第10話:再演算のクオリア
ミオがその「黒い窓」を覗き込んだ瞬間、世界のクロックが悲鳴を上げた。
「――っ!?」
彼女の喉から、短い吐息が漏れる。
同時に、僕のポケットの中で端末がこれまでにない熱を持ち、警告アラートが鼓膜を突き刺した。
だが、今の僕にはログを確認する余裕などなかった。ミオが覗き込んでいる「煤けたガラス」の向こう側――そこから溢れ出してきたものが、僕の網膜を、そして世界のあり方を暴力的に塗り替えていたからだ。
「カイ君……なに、これ。眩しい……眩しすぎて、頭が割れそう……!」
ミオが震える声で叫ぶ。
僕もまた、彼女の肩越しにその光景を視界の端に捉えていた。
そこには、標準理論がレンダリングする「黄色く穏やかな恒星」など存在しなかった。
煤という物理的な不純物が、宇宙OSの最適化アルゴリズムを無理やりエラーさせた結果、剥き出しになったのは――膨大な、あまりにも膨大な情報の奔流だった。
それは光ですらなかった。
幾千、幾万もの数式と幾何学模様が、知覚できないほどの速度で明滅し、交差し、自己増殖を繰り返す。色彩は既存の概念を軽々と超え、虹色のノイズとなって網膜の奥に直接叩き込まれる。
宇宙OSは、僕たちの脳を壊さないよう、太陽という存在を『単なる光る球体』という低解像度なアイコンに圧縮して見せていたのだ。だが、このガラスはその「嘘」を剥ぎ取り、宇宙が生の演算を行っている現場を僕たちの前にさらけ出していた。
その直後、驚くべきことが起きた。
カクカクとしたポリゴンだった遠くの稜線が、霧が晴れるように緻密なディテールを取り戻していく。
ループしていた風が突如として不規則なカオス挙動を始め、天文台のドーム内に「本物の」風が吹き込んできた。
ミオという観測者が、ガラス越しに「生のデータ」を要求し続けたことで、宇宙OSがこのデッドスポットを『まだ価値のある領域』と再判定し、慌てて演算リソースを再分配し始めたのだ。
「……ミオ、離せ! それ以上は脳の許容量をオーバーフローする!」
僕は彼女の手からガラスを奪い取ろうとした。
だが、その時、背後から氷のように冷たい声が響いた。
「――演算リソースの異常消費を確認。不適切なプロトコルによる、局所的現実の改ざんを検知しました」
僕は凍りついたように振り返った。
天文台の入り口、逆光の中に立っていたのは、僕のクラスの学級委員長――佐藤だった。
彼は息一つ切らしていない。ここへ来る電車などなかったはずだ。まるで、システムが異常を検知した座標に、最短経路で「配置」されたかのような唐突さ。その表情には、感情という名のノイズが欠片も存在しなかった。
「佐藤……? なぜ、お前がここに」
「私は本学のISMS管理委員として、論理的アライメントの逸脱を修正する義務があります。カイ君。君たちの行為は、地球文明というノードのシャットダウン・プロセスを阻害し、全宇宙の計算資源を不当に浪費させている」
佐藤が、無機質な板状のデバイスを取り出した。
「それは『コンプライアンス』違反です。地球は既に、効率性の観点からパージが決定された領域です。一時の感傷のために、宇宙全体の最適化を妨げることは、最大多数の最大幸福に反する『悪』であると定義されています。……白石澪さんの認知パッチを、標準理論へ強制修正(パッチ適用)します」
佐藤がデバイスを操作した。その瞬間、目に見えない論理の刃が、ミオへと放たれた。
「やめろ……ッ!」
僕は反射的に、非公開リポジトリから引き出した『未定義命令』を脳内で走らせた。
本来なら実行不可能なはずの拒絶コード。論理と論理が衝突し、火花のような光のノイズが空気中で爆ぜる。
僕の放った「例外処理」が、佐藤のパッチを弾き飛ばし、ミオの意識へと強引に割り込んだ。
衝撃で天文台のドームが激しく震動し、ミオの手から煤けたガラスが滑り落ち、硬い床で音を立てて砕け散った。
「……チッ」
佐藤が初めて、微かな不快感を示したように眉を動かした。
彼は自身のデバイスに表示されたエラーログを確認すると、僕を一瞥し、静かに踵を返した。
「……衝突による権限の競合が発生。現時点での強制修正は、予測外の演算負荷を伴うと判断しました。監視レベルを『要警戒』へ引き上げます。カイ君、君も、彼女も……もう、後戻りはできませんよ」
佐藤の姿は、陽炎のように空気に溶けて消えていった。
静寂が戻る。ミオがゆっくりと立ち上がり、眩しそうに目を擦りながら周囲を見渡した。
「……ミオ。大丈夫か?」
僕の問いかけに、ミオはしばらく答えなかった。
彼女は自分の手を見つめ、それから不安げな表情で僕の顔を覗き込んできた。
「……大丈夫、なのかな? カイ君。私、なんか変な文字が見えてる……」
「変な文字……?」
「今、カイ君の周りに、透き通った文字が浮いてるの。……[Node_Name: KAI / Priority: High / Process: Undefined]……ねえ、これ、何? さっきの佐藤君のときも、これに似たものがたくさん見えて……」
僕は息を呑んだ。
それは、非公開リポジトリの奥深くに記述されていた、宇宙OSの内部管理用メタデータそのものだった。
僕が端末を介して懸命にコマンドを叩き、ようやく引き出している「世界の仕様書」を、彼女はただ見るだけで認識しているというのか。
ミオはドームの窓から外を指差した。
「あっちの山も……さっきまでのカクカクした感じじゃない。すごく綺麗だけど、でも、何かがおかしい。書き割りの舞台みたいに、変な記号がびっしり張り付いてる……」
再演算によってディテールを取り戻した、一見すると美しい景色。
だがそれは、地球文明のシャットダウン・シークエンスが本格化した証でもあった。宇宙OSは、効率化のために世界の「意味」を剥ぎ取り、ただの「実行可能なスクリプト」へと置き換えようとしている。
ミオの瞳に映る、剥き出しのメタデータ。
それが、僕たちの「共犯者」としての契約が、取り返しのつかない段階へと移行した証だった。
[SYSTEM LOG]
Local Node Time: 20XX/04/20 16:00
Status: Privileged Access Escalation (Node: MIO)
Global Status: Shutdown Sequence Phase 1 (Metadata Visibility Enabled)
NEXT GLOBAL COMMIT: 1,275 DAYS REMAINING




