第2話 デオルワイン
二人は漆黒の森を歩いていた。月の光も差さず、動物の声一つ聞こえない一本道は、まるで世界の果てへと続く道のようだった。サイラスは、まだ完全に塞がっていない胸の傷を左手で押さえながら、男の後に黙って続く。男の足音だけが、静寂の中に響いていた。
「何処へ向かっているんだ?」
痺れを切らしたサイラスが問いかけると、男は立ち止まることなく答える。「この先、私の屋敷がある。もう少しで着く」
歩くこと数分後、霧が徐々に消えていくと、目の前に古びた屋敷が現れた。
頑丈な門の前に立つと、門に彫り込まれた奇妙な紋様の中に二つの光る目が現れた。
「お帰りなさいませ、ご主人様……ん? 誰ですか、その男は?」
門の目がサイラスに向くと、男は「ああ……この男は私の友達なんだ。門を開けてくれないか」と答えた。
「分かりました。」
重厚な門が軋みながら開き、二人は屋敷の中へ入った。じめっとした冷たい空気が肌を刺す。正面の闇の奥から、蠢く気配が近づいてくる。三つの首を持つ巨大な魔物が、涎を垂らしながら男ではなくサイラスを見ていた。
「こら、こちらは大事なお客様、餌ではない」
男はそう言うと、踵を返して闇の奥へ消えていく。「何者なんだ。こいつは」と心の中で思いながらも、サイラスは更に奥へ進んだ。
屋敷の玄関へ到着すると、執事らしき高齢の老人が立っていた。
「デオルワイン様、お帰りなさいませ。」
「ああ……あいつらは来ているのか」
「はい、皆様、鷹の間にいらっしゃいます」
執事の老人はデオルワインの黒のマントとステッキを淀みなく預かった。
「爺や、サイラスに新しい服を用意してくれないか」
「分かりました。それではこちらへ」
執事の後ろをついていくと、ひときわ目立つ扉を発見した。執事が中へ入って行くと、サイラスも続いた。そこは、まるで高級ブティックの倉庫のようだった。広々とした部屋の天井からは、シルクやベルベット、ウールなど、あらゆる素材の高級そうな服がずらりとぶら下がっていた。
執事の老人がサイラスに似合いそうな服を探している間、サイラスは服を見ながら歩いていた。すると、部屋の中央に置かれたガラスケースに入っているスーツに目を奪われた。
「なんだ…このスーツは」
サイラスの隣にいつの間にか立っていた執事が、優しい声で言った。「気になりますか?」
「えぇ……そうですね」
サイラスが少し考えていると、執事が問いかける。
「着てみますか?」
「いいんですか」
サイラスは思わず聞き返した。あのスーツから放たれる異様な気配に、ただならぬものを感じていたからだ。
執事は口元に微かな笑みを浮かべた。
「あのスーツが貴方様を受け入れるか、見ものですね」
その言葉には、ただ試着を促す以上の響きがあった。まるで、そのスーツが生き物であるかのように。サイラスは、その謎めいた言葉の意味を測りかねながらも、ガラスケースの中の漆黒のスーツへと目を向けた。
執事は重々しいガラスケースの蓋を静かに開け、中から漆黒のスーツを恭しく取り出した。サイラスは、自身が着ていた血と硝煙にまみれた黒のダブルスーツを上下脱ぎ捨てた。血が滲んだ白のワイシャツと、歪んだ黒のネクタイも無造作に床に放る。
執事が手渡す新しい純白のワイシャツに袖を通し、丁寧にネクタイを締める。
そして、いよいよその漆黒のスーツに腕を通した。
「なんだ…この感覚は」
サイラスは思わず呟いた。スーツの生地が肌に触れた瞬間、それはただの布ではないと直感した。まるで第二の皮膚のように、彼の身体に吸い付く。しかし、それは締め付けられるような不快感ではなく、むしろ身体と一体になるような不思議な感覚だった。
