一息ついて、彼女の瞳を真っ直ぐに見た。
「それを僕が、リポジトリにある『未定義命令』で弾き飛ばした。宇宙の正規のルール……つまり標準理論を無視して、システムの脆弱性を直接叩いたんだ。その衝撃で、君の脳内の認知フィルタが焼き切れてしまった。……いや、昇格したと言うべきかな。君は今、教科書にある『数式としての宇宙』じゃなく、宇宙が実際に計算を行っている『生の現場』を直接見てしまっているんだ」
ミオは自分の手を見つめた。掌の上にも、管理用の数値がうっすらと浮かんで消えた。
「デバッガー……。カイ君、さっき私のことをそう呼んだよね。私、もう普通の人たちみたいに、この世界を純粋に『綺麗だな』って思うことはできないの?」
「……今のままじゃ、難しいかもしれない。君の視界には、少なくともメタデータやポリゴンの継ぎ目といったRawデータが嫌でも入り込んでくる。でも、ミオ。それは君が、この世界で唯一『宇宙の嘘』を暴ける目を持ったということでもあるんだ」
僕たちは再び、低解像度な山道を歩き出した。
下るにつれて、周囲の質感が少しずつ滑らかになっていく。
それは「世界が正常になった」からではない。僕たちがこれから、人間が密集し、宇宙OSが「しっかり描画しなければならない」と定めている管理区域に近づいているからだ。
「……カイ君、あそこ」
ミオが指差した先。
山道の終点に、リニア・メトロの駅舎が見えてきた。
不自然なほど滑らかなタイルの床、完璧な曲線を描く手すり、そして定期的に鳴り響くアナウンス。
そこには、僕たちの他に誰もいなかった。
駅のホームへと続く階段を前にして、僕は自分の端末を確認した。
「ここから先は『管理区域』だ。標準理論の通り、最高精度の描画が行われている場所……。でも、そこにいる『人』がどう見えるか。それは……」
僕は言葉を濁した。
そこは、先ほどまでのローポリゴンな山道とは比べものにならないほど美しく、緻密だ。
だが、その「美しさ」の裏側で、宇宙OSが何を切り捨てているのか。
「……ミオ。この階段を降りたら、もう後戻りはできない。教科書に載っていない、宇宙の本当の『残酷な仕様』を、君は目撃することになる。……それでも、行くかい?」
ミオは、震える手で僕の手を握り返した。
その瞳には、恐怖と、それ以上の強い決意が宿っていた。
「……一人でこの『偽物』を見続けるよりは、カイ君と一緒に地獄を見てるほうが、たぶんマシだと思うから」
僕たちは無言で頷き合い、静まり返った駅の構内へと足を踏み入れた。
改札の向こう側。
高解像度で描き出された、意識なき「日常」が僕たちを待っている。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 16:45
Status: Descent Completed (To Managed Sector)
Entropy Injection Rate: 0.125% (Stable / Low Polling Mode)
ISMS Awareness: 8% (Stable)
NEXT GLOBAL COMMIT: 1,275 DAYS REMAINING




