こんばんは、みなさん
こんばんわイテンサンです。
しばらく投稿していなかったのは、きっと呟くことがなかったから。
きっと、嬉しいほどに忙しくなってしまったからだと思います。
あれから2年性になって、もうすぐです夏休みがさしかかってワクワクし始めています。
なんとなく心地よい、そんな日々を送っております。
友達とクラスが完璧に離れて、完璧な孤独になったのですが、改めて孤独でも、孤独らしく寂しく、美しく生きたいなって。なんとなく私の中の野心が死ぬことを諦めきれなくて、死にきれなくて。病みながらも自分を大きな力で動かしていけるようになった高校2年性になりました。
あれから考察を続けていないわけではなく、自分の中で新しく考え始めたことなんてごまんとあります。
そんな中で私が改めて出会ったのは死生観でした
古来より人々は必ず死ぬと、それはそれは当たり前の知識として受け継がれていましたが、それでも私はその死に対して未だ実感しきれない、なんとなく曖昧な感覚に立たされて、それが不安として募っていくのを感じます。ですが、その不安がなんとなくいいんですよ。その不安があるからまだ頑張れる気がするんです。死があるから生がある、当たり前ですよね。
そんな重たい当たり前ですが、私はそれを糧にして生きています。
「メメントモリ」
私の好きなゲームのメイントピックとなった言葉です。
いつかくるべき死を忘れるな。
何もない人生を過ごすな、死を恐れて戦えというような意味が込められている、少なくとも私はそう感じます(正しい意味はググってちょ)
だから今生きている。生きていられるんですよ。
そんな先人の知恵によっていま私は動かされています。なんとなくですが。
人との繋がりもまた変わっていきました。今まで以上に孤独になった私は、好きな孤独さえも苦しみを感じると。でもそれって本能的に当たり前だって。そうやって考えて自分を誤魔化しつつ今を生きています。正直言ってこの苦しみって悲しいですよね。でも、人間観察したりとか、周囲をより観察できるようになったと思います。何もデメリットばかりじゃない。
まだ死んだわけじゃない。まぁ、こうやって小さな幸せ見つけるのが人間俺仕事なんでね、、こう考えますけど。正直言って寂しいですよ。どうやっても悲しい
。それだけは変わらない。今までネットとか人に自分の美徳なんかを何回も語ってもひとつ消えないのはやっぱり孤独の痛みだけ。結局そうやっていうのは自分が寂しいから、構って欲しいから察して付き合ってっていうのと同じなんだって。こういう私が今ここにいる。でも付き合っていかないといけない。いいじゃないですか。それが私なんですから。諦めのようでも、確かに他のことで前に進めている自分がいるのも確かなんですよ。だから、諦めることも大事なんです。苦しみを耐え抜くこともまた人間。それに負け続けてはいけないだけで、生き抜くことが大事なんだと思いますよ。
そんなふうに自分の醜さを見ていく中で気がついたら人となんとなく話せるようになってきました。
私は人間の弱さを知った気になっているだけなんですけどね、なんとなく人と話せるんですよね。
もう自分を隠すこともやめましたよ。えぇ。だからマスクを外しました。元から恥ずかしがり屋でずっとマスクつけて顔がコンプレックスなんですなんて豪語してても表情見えねぇし、そんなことしても意味ない。風邪にかかることなんて構わないし、どうせ俺の顔はマスクしてもイケメンじゃぁねぇ。
じゃあもうどうすることもできないならとことん醜い方へ堕ちていく。かつて醜いと思った方に。でも意外とみんな嬉しそうなんですよね、私の笑顔を見ると。
安心するでしょう。気がつくと俺も笑う機会が増えて、笑顔を鏡で見ることも増えて、なんかもうわけわかりませんよね人って。ちょっと変化で人ってこんな簡単に変わってしまえる。まぁ頑張って継続したのもあるんですけど、、、。
あぁ後英検準一の一次通りましたよ。
必死で勉強?はしてないですね。継続ですよ継続。結局死ぬ気でやるとか疲れるから。私にとってですがね。というあからさまな自慢は置いておきましょう。