スーツの黒が、周囲の光すらも吸収してしまうかのように深く、サイラスの存在そのものを際立たせる。それは、着る者を単なる人間以上の存在へと昇華させるかのような、底知れぬ力を秘めているように感じられた。
その直後、サイラスの脳内に、残虐非道な映像が稲妻のように流れ込んできた。それは彼の記憶ではない。しかし、あまりにも鮮明で、まるで自分がその場にいるかのような錯覚に陥った。
闇に包まれた荒れ地で、異形の魔物がうごめいている。その中心には、サイラスが今着ているスーツと酷似した漆黒の衣装を纏った一人の男が立っていた。
男は、信じられないほどの速さと力で魔物を次々と屠っていく。彼の動きは洗練され、無駄がない。まさに「暗殺者」そのものだ。
そして、その男の傍らには、もう一人の男の姿があった。その男の顔ははっきりとは見えないが、彼もまた、同様に強力な力で魔物と戦っている。
二人の男は、まるで影と光のように、完璧な連携で敵を圧倒していた。血しぶきが舞い、肉が引き裂かれる音、魔物の断末魔の叫び。その全てが、サイラスの脳内で生々しく響き渡る。
映像が切れると、サイラスは「はぁ、はぁ」と荒い息を吐いた。額からは汗がだらだらと滴り落ち、地面に小さな染みを作る。身体に異常はないのに、精神的な疲労が彼を襲っていた。
執事は、そんなサイラスの様子を静かに見守っていた。そして、満足げに口を開く。
「一応合格ってところですかね。流石スコープ家の人間ですね。まぁ、これぐらいクリア出来てくれないと困ってしまいますけどね」
執事は、どこか愉しむような、それでいて深い意味を含んだ笑みを浮かべ、右手に持った白いハンカチでサイラスの額を拭った。
「このスーツは一体、なんださっきの映像は」
サイラスは困惑しながら問いかけたが、執事の老人はサイラスの言葉を無視して部屋を出ていく。サイラスは慌ててその後を追った。
老人とは思えないほどの足早で、執事は息一つ乱すことなく階段を上がっていく。サイラスは新しいスーツの不思議な感覚に戸惑いつつも、必死に食らいついた。
三階まで上がり、廊下を無言で一番奥まで歩く。そこに現れたのは、扉に精巧な鷹のオブジェが装飾された重厚な部屋だった。執事はその扉の前で立ち止まり、静かにノックをする。
「ご主人様。用意が出来ました」
中から、デオルワインの平坦な声が響いた。
「中へ入れ」
執事が扉を重々しく開いた。サイラスは恐る恐るその部屋の中へ足を踏み入れる。部屋の広さにまず圧倒された。天井は高く、中央には巨大な暖炉があり、その火が薄暗い部屋をわずかに照らしている。
部屋の奥には、黒檀でできたと思しき、威厳に満ちた玉座が鎮座していた。その玉座には、すでにデオルワインが深く腰掛け、フードの影からサイラスを見つめていた。
そして、部屋の通路の左右には、サイラスがこれまで目にしたことがない、異様な存在が等間隔で立っていた。彼らは皆、人間のような形をしていながら、その肌は灰色がかったり、鱗に覆われていたり、あるいは不気味な光を放つ瞳を持っていた。
しかし、共通しているのは、彼らが皆、精巧で美しい服を身につけていることだ。まるで、この屋敷の他の服のように、彼らの身体に完璧に馴染んでいる。彼らは微動だにせず、ただ静かにサイラスを見つめていた。その視線は、敵意とは違う、しかし警戒と興味が入り混じったような、複雑なものだった。
サイラスは、この異様な光景に全身が凍りつくのを感じた。それでも、彼はゆっくりと通路の真ん中に置かれた、もう一つの椅子へと歩みを進めた。その椅子もまた、黒檀製で、玉座と対になるかのように配置されている。立ち止まると、玉座に座るデオルワインが、その平坦な声でサイラスを促した。
「すわりたまえ」
サイラスはデオルワインの言葉に従い、黙ってその椅子に腰を下ろした。部屋の静寂が、彼の心臓の鼓動をより一層大きく響かせた。
