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湿った岩

作者: 山科晃一

 







湿った岩

                    山科晃一








太い右手人差し指が、私の左手薬指の指輪をなぞる。

余呉(よご)()、別名「(かがみ)()」と呼ばれるこの穏やかな湖面の揺れが、舟の中で抱擁し湖北の風に耐えんとする私たちの肉体を曖昧に映し出す―この夜の静けさには、(しず)ケ(が)(たけ)の方から聴こえた獣の潰れた鳴き声すら瞬時に溶けていく。

「誰かみてるかも」

 ならば、と言わんばかりに桂木くんは私をボート部で培った力で押し倒し、私は次なる一手を待つ。この瞬間だけ、桂木くんより先に生きてきた私の20年の時は忘れ去られる。この世に誕生した男女の営みがただそうあるべきとしてある、ように。

「この湖の伝説、知っていますか?」

「知らない」

 突然静止して私の顔面をジッとみた桂木くんは、じらすような細い目で笑った。

「織姫が羽衣を脱いで水浴びをしていたら、通りがかりの男に盗まれてしまった。天に帰れなくなった織姫は、その男の妻になって子をつくった」

 淡々とした桂木くんの語り口が次に発するための息を吸う短い沈黙、次の音に耳を澄ます。左胸に添えていた私の手が早くなった彼の鼓動を知覚した。

「でも天に帰りたい気持ちは消えない。ある日、子は男が隠していた羽衣を織姫にこっそり返した。すると織姫は喜んで天に帰り、七夕の日にだけ会う約束をした」

 かつて大江(おうみ)と呼ばれた琵琶湖に対して、伊香(いか)小江(をうみ)と呼ばれたこの湖で私たちは度々落ち合った。再び、知らない、と言わんばかりに接吻を仕掛ける私の顔面を桂木くんの二本の指は押さえる。

「ヨエコさんは織姫」

「子供いないし」

 目を逸らし天を仰いだ桂木くんの頬に、月明りがほんのり宿った。その表情は哀しく、虚ろにみえた。

「僕といても、旦那さんといても、ヨエコさんにはきっと満たされない何かがある」

 桂木くんの太い腕に噛みつくと、「イッ」と唸って、今度は獲物を殺すような眼つきでギロリと私を睨んだ。次に差し出した私の腕を桂木くんはジッと見つめてニッと笑った。舌で繊細になぞった後、歯を少しずつ食い込ませていく。その圧力は痛みに変わり、感情になった。「好き」

 桂木くんは、伝説を語るほどの客観を失い、自らの欲望の主観の渦に溺れるように私の身体を探った。それから舟の中を充溢した快楽の永遠を私は希求し、なお漂う桂木くんの哀しみの行方を想った。彼の幸福のために私にできることはないか、自らの欲望が叶えられていく悦びとは別の領域で、私は彼をまた愛してしまった。私に母性というものが備わっているのならば、仮にそうとも呼べるような、他愛に満ちた感情。同時に訪れる罪の意識をかき消すために、桂木くんの痙攣した上体を強く抱擁する。

私が天に帰るなら、あなたと―


虚しく明るい朝は来た。桂木くんは大学の寮に戻って、私は台湾出張から帰ってきた旦那を草津の自宅で迎えた。台湾土産に漁師網バッグを買ってきたとテーブルに放って、ソファに座り込んで経済新聞を捲る彼は「進んだ?」と一言横目に放った。

 進めている、のは二人で新たに暮らす家の契約だ。母方の祖父が亡くなって空家となった彦根の古民家を旦那名義でローンを組んで改装し、来週末には引っ越しを控えている。全国を飛び回る建築会社の事業推進部の旦那の提案と資金によって私たちのプロジェクトも確実に進んでいた。経済の力は圧倒的に私たちの新しい生活を、恐るべきスピードで象っていこうとしている。怖い。時速130キロでぶっ飛ばした旦那の助手席でときめいたあの頃とは違う、現在の疾走への、怖さ。あの頃のまま、終わっていれば良かったのに……終わる? ふと、頭にささやいた声を退けるために、私は現在の旦那の方に向き合った。

「百日紅はあきらめた。もっとおっきくなるんだって」

植栽のカタログを見せ、私は新しく庭に植える植物の話をした。旦那はパラパラと捲ったのち、台湾で食べた鶏の丸焼きの写真を私に見せつけた。もう一枚をスライドすると、艶のある羽を讃えて歩く鶏がハッキリと映っている。「これが、こうなった」とスライドを繰り返す、その脂ぎった指の爪先には黒い垢が溜まっていた。

「現地の人が調理してくれてね」

それからまくしたてるように台湾で食べたかき氷や豆腐花、先住民族の文化をフォーカスした施設、多文化共生のための建築について喋ったのち、「また行きたい」と彼の台湾への熱い想いが一人でに語られた。私たちの間から身体の関係がなくなったのも、お互いがお互いのモノローグを語り始めた頃からだっただろうか。私は彼の後方の窓にやってきて去っていった一匹の小鳥の後ろ姿を見送った。