最近自分のこの英検取った云々を人に言うかどうかって迷ってるんですよ。言ったら妬まれるし劣等感を抱かれるし。なんとなく疲れますよ。だからもう先生にしか言いません。純粋にみんなが褒め会えたらいいなって思うんですけどね。私を含めて。
こうやってネットに書き込んでいる時が一番いい感じにネガポジできてるなってことに気づいています。自分を冷笑しながら、俺こんなに文章書けてカッケェしながら、ただひたすらに文字を打つ。謎の改行を入れて、謎の濁点誤字、全部含めてこれが俺なんだなって思います。何も考えないでただ文字を打つこと、なんとなく心地いいです。感情を文字にするって難しいし、確定しちゃうけどさ、悪い気はしませんし。
こうやってずっと長文を打ってきたおかげで今の自分がいるんだなって思いますよ。
こうやってブログに書くのだって、携帯にただ走り書くのだって。きっとこうやってちゃんと自分と向き合うことをしなかったら自分が今頃この社会の蚊帳の外にいるでしょう。携帯を買って一番最初に思いついたのが小説を書くことだったのに、気がついたら自己防衛システムの構築のための機械になって、なんか面白いですよね。ものをちゃんと活用できていると思います。携帯買ったのって高校入ってからなんですよ。その一ヶ月後にとあるライブがあって、それにインスピレーションを書いたらなんか面白くなってきちゃって。本当に自己考察ってただの趣味だったんですよ、なのに気がついたら壮大なこと考え始めちゃって。もっと単純なことでいいはずなのにもっと深くって探究者はやめなくて。おかしくなって、気がついたらもう止まらないんですよ、でもこれは人間の欲望、知識欲だとしたら、何気なく環境の中で一番世界とか自分とか、いろんなことを考えてるのって俺だけなんじゃないかって思えてきて、そこら辺のガチ哲学者には負けるけど、それでも俺は今一番人間ができてるんじゃないかなっておもう。だからまだ生きていたい、だからまだ幸せになっていたい。たとえこの世界が終わってもさ、誰かとお別れしたって、私は私の道を行き続けたい。これが孤独であるものの末路、運命、いや選択だな。ここまで考えられるってことは孤独だからってこと。孤独に感謝にしないといけないのかもしれないなって思う。こうしてくれた環境を最大限に生かすムーブ、それが孤独になりきること。世界に沈むこと。ただ眺めること、でも考えること。そう考えれば美しい。何もかもが夜明けのようで俺の中で光を纏っていくようで美しくて仕方ない。あんなに小学生の頃は幸せだったのにとかじゃない、世界を知れたから不幸になったけど、新しい幸せを知れたんだって思う。私が最近思っているのは、今は過去の単なる連続に過ぎないこと。そうただの過去。これ以上もこれ以下も未来に影響しない過去。未来に影響するのは今だけ。今自分が何をやっているかどうか。過去は変えられないから未来を変える。過去を反省することはあっても、過去を振り返ることはしない。これからはそう言うスタンスでいこう。人との関わりだって、人が行動を起こすなら私も行動を起こそう。何かしなきゃ何も変われない。と言うか四六時中誰かが動いてんだ当たり前だろ俺。何回綺麗だなって言ったかは知らないけど、醜いけど、それでもなんとなくこの世界は綺麗だし諦められない意地汚い人間がここに一人いるんだよ。もういいだろ、過去を許してやっても。なんて思って今を過ごしています。これからもそう言うスタンスで生きていこうと思います。
最後に今書いてる馬鹿げた論文でも載せておきます。
未完成だしね、それじゃあシャットダウン
おやすみなさい
一人であることに関する研究
一人好きの正体 孤独の克服
〜序章〜
私の人生は人に支えられてきたことが多かったのだが、それでも孤独になっていたこともあった。その中で孤独という形は一つの美しさだと気づいた。ものは言いようというし、人によって孤独という表現は確実にネガティブな表現となるはずなのであるが、私はそうは思わない。この文章では私がなぜ一人好きになったのか、なぜ孤独は悪いことではないのかを今知り得る知識を生かしてさまざまな角度から論述していきたいと思う。これは私の自己満足であり、あなたたちをなんとか説得してみたいという気持ちから作られた感情的な文章である。
