第1話(序章):連続性の終焉
5話までは序章となっております。
空は、かつて言われていたような「無限の深淵」ではない。
それは、膨大な演算結果がレンダリングされた、有限の出力画面だ。
この「世界の正体」を人類が知ることになったのは、今から数世紀前。
物理学という名の、バグだらけのレガシーコードをすべて書き換えた、ある男の登場からだった。
*
「……いいか。かつての『旧物理学』がなぜ死んだのか。それは、彼らが宇宙を『アナログ』だと信じ込んでいたからだ」
県立広葉高校、午後の物理教室。
老教師の乾いた声が、西日の差し込む教室内を這うように響く。
ホログラム投影された黒板には、二百年以上前にゴミ箱へ捨てられた「アインシュタインの方程式」が、バグの象徴として赤くハイライトされていた。
「彼らは空間を無限に分割できると考え、連続する数式で世界を記述しようとした。」
それは端的に言えば数式という抽象的な概念を現実へマッピングするという手法だった。
「……その結果はどうだ? 極小の特異点……いわゆるブラックホールの中心などで計算を回せば、数値は無限大に発散し、理論はクラッシュした。当時の人間はそれを『物理学の探究における壁』と呼んだが、現代の我々はこう呼ぶ。……単なる『オーバーフロー』だと」
教室の隅に座るカイは、机上の端末に表示された「天城デジタル宇宙論・標準テキスト」を、指先で静かにスクロールした。
教師の言葉は、カイが毎晩アーカイブで読み耽っている内容と正確に一致している。
「いいか、諸君。コンピュータのメモリを想像してみろ。無限の数値を扱えるハードウェアなどこの世に存在しない。宇宙も同じだ。この世界というシステムが扱えるビット数には、最初から上限があったんだ」
教師がホログラムを操作すると、滑らかな曲線が、カクカクとした階段状のグラフへと上書きされた。
「宇宙を『数式』で解こうとしたのが旧時代の物理学者だ。対して、宇宙を『実装』として捉え直したのが、天城だった。天城デジタル宇宙論……今や義務教育の基礎だが、彼がこの理論を提唱するまで、人類は『連続性』という名の迷信に囚われていたんだ」
カイは、教師の言葉を頭の中でコードに変換していく。
旧物理学の敗因は、浮動小数点の精度を無限だと思い込んだことにある。
天城はそれを否定した。宇宙には最小のピクセル(空間)があり、最小のティック(時間)がある。
宇宙は、巨大な「離散的演算系」に過ぎないのだと。
「例えば、このホシノ・ステップを見てみろ。かつての観測者・星野博士が発見した銀河の赤方偏移データだ。銀河の遠ざかる速度がなめらかではなく、特定の数値ごとに『階段状』になっている。これは宇宙OSのシステムクロック、すなわちサンプリングレートの痕跡だ。天城はこれをもとに、宇宙の解像度を決定した」
教室のあちこちで、退屈そうなあくびが漏れる。
生徒たちにとって、これは単なる退屈な歴史の授業に過ぎない。
だが、カイにとっては違った。
(……もし、宇宙がひとつの巨大なソフトウェアだとしたら。その『記述』は、もっと効率的であるはずだ)
カイは端末を叩き、標準教科書の記述の端々にある「注釈」を追いかける。
天城が設計したとされるこの美しい宇宙OS。その論理構造の完璧さに魅了されながらも、カイは、その「完璧すぎる整合性」に、わずかな寒気を覚えていた。
「さて、今日の講義はここまでだ。次回は『第2回:ハミルトニアン拘束とアイドル状態』について解説する。予習しておくように」
教師の声と共にホログラムが消える。
カイは、誰もいなくなった教室で一人、端末の画面を見つめ続けていた。
画面の端には、教科書の付録として表示されている、あの巨大なカウントダウン・タイマーが、刻一刻と数字を減らしている。
【NEXT GLOBAL COMMIT: 1,284 DAYS REMAINING】
326万年に一度の『グローバル・コミット』。
全宇宙の演算結果が同期され、一貫性がチェックされる瞬間。
カイは、天城が遺した「標準リポジトリ」の公開ログをそっと閉じた。
まだ、何かが足りない。
この完璧な理論の裏側に、まだ誰も読み解いていない「本当の仕様」が隠されているような気がしてならなかった。
「……まずは、次の講義だな。ハミルトニアン拘束。宇宙のエネルギーがゼロであることの、本当の意味……」
カイは呟き、西日の差し込む教室を後にした。
彼が伝説のリポジトリの深淵に触れるのは、まだ少し、先の話である。




