てのひらの物語
高校へ進んだ理由は、そうするのが普通だったからだ。
卒業したら大学へ行き、なんとなく就職をして、ゆっくりと年を重ねていくのだろう。そんなことをおぼろげに考えながら、僕は毎日を過ごしていた。
朝起きて学校へ行き、授業を受けて帰ってくる。単調で特別面白いわけでもない日常の中にあって、唯一熱中していたのが本を読むことだった。
片手に収まるだけの紙の束の中には、多彩な登場人物と様々な価値観に彩られた無限の世界が広がっていた。
いろいろな本がある中で異世界小説を一番好きになったのは、過去でも今でも未来の話でもない、全く違う世界がそこにあったからだと思う。
僕の住む長浜の町も、日本も地球も宇宙さえも一つの単位にして、「それ以外のどこか」である世界。
てのひらの向こう側にある世界には、全ての束縛から開放してくれるような魅力があった。本を読んでいる間、僕は高校生ではなく、主人公たちと共に異世界を歩く旅人になれたのだ。
数ある小説の中には、僕のようなごく普通の少年少女がそんな異世界へと旅立ってしまう物語がいくつもあった。
――僕も、異世界に行ってみたい。
いつの頃からかそんな思いを抱くようになってしまったのは、ごく自然な流れだったのかもしれない。
※ ※ ※
ごつごつとした岩の天井に、白く光る石が埋め込まれている。等間隔に並び、細長い洞穴を昼間のように明るく照らす様子はさながら蛍光灯だ。
(でも、どうやって光ってるんだろう……)
手を伸ばして壁に触れれば、硬さと冷たさとじんわりと湿った感触が返ってくる。間違いなく天然の岩肌だ。電気が通っているようには見えないし、そもそもこの世界に来てから電化製品には出合っていなかった。
(やっぱり、ここは異世界なんだな……)
ひんやりとした空気に腕をさすりながら、あらためてそのことを実感する。
気がついたらそこは見たこともない砂浜で、見知らぬ少年に連れられてジャングルみたいな森を抜け、帆船の泊まる港を歩き、藁の敷かれた部屋で眠り、船に乗れば海賊と遭遇する。そして今、自分は海賊の住処を案内されている。
この青い空と蒼い海の世界に来てから三日。見るもの聞くもの全てが驚くことばかりで、同時にこの上もなく楽しかった。
「……うや、優也ってば」
「え? あ……何?」
呼ぶ声に視線を降ろせば、目の前には一緒にこの世界にやってきた幼馴染の顔があった。
「何じゃないわよ。どうしたの? ボーっとしちゃって」
「うん、ちょっと感動しちゃって……」
「……感動?」
「晴香は気にならない? あの光がどういう仕組みになっているのか、とか」
片眉を跳ね上げた幼馴染に天井の石を指差してみせる。つられるように見上げた晴香の背後に、音も無く緑の髪の男の子が現れた。
「これは光石って言うんだよ」
「きゃっ……」
驚いて飛びのこうとした晴香の肩を、男の子が素早く伸ばした右手でつかまえる。
「滑って危ないよ、ハル」
笑いながらそう言うのは、鬱蒼と茂る草のような濃い緑の髪と、同じく深緑色をした瞳が特徴的な少年ケルトだ。同じ十七歳ではあるけれど、彼はここ海賊「セーロン団」の一員だった。
「……け、ケルが驚かせたんじゃない」
「あはは、ごめんごめん」
ケルトの手は肩をつかんだままだ。彼とは同じ異世界に憧れる者同士でもあるし悪い人ではないけれど、何かと晴香にくっつこうとするのが困りものだった。昨日会ったばかりなのに、ちょっと馴れ馴れしいと思う。
「おかえり。用事はもういいの?」
少し強い口調で言うと、晴香が慌てたようにケルトから離れた。
「あ、うん。待たせてごめんね」
「……何をしに行ったの?」
晴香がケルトの出てきた横穴を覗き込みながら疑問を口にする。一緒に覗いてみると、横穴は少し先に行ったところで右に折れ曲がっていて奥が見えなかった。
体を戻して視線を向ければ、ケルトはニンマリと意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ヒミツだよ」
先ほどと同じ答えを返される。どうしても教えてくれないらしかった。
