6月のコンビニ
夏は、どこか虚しい季節だと思う。
陽炎のように全てが揺れて、何が本物なのかわからない。
でも、そんな夏だからこそ、おそらく、あの人の声とか、笑い方とか――忘れたくても忘れられないのだと思う。
これは、ある夏の冷房のきいたコンビニで始まった、ちいさな物語です。
その日も、煮えたぎるような暑さで、外に出れば、まぶしすぎる日差しに目を細めた。
でも、それも外にいればの話だ。
コンビニの中は相変わらず快適で、「夏」って言葉を忘れてしまいそうなくらいだった。
棚の前をうろうろして、時おりやってくる客をさばく。
3年もバイトしてると、仕事なんてもう手癖みたいなもんで、どうやって楽するかとか、バレない程度のズルとか、自然と身についてしまう。
「そろそろ、休憩入ろっかな」
隣で品出ししてた子にそう言うと、彼女はふっと笑った。
彼女――Sさんは、1ヶ月ほど前に新しく入ってきたバイト仲間だった。
たぶん、というか間違いなく近くの大学の子で、年齢は自分より1つ上。
だけど不思議と話しやすくて、変に距離を詰めてくるわけでもない、その感じがちょうどよくて。
だから、一緒のシフトが入ってる日は、なんとなく嬉しかったりもする。
「また? 早くない?」
「まぁ、この時間は人来ないし。バレなきゃセーフってことで」
「ふふ、なるほどね」
そう言ってSさんは、レジ奥のイスに腰を下ろしてスマホをいじり始めた。
このコンビニは、本当に暇だ。
バイトっていうより、冷房付きの避難所って感じ。
でもそんな場所で、誰かと一緒に時間を過ごしていると、それだけで少し特別に思えてくる。
数日前、Sさんに、こんなことを聞かれた。
「ねえ、競馬とかって好きだったりする?」
あまりにも唐突で、思わず聞き返してしまった。
だって、競馬の「け」の字も知らなさそうな彼女の口から、そんな単語が飛び出すなんて、これっぽっちも予想してなかったから。
「え、好きってほどじゃないけど……見るよ? 競馬、見るの?」
「競馬っていうかね〜……うーん、馬が好き」
そう言って、彼女は笑った。
たったそれだけのことが、ちょっと嬉しかった。
というか、意外すぎて、妙に印象に残った。
「もう少ししたら、重賞やるよね? 一緒に行かない?」
そう言われて、すぐに思い出した。
ちょうど3週間後、6月最終週の日曜に近場の競馬場で重賞があったっけ。
二度とないかもしれない誘いに、僕は深く考える前にうなずいていた。
それからは、Sさんと競馬の話をするのが、いつの間にか日課みたいになった。
「ね、あの馬、前走惜しかったよね」
「◯◯◯◯? あれは距離の問題かな」
「へぇ〜、詳しいじゃん」
品出しの手を止めて、そうやって交わすやりとりが、なんだかレジ越しの「いらっしゃいませ」より自然で好きだった。
Sさんの笑った顔も、同じくらい。
そして、約束のその日曜がやってきた。
バス停で待ち合わせて、一緒にバスに揺られて30分。
競馬場は想像よりずっとにぎやかで、最初は「すごい人だね」って目を丸くしてた彼女も、何レースか経つうちに
「次の馬連、どう思う?」なんて、僕よりずっとノってた。
その笑顔が、うれしくもあり、どこか少し切なかった。
メインレース前、彼女がふいに言った。
「今日、来てよかった」
「いや、俺のほうこそ。楽しかった。ありがとう」
「んーん。わがまま聞いてくれてありがとね」
そして、そのレースで、彼女が単勝で買った馬が勝った。
「やったー!」って軽く跳ねる姿を見て、僕は思った。
これはもう、かなわないなって。
どんなに頑張っても、この人のなかに入り込める場所なんて、最初からなかったんだろうなって。
帰り道、また同じバスに乗って、同じバス停で降りた。
並んで歩いて、交差点の手前で、彼女が言った。
「じゃあ、私こっちだから」
そう言って、僕とは逆の方向へと歩き出す。
「また、見に行こう」
思わず、背中にそう声をかけていた。
来るかどうかも分からない約束だったけど、言わずにはいられなかった。
彼女は、ほんの少し困ったように笑って言った。
「うん。また、行こうね」
……でも、その“また”は、来なかった。
気がつけば夏が終わって、僕は高校を卒業して、他県の大学に進学して。
あのコンビニも、Sさんも、連絡先すら知らないまま、もう思い出の外側にある。
でも、6月の終わりが近づくたびに、競馬場で笑っていた彼女の顔を、ふと思い出すことがある。
たぶんこれからも、ずっと。
結局、あの夏は何も起こらなかった。
好きだとも言わなかったし、触れもしなかった。手を振って、ただそれきり。
でも、あの子のことを思い出すたびに、心の中で、ひとつ季節が巡る気がする。
また、夏が来る。