まず孤独やその状況における感情について話したい。
感情を主に動かすのは客観的事実と自分の主観の二つだ。
自分がその客観的事実に対してどう主観していくのか、これによって私たちの感情の行末が決まってくる。
孤独である場合客観的事実の例を挙げるのは容易い。
単に一人であるだとか孤立してしまっているだとかだ。
孤独という事実を主観する時、私たちは恐怖や寂しさを覚えるだろう。これは古来より人類が社会集団において活動をしてきているため、その蚊帳の外である独り身は恐怖を覚えるのだ。何もかも一人で生きていかなければならないこと。そこには恐怖があり、寂しさの正体があるのだ。
また、この恐怖の感情を深掘りするならば、この感情は人間活動を行うための最低限を目指すためにあるのではないかと思う。人の最低限、つまり本能からの欲望であるのだが、私たち生物は単体では繁殖ができない。つまり自ずと他者との関わりが出てくる。生物学的に生きていくのだとすれば、この感情は本能的になくてはならないものであり、そこに恐怖がなくても出てきてしまうものなのだろうと思う。そう、恐怖はあくまで孤独の次に来る感情であり、必然ではないのだ。もし、人間が孤独感を捨ててしまったら、私たちは何でもかんでも一人で生きていこうとして、繁殖に失敗するだろう。そのため、人間の孤独という本能が元となってさまざまな感情が生まれているのだ。
一般的に孤独が恐怖や寂しさを覚えるトリガーであり、周りがこれに対して醜いと捉える人たちも少なくない。なぜなら集団社会である私たちは常にグループに存在しているわけであり、五代欲求である所属の欲求をほぼ永続的に満たしているからである。そうでなきものは無意識に仲間ではないと考えるのだとか。だが私は孤独を抵抗の形だと評したい。速攻でこの意見を否定するが、この醜いと感じる原因は、自分たちがその姿になりたくないという恐怖によるストレスからきているため、私の限界が近づいている時、私も醜いと評してしまうのだろうと悲観しようと思う。話を戻すとして、孤独による抵抗とは、一時的に人間社会から離脱することで、誰にも流されず最も自分らしく生きていける行為だと思う。これが一種の抵抗ではないかと思う。勿論孤独から解脱してまた社会に復帰していく人もいるだろう。だがしかし、今から私が今から論述したいのは孤独を追求して、その美に酔いしれた者である。
〜本文〜
孤独を追求していくためにはいくつかプロセスが必要だ。当たり前なことを言うが、孤独を追求するためにはまず孤独にならなければならない。そこから孤独を克服しなければいけないのだ。人々は孤独を克服するのではなく、孤独を無くそうと努力し、その結果社会へと戻っていくのだが、探究者たちの場合孤独と一緒に人生を歩んでいくことになる。
〜本能の生まれ変わり〜
さて、孤独を克服して一人になってしまった場合、私たちの本能の一つを消してしまっているということにお気づきだろうか。前述したように孤独とは生物学的における最低限の活動を行うためのものであると言ったが、その本能に打ち勝ってしまい、孤独としての本来の機能を消してしまっているのだ。
だが、よくいえば自立なのである。なんでも一人でできてしまうこと。あまりにも自由で、あまりにも利己的であること。そして、孤独ということは同時に周りに迷惑をかけないということでもあるのだ。長期的に見れば私たちは衰退していくのかもしれない。だがしかし、私たち世界全体としての目標は果たして生物学的に生き残るだけなのだろうかと問われれば、それはそれは人それぞれの目標があると声高らかに語り出すだろう。そう考えれば、この孤独という感情は人によっては邪魔な本能なのではないかと思えてくるのではないか。
それでも本能は私たちに必要だからこそ備わったものであり、人にとっては生きがいを感じるために必要なのである。例えば孤独という本能は、主に現在の自分を対比するためにあり、所属などの欲求を満たせているかを確かめさせる働きをもち、自分の自尊心を保たせてくれるのだ。