「……それで、光石って?」
いつまでも詰問していていても仕方がないので、興味のある話題へと戻す。今度はすぐに答えてくれた。
「光石は光石だよ。見ての通りこの洞穴を照らしてくれる明かりなんだ。僕にはできないけど、点けたり消したりできるんだよ」
「石が光ってるの?」
「ううん、魔法だよ。仲間の中にローランド出身の魔法使いの人がいてね……って、それじゃわからないか」
「わかるわけないじゃない」
「もうちょっと詳しく教えてよ」
晴香の声と重なった。ケルトがおかしそうに笑う。
「……何かバカにされてるみたい」
「だってさ、なんだか小さな子に教えてるみたいで……」
ケルトは口元を抑えながらまだ笑っている。思わず言葉が口をついてでた。
「僕らはこの世界のことについて何も知らないし……」
「それはわかるんだけど……。何しろこの世界じゃ小さな子でも知っているごくごくフツーのことだからさ」
その言葉に晴香と顔を見合わせる。なんとなく背中がむず痒くて、笑いのツボに入っているらしいケルトへとすぐに向き直った。
「わかったから、説明して欲しいんだけど……」
「う、うん……ごめん」
笑いを噛み殺しながら顔を上げてくれる。その目の端に涙が見えて、なんとも情けない気持ちになった。
「どこから説明すればいいんだろう。ええっと、魔法については昨日話したと思うんだけど……」
時折噴きだしそうに顔を歪めながら、ケルトは説明を始める。
魔法のこと。魔法使いと呼ばれる人々のこと。光石の仕組み。ローランドという国のこと。この世界のこと……。
知らないことを知るのは、とても楽しい。それが、僕が待ち望んでいた異世界のことであればなおさらだ。
当たり前のことを知らないと笑われたとしても構わなかった。
ここは異世界で、僕は旅人だったのだから。
※
「……おつかれさまでした。ここで最後、畑だよ。あ、頭に気をつけて」
前を歩く晴香がケルトの言葉に軽く頭を下げる。眩しい光に目を細めて見れば、頭上の岩が少しでっぱっていた。
「どう? 広いでしょ」
得意げな声のケルトに対して、晴香はよほど驚いたのか無言のままわずかに首を縦に動かした。
「晴香、横に寄ってくれる?」
「……あっ、ごめん優也」
遅れて穴をくぐり晴香の隣に並ぶ。そして、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、ケルトが言う通り広い畑だった。四方を急な崖に囲まれたそこは、高校のグラウンドくらいの広さはあるだろうか。出入り口から真っ直ぐと道が伸び、ちょうど収穫時期なのか、両脇には元気良く茂る緑の葉とよく熟れた色とりどりの野菜が向こうの山裾まで続いている。
「一区はね、他のどの区よりも広い畑を持ってるんだよ」
晴香の斜め前に立つケルトが腰に手を当て、誇らしげに胸を張った。
「すごい……」
「うん。まさかこんな広い畑があるなんて……」
それ以外にこの驚きを言い表せなかった。
あてがわれた部屋のある広間から奥へ進み、だんだんと洞穴が細くなっていったかと思ったら、この広さだ。
空を見上げれば、高いところにある太陽と山の向こうに見える入道雲の頭のほかは鮮やかな青に染まっていた。
「起きたらもう霧の中だったからわからなかったけど、今日ってこんなにいい天気だったんだね」
「確かにいい洗濯日和ではあるけどねぇ……。畑にはもう少し雨が欲しいから、そう喜んでもいられないんだよ」
聞こえてきた声に振り返れば、洞穴から木の籠を抱えた初老の女性がでてくるところだった。籠に山になっているのは、茶色い染みや綻びが目立つ布だ。多少やつれていても、破けていても、一枚だって無駄にはできないのだろう。
「あ、ダリアさん。ただいま」
「お帰りケル坊。……どっかケガしてないだろうね?」
心配そうに細められた目の端に皺が寄る。駆け寄ったケルトは女性の手から奪うように籠を取った。
「ピンピンしてるよ。ダリアさんこそ動いていいの?」
「少しくらい動いた方が体にはいいんだよ。それに、何もしない方が悪くなっちまうからね」
