第3話 フェンリル VS サイラス
サイラスは荒い息を吐きながら階段を駆け下り、軋む廊下を疾走して屋敷を飛び出した。冷たい夜の空気が肺を満たす。庭の真ん中には、すでにフェンリルが待ち構えていた。月は雲に隠れ、漆黒の森の影が庭全体を深く覆い、わずかな風が草木を揺らす音だけが不気味な静寂を際立たせていた。
サイラスの姿を認めると、フェンリルは喉の奥で低い唸り声を響かせた。「怖気づいて逃げたかと思ったが、俺と戦う選択をしたのは褒めてやる」ポキポキと、獲物の骨を砕くかのように首の骨を鳴らす。
その動き一つ一つから、隠しきれない凶暴な力が感じられた。
「売られた喧嘩は買う主義なんでね」
サイラスは冷静に返し、庭の真ん中へと進み出た。漆黒のスーツが、闇に溶け込むかのように彼の身体を包み込む。
慣れた手つきで懐から拳銃を両手に構えた。彼の瞳は、闇の中で鋭く光り、獲物を狙う狩人のようだった。フェンリルもまた、全身の毛を逆立て、戦闘態勢に入る。
互いに一歩も引かず、ゆっくりと周囲を回りながら間合いを取る。空気が張り詰め、今にも爆発しそうなほどの緊張感が、二人の間に漂っていた。
その静寂を破ったのは、サイラスが不意に踏みしめた小枝の「パキッ」という音だった。その瞬間、フェンリルは猛獣のような敏捷さで間合いを一気に詰め、鋭い狼爪をサイラスの喉仏めがけて繰り出した。
サイラスは、紙一重でその攻撃をかわす。身体はまだ万全ではないが、あのスーツを纏ってからの脳内の映像が、彼の反応速度をわずかに引き上げていた。彼は即座に両手の拳銃を連射する。
火を噴く銃口から放たれた弾丸は、闇を切り裂いてフェンリルへと迫る。しかし、フェンリルは獣じみた身体能力で、右へ、左へ、上へ、下へと、難なく弾丸をかわし続けた。弾丸が地面や木々に当たり、土煙が上がるが、フェンリルにはかすり傷一つない。
サイラスは舌打ちすると、素早く拳銃をホルスターに収めた。同時に、腰から取り出した金の棒を握りしめる。
その棒は、彼の手に馴染むと同時にみるみる形を変え、先端が鋭利な刃を持つスピアへと変形した。その変形したスピアを構え、サイラスはフェンリルへと連続突きを繰り出した。
しかし、フェンリルの動きはまるで予見しているかのように素早く、スピアの連続突きはかすりもせず、空を切るばかりだった。
その刹那、フェンリルはサイラスの懐に飛び込み、鋭い狼爪の掌打がサイラスの胸にヒットした。鈍い衝撃と共に、サイラスの身体は勢いよく林の方へ吹き飛び、分厚い大木に激突した。背中から伝わる衝撃に、「あ……あっ…あぁ」と呻き声が漏れる。
しかし、驚くべきことに、あれほどの掌打をまともにくらったはずなのに、骨が折れてはいない。このスーツのおかげなのか、それともあの映像が関係しているのか、サイラスにはわからなかった。さっきまであった激しい痛みが、不思議と消えていたのだ。だが、体へのダメージを受けていることは変わらず、全身が鉛のように重い。
「くそ……」
サイラスは、痛みを堪えて立ち上がろうとする。フェンリルは、両手を大きく広げて挑発した。「おいおい、どうした。もう終わりかぁ」
その侮蔑的な言葉に、サイラスの焦りが募る。その瞬間、再び残虐な映像が彼の脳内に流れ込んできた。「なんだ、またか、うわぁぁぁぁぁぁぁ!」サイラスは頭を抱え、絶叫した。脳裏に焼き付く血と暴力の光景は、彼の意識を飲み込もうとする。
だが、今回ばかりは違った。サイラスが目を見開くと、その瞳は血のように真っ赤に染まっていた。同時に、彼の短い髪の毛が、見る見るうちに伸び、鮮やかな赤と漆黒が混じり合った長髪へと変化していく。
そして、彼の手に握られていたスピアも、まるで生き物のように蠢き、赤と黒の光を放ちながら、しなやかなムチへと姿を変えた。サイラスの身体から、かつてないほどの異様な力が溢れ出し、夜の庭を震わせた。
その光景に、フェンリルは気づいた。彼の野獣じみた顔に、初めて動揺の色が浮かぶ。
「あの姿、まさか、そんなはずは、そんなはずは…!」
狼狽しながらも、フェンリルは自らの狼爪を繰り出してサイラスに襲い掛かる。しかし、サイラスの手に変化したムチは、まるで生き物のようにしなやかに動き、フェンリルの狼爪を正確に弾き落とした。
次の瞬間、ムチはフェンリルの身体に素早く巻きつき、彼を拘束した。ムチの先端は、まるで巨大な口のように大きく開き、フェンリルを丸呑みにしようと迫る。
その時、一筋の影が闇を切り裂き、サイラスの目の前に現れた。
「そこまでだ」
低く、しかし有無を言わせぬ声が響き、何者かの手がサイラスの手首をはたいた。その瞬間、サイラスの意識が現実へと引き戻される。ムチは力を失い、地面に落ちると、くぐもったうめき声を上げながら、元のスピアの姿に戻っていった。
サイラスの身体もまた、急激に元の状態へと戻っていく。赤と黒の長髪は、瞬く間に黒い短髪へと縮み、血のように赤かった瞳の色も元の色に戻った。両膝と両手を地面につき、肩で荒い息を繰り返す。全身から力が抜け、汗がとめどなく流れる。
「一体、何が起きたんだ……」
サイラスの問いに、デオルワインが静かに答える。彼の姿は、いつの間にかサイラスの傍らにあった。
「私が飲ませた血が暴走を引き起こした」
デオルワインはサイラスの肩に手を置き、ゆっくりと彼を起こした。フェンリルは、拘束から解放され、依然として警戒の色を残しつつも、デオルワインに問いかける。
「デオルワイン様、さっきの話は本当ですか。血を飲ませたのは」
「ああ、本当だ。もう気が済んだか」
デオルワインの言葉に、フェンリルは控えめに頷いた。その表情には、先ほどの殺意は消え、どこか納得したような様子が見て取れる。それを見たデオルワインは、「なら、戻るぞ」とだけ告げた。
三人は再び、闇に沈む屋敷の中へと入っていく。サイラスは、自分の身に起きた異変と、デオルワインが持つ力の片鱗を目の当たりにし、これからの「契約」が、想像をはるかに超えるものになることを予感していた。