もし孤独という本能が克服や消失をしたとき、人は別のものに縋らなければ生きる意味を失ってしまうのではないかと聞かれれば、私は現代社会における新しい本能の始まりと言いたい。
〜本能がなくなることについて〜
私たちの本能というのは、脳の発達に合わせて発展していった無意識下における感覚であり、それが伝わってきたということになる。しかし、現代における私たちはその無意識を本能という形の言葉で徐々に解き明かしている道中にあり、つまり、本能が意識下に入ったということなのだ。このことから私たちは本能をある程度コントロールすることができるし、新しい本能を作ることができるということなのだ。いま私たちに備わっている本能は、厳しい自然の中で身につけていった本能が多いのではないかと思い。だがそれは遥昔の話であり、今と昔の環境は大きく見違える。この孤独という本能が集団生活に属するためにあったとしても、今の私たちは特に集団に属さなくても独り身で生きていけてしまう、そんな便利な時代が今来てしまっているのだ。この状況を生かして、私は本能上における人間という種の進化のため、持っている本能を別の本能へと変えていくべきなのではないかと思う。
〜新しい本能〜
例えば数年前、世界中を襲ったコロナウイルスによって。私たちは各々の家へと隔離された。あの時、私たちは孤独でした。直接顔を合わせることを禁じられ、家でできることを考えた。そして考えた末に辿り着いた娯楽や新しい生活形式だった。そう、人間はそれぞれ孤立しても、ある程度の社会的体裁を保っていたのである。
〜探究心〜
そう、この時点で新たなる本能を無意識のうちに身につけているのだ。そうそれは探究である。私たちの各々が一人であった時、私たちの孤独を癒したのは探究であったのだ。創作や試行錯誤をして、少しでも退屈を紛らわせようとしたはずだ。人々は皆言うだろう、それは既存の言葉であるし、本能の中にもいずれにしろ組み込まれているはずであると。だが私はいいたい。これは新しい本能だと。
なぜなら、今を生き抜く現代社会人は、何かを知ろうとする心というものが全く持って欠如し始めていると考えるからだと。
学生であったら与えられた教科書にのっとって勉学に励み、社会人であったら与えられたタスクに沿って業務を行う。そうでない自由時間にはSNSなどで情報を収集する。だがこの場合探究心ではなく依存心の方が強いであろう。これらの例を踏まえた上で考えられること、それは敷かれたレールにずっと乗せられ続けられていると言うことだ。この本能が存在するのは、人間が古来より試行錯誤を続けてくれており、それがなんとか受け継がれてきたからであり、今の私たちは考えることではなく、セオリーに沿っているだけなのだ。そんな集団社会の中で対抗できるのは孤独な人の探究心だと思う。その人たちだけが社会や物事を客観的に捉えて、自分だけのレールを敷いて歩いていけるのだ。
〜一人で考え続けることのメリット〜
自分だけで考えることについての対向として、グループディスカッションというものがある。一人で考えるのではなく複数人で考え、さまざまな意見を持ち寄って探究していくというものだ。だが私はこれが専ら苦手であるし嫌いである。なぜなら、私は私の意見を通したくなってしまうからだ。グループディスカッションとは名ばかりに、団結の裏で働いているのは同調のオンパレードであり、さらには終わらないのである。それだけ深まっている証なのだと言いたいかもしれないが、結局は話し相手同士がどれだけ自分の意見を抑制して譲歩していくかの戦いであるのだ。それに、一つの意見に執着しないというのはそれだけ深さがないということなのだ。もともと一つの目標があるなら喜んで協力しよう。だがしかし、目標を決めるとなると発言や思想が四方八方飛び交うのだ。もし相手が同調してきたとしても、一番最初に考えるのはこのディスカッションについて全く興味がないのかそれとも何も思いついていないかの二択なのかなと思ってしまう。つまりだ、あえて孤独で一から考えることによって、より利己的で、さらに深みを出せるようになるということなのだ。