ダリアは腰を軽く叩きながら背筋を伸ばすように軽く反らし、視線をこちらへ向けてくる。
「子どもたちの言っていたお客さんってのは、アンタたちかい?」
「そうだよー。そっちがハルで、こっちがユーヤ」
届いた声に合わせて順に頭を下げる。喋った本人へと視線をやれば、ケルトは籠を持ったまま崖沿いに歩いて行くところだった。どこへ行くのかと先を見れば、木の棒をY字に組んで作られた物干し台が並んでいた。
「話は聞いてるよ、ノーマ様の知り合いなんだってね」
ダリアの落ち着いた声に視線を戻す。目を細め顔中の皺を深くした表情は、笑っているようにも様子をうかがっているようにも見える。
「……坊やたちは、異世界から来たんだって?」
静かな言葉に体が硬直する。二人が異世界人であるというのは、ケルトを始めとした数人にしか知らせていない秘密だった。
この世界では、「五年前に異世界人が現れたせいで大津波が発生し、一つの国を滅ぼした」という噂があった。そしてケルトによれば、この海賊団は元々その国――『風の王国』と呼ばれた国の生き残りの人たちが作ったものなのだという。
ケルトが受け入れられていることからも判る通り海賊の人たちはその噂を信じていないらしいけれど、やはりあまり口外できることではなかった。
隣で晴香が息を呑むのがわかる。対して目の前のダリアの口調は淡々としたままだった。
「なに、あたしはちょっと人より耳が良くてね、穴の中で話してることは聞こえちまうんだよ。……まあそうでなくとも、ケル坊のあのはしゃぎっぷりを見れば大抵の仲間はわかると思うけどね」
言いながら、鼻歌を歌いながら布を干していくケルトへと視線を走らせる。彼が異世界へ行くことに強い憧れを持っているというのは、晴香からも本人からも聞いていた。
ケルトからこの世界のことを教えてもらった代わりに、あとで優也たちの世界について話すという約束もしたばかりだ。
「まさか、異世界なんてものがあるはずは無いと思ってたんだけどね。……本当のことなのかい?」
「……はい」
「そうかい」
ゆっくりと胸に刻み込むように頷く表情には、どこか暗い影が落ちていた。先ほどのやり取りからもケルトのことを大切に思っている様子は感じ取れたのに、嬉しくはないのだろうか。それともやはり、異世界や異世界人というものに対して快く思ってはいないのだろうか。
そんなことを考えていると、ダリアは真っ直ぐと視線を向けてきた。
「なあ坊や、この世界に来てどう思った?」
「…………すごく、嬉しかったです」
悩んだ末に、正直な想いを口にする。絶対不可能だと思っていた夢が叶ったのだ。胸の中で湧き上がる高揚感は三日経った今でも尽きない。その気持ちに嘘をつくことはできなかったし、ダリアも望んでいないと思った。
「ありがとうよ。……やっぱり嬉しいんだろうね、憧れだったんだから」
祝うわけでも皮肉でもない、感情の無い声とともにダリアが頷く。
「あたしはね、この世界で五十年生きてきた。家が貧しかったから小さい頃から働いて、働いて、働いて。なんとか生活していくのに必死だった。やがて結婚して息子が生まれて……ようやく幸せをつかんだと思ったら、流行り病で夫は死んじまった」
ダリアが自分の手に懐かしそうな瞳を向け、ゆっくりと拳を作り、開く。その荒れたてのひらが、彼女の人生を物語っていた。
「五年前に息子がね、風の王国に小さいながらも家を持ったって言うから尋ねていこうとしたら、あの大津波だ。息子は行方不明、あたしは命は助かったけど、足をやっちまってね。今はここでこうしてお世話になってる」
五年前の大津波。その言葉に心臓が強く脈を打つ。
顔を上げたダリアは、今更気付いたというように口元に笑みを浮かべた。
「ああ、アンタたちを責めようとか、そういうつもりじゃないから安心しとくれよ」
妙に朗らかな声に、小さく息をつく。あらためて視線を向けると、ダリアの笑みはより深くなっていた。
「誰かを責めたところで、過ぎた時間は帰っちゃこないんだよ。……ただアタシたちにできるのは、どんな時でも、どんな状況でも、今を精一杯生きることだけさ」