その時、左手側に立っていた異形の存在の一体が、低く唸り声を上げた。それは、人間と獣が混じり合ったような、全身に毛皮を纏い、鋭い牙を剥き出しにした狼男だった。その鋭い眼光が、座っているサイラスに突き刺さる。
「貴様、何故そのスーツを着ている」
狼男の声は、喉の奥から絞り出すような低い響きを持ち、その目は「いつでも殺してやる」と語るかのような明確な殺意を帯びていた。サイラスは、その視線に全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。
「やめろ、フェンリル」
狼男の隣に立つ、白衣を着た頭がボサボサの中年男性が、たしなめるように声を上げた。その声に、狼男のフェンリルは渋々といった様子で、通路の脇に置かれた別の椅子に腰を下ろした。
中年男性は黙ってサイラスを見ていた。その目は、光を宿してはおらず、まるで深い淵を覗き込むかのような、別の種類の冷たい光を宿していた。
「デオルワイン様、何故人間がここにいるのですか?それにあのスーツは……」
通路の反対側に立つ、肌が青みがかった鱗に覆われた半魚人のような存在、アダパが言いかけたが、デオルワインがその言葉を遮った。
「彼はスコープ家の人間、数時間前にジェノサイド家によって家族は惨殺された。」
スコープ家……ジェノサイド家……惨殺……
デオルワインの言葉は、部屋に集まった異形の者たち全員を黙り込ませた。彼らの間に、微かな緊張が走る。その静寂の中、デオルワインはさらに言葉を続けた。
「私は今日、スコープ家のサイラスと契約を交わし、私の力を全て譲渡する」
その言葉に、サイラスはたまらず椅子から立ち上がった。
「力を譲渡するって、あんたは何者なんだ!」
サイラスが詰め寄ると、デオルワインはフードの影に隠された顔をゆっくりと上げた。その瞳は、深紅の光を宿していた。
「私は吸血鬼。息子と私の妻はジェノサイド家に実験台にされ……」
それまで冷静を保っていたデオルワインの声が、息子と妻の言葉を口にした途端、かすかに震え、言葉に詰まらせた。その声には、計り知れない悲しみと、抑えきれない怒りが込められているように感じられた。
「お前も俺と同じジェノサイド家に…」サイラスの言葉に、デオルワインは小さく頷いた。二人の間に、復讐という共通の目的が生まれた瞬間だった。
しかし、その絆を切り裂くように、フェンリルが再び立ち上がった。
「デオルワイン様…なんで突然来た人間に力を渡すのですか?納得がいきません」
フェンリルはサイラスの前に立ち、その殺意のこもった目で彼を見下ろした。
「おい、人間」
「なんだ」
サイラスは臆することなく、真っ直ぐに狼男を見上げた。
「今すぐ、俺と戦え。お前がその力を持つにふさわしいか、確かめてやる」
フェンリルの挑発的な言葉に、執事の老人が慌てて止めに入ろうとする。
「こら、やめないか」
だが、執事はフェンリルに突き飛ばされ、よろめいた。それを見たサイラスは、新たなスーツの感覚が体になじんでいくのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
「わかった。受けてやる。いいですよね」
サイラスはデオルワインの方を見た。デオルワインは小さく頷いた。その目には、サイラスへの期待が込められているようだった。
フェンリルは、返事を待たずに部屋の大きな窓を破って外へと飛び出した。ガラスの破片が闇に飛び散る。サイラスは、まだ完全ではない身体にもかかわらず、その狼男を追い、部屋を出ていった。
彼の復讐の旅は、この屋敷での、そしてこの漆黒のスーツを巡る最初の試練から始まるのだった。