―会いたい。

返信はない。ソファでいびきをかいて眠る夫をロフトで確認したのち、スマフォのブルーライトにのせられた桂木くんの古いメッセージを闇の中で眺め続けた。ボトルワインを一本空けた私の感情は桂木くんとの夜を夢想するばかりで、眠れずに寝返りを打ち続けた痕跡が布団のくすんだ色のシーツにだらのしない痕跡を残している。湖での出来事を今ここに想起し、声を殺しながらの自慰。それはただ眠るために、と自らに言い聞かせて―と、スマフォが振動してロフトの床が鳴った。スマフォを掴み取ると、桂木くんの名が表示された。

「米原にいます。今から来れませんか?」

慌てて電話を切る。今からなんて行けるはずがない。帰りの電車がなくなってしまう。旦那のいびきの音が続いているのを確認したのち、ロフトを亡霊のような足取りで降り、獣のような素早さでコートと鞄を手にして玄関を出た。

琵琶湖線に飛び乗る。私は何をしているのだろう。

―40分後。

 

 米原駅の東口で座り込む桂木くんに詰め寄る駅員に「母です」と言って手を引き、タクシーの行燈に手を挙げた。車内で桂木くんは、ごめんなさい、と繰り返しながら、ボート部で琵琶湖大会のメンバーから落選したことの不満を酩酊のうちにもらした。手を握って相槌を打つ私はこの後向かうであろう場所への意識を増幅させる。運転手はそれを知っているかのように何も話さない。窓から覗けた広大な琵琶湖は、余呉の湖の存在など知らないように街の灯を湛えて激しく波打っていた。

 琵琶湖沿いに佇む家の庭先は深い闇を湛えていた。

「旦那さんとの新しい家」

不穏な笑みをみせた桂木くんは嗚咽し、口をおさえたまま庭の隅に移動し嘔吐した。桂木くんの嘔吐物をかぶった自生するドクダミの葉が月明りにぎらついていた。「大丈夫?」。それから接吻をした。

 廊下の電気をつける。古き良きを活かそうという旦那のアイデアで改装を重ねてきた漆喰壁と張り替えた焦げ茶色のフローリングが淡く照らされる。唯一家具が残っている祖父の書斎となっていた部屋の籐椅子に桂木くんを座らせ、台所で一杯の水をグラスに汲んだ。

「これって、ヨエコさん?」

 引っ越したのちに兄と仕分けする予定だった祖父の遺品から一つ、古びたアルバムを手に取った桂木くんは一枚の家族写真を指差した。

「それは母親。四年前にガンで亡くなった。これは祖父で、これは祖母。皆いない」

 厳しかった母親は私の結婚を一番喜んで、孫の誕生を心待ちにしていた。こちらを凝視しているその小さな瞳に心がざわつく……許して。子供も産めずこんな年になってまでこんなことしている私を。家系を揺さぶるようなことをしている私を。もし罰を与えるなら………私に。

「外、歩きませんか」

何かを察して切り上げるように立ち上がった桂木くんはグラスに残った水を無言で一気に飲み切った。「うん」。

家の裏口から出て数分の暗い琵琶湖のほとりへと出た私たちは、打ちあがったブラックバスの死骸を眺めながら手を握った。異臭がする。どちらともなく裸足になって、このグロテスクな生ぬるい湖を蹴飛ばし合った。私が蹴って、跳ねた水が桂木くんの眼球をとらえた。少しの間があった後、仕返しにと桂木くんは私をゆっくりと押し倒し、顔を近づけた。眼球が右に動いて「あ」と言った。その先、車道からのハイライトに照らされて光る金属の存在を一瞬感じ取った。桂木くんが身体を起こしバシャバシャとそちらに向かっていく。行かないで。私は起き上がって、歩き出す、その数歩先にあった湿った岩につまずいた。足の甲から血が流れて、水を染めていく。それを嗅ぎつけたように小さな魚影が集まってくる。集まっていたのかもしれない、ほどの魚群。ただじっと眺める、生きようとする命の方向を。一匹が私の足の甲をつついた感触に目を閉じる……

ブオオオオオオオオオンッ!

突如、闇の方から鳴り響いたエンジン音に私は仰け反った。波が不規則に乱れ、魚群は去る。開けた視界にジェットスキーに乗った桂木くん。ニッと笑ったのが分かった。


 この湖は俺たちのものだ。どこか狂気じみた声で叫びながら、ジェットスキーを乗り回す桂木くんにしがみつく私は、スピードの在りかをたしかめる。どこからどこまでを進んだか分からない、広大な湖の闇を劈くこの振動に、なすすべのない身体が揺れ動く。

「桂木くん! 怖い!」

 怖い、でも。

「ヨエコさんは俺たちのものだ!」

……俺たち?

もし。もし、このまま手を放してしまえば、すべてを終えられる気がする。私さえいなくなれば、桂木くんはきっと幸せになれるんじゃないか。きっと未来に愛するべき人がいて、その人に愛される時が来る。その出会いを私の存在が阻んではいまいか。

「私、幸せよ!」

何を言っているんだ私は。私は、私とは別の生命体なのではないか。別の領域の私はもはやここには存在していないのではないか。身体の横揺れがなくなって、進行していることすら忘却されたこの一点において、永遠というものを知った気さえする。ただ、私たちが向かう先にまた、私たちがいる。その連続する身体が、ただこの世に浮上しているだけだ。この背中はかつての旦那のようで。

次にやってきた強烈な衝撃も、ずっと前から知っていた気がしたんだ。

(終わり)


 


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