強い口調で言い切り、わかるかい、と挑戦的な瞳で訴えてくる。皺に覆われた顔に埋め込まれた黒い瞳には、老いでは無くさらに輝こうとする強い意志が宿っていた。
「……大丈夫ですよ、僕は。もちろん、ケルトもだと思います」
見つめ返しているうちに言わんとする意味が解り、大きく頷く。ダリアは嬉しそうに口元の皺を深くした。
「どうやら坊やを見くびっていたようだね。……つまらない身の上話を長々としちまうなんて、アタシもモウロクしたかねぇ」
「いえ、タメになるお話でした。ありがとうございます」
心の打ち震えるのを感じながら、軽く頭を下げる。
ここは決して作られた世界などではなく、人が生きている世界だということ。ダリアの語る様子からはその現実感がひしひしと伝わってきた。この世界はハッピーエンドばかりが溢れた都合の良い物語の世界ではない。一人一人が今を生きている、れっきとした一つの世界なのだ。
「夢が叶うかもしれないってことがわかったんだから、まずはそれを素直に喜ぶ。……それがあの子なんだろうね。余計な心配をしちまったよ」
遠目にも楽しそうな様子がわかるケルトを見やり、ダリアはつぶやく。そしてよくわからずに目を白黒させている晴香へと、皺だらけの笑顔を向けた。
「お嬢さんもほったらかしにして悪かったね、何もないところだけどゆっくりしていっておくれ」
「あ、はい……」
「ありがとうございました」
晴香が会釈するのに合わせてもう一度頭を下げると、ダリアは満足したようにケルトの方へと歩いていった。その後ろ姿を見れば、右足をひきずるようにしている。
「ねぇ優也、いったいどういうこと?」
「そのままだよ。ちょっと怒られちゃった」
耳打ちするように聞いてきた晴香に、視線を向けずに答える。ずっと浮ついていた心が、ようやく落ち着くのを感じていた。
「……こらケル坊、あたしの仕事を取る気かい?」
「洗濯だけでもダリアさんには充分な仕事だよ。それにほら、昔は僕の仕事だったし」
ダリアの叱る声にもめげず、明るい笑顔を浮かべながらケルトは慣れた手つきで布を干していく。
「まったくいつの話だい。それにアンタにはお客様を案内するって仕事があるんだろう? こんな暑い中でいつまでも待たせてるんじゃないよ」
「もうちょっとなのになぁ……。それにこれ以上案内するところなんて無いよ」
「いいからさっさとお行き」
親子のような口論が終わり、追いやられるようにしてケルトが戻ってきた。
「……ダリアさん、変なところで頑固なんだもんなぁ」
その参ったと言わんばかりの表情がわざとらしくて、優也は思わず噴き出した。ケルトが眉をひそめる。
「……ケルって、優しいんだね」
しかしその険しい表情も、晴香の感心したようなつぶやきにあっという間に笑みに変わった。勝ち誇ったような表情を向けられて、優也は唇を引き結ぶ。
「広場に戻ったら、僕たちの世界の話だよね?」
「そうそうっ! 早く聞きたかったんだ~」
ケルトの表情が慌しくも嬉しそうなものに変わった。
まるで自分を見ているような思いに駆られる。ケルトはダリアの想いを受け止めているのだろうかと、心配にならずにはいられなかった。
「ね、ケル。他の区には行かれないの?」
「んー、本当はホルンさんのいる二区とかも案内してあげたいトコなんだけど……外の人は区外に出しちゃいけない決まりになってるんだよねぇ」
質問に答えながらちゃっかり晴香の背中に手をまわそうとしているのを見て、優也はその間に割って入る。
「ね、喉乾いたと思わない? 晴香」
「……あ、そうね。ずっと歩きっぱなしだったし」
ケルトと視線を合わせると小さな火花が散った気がした。口元に笑みを浮かべ、ケルトは晴香の肩に手をかける。
「それじゃ、早く行って何か飲みながら話をしようっ!」
今度は手を伸ばす間もなく、二人の背中が洞穴に消える。
視界の端で、ダリアがやれやれと言うように首を振った。
てのひらの物語 おわり
《初出:2004年9月12日発行 同人誌「青い風4章+ てのひらの物語」》