俺をいじめていた女と再会したら娼婦になっていた
「この辺りはもう随分暖かいでしょう」
テーブルを挟んだ向かいの席で、煙草に火をつけながら彼女は外を眺めていた。
「人も多くてにぎやかで……あなたにお似合いの、この時期でも雪しかないような田舎とは大違い」
小さな古びたカフェの、一番端にある席の窓から覗く小路は、街の中心からはずれているにも関わらずそれなりに人通りが多かった。
確かに俺の住んでいる地域ではめったに見られない光景だ。
悲しいかな、俺の地元が何もない田舎なのは反論のしようがないが、それでも彼女にバカにされる筋合いはないはずだ。
「君の故郷でもある、アデラ。自分の父親が治めている土地を貶すのはいかがなものかな」
アデラはそれに答えず、
「あなたは相変わらず冴えないわね」
と喉を鳴らして笑った。
「……そういう君も相変わらずだ」
実際、六年近く会っていなかったのが信じられないほど、目の前の女は変わっていなかった。
人目を引く華やかな顔立ちも、輝くような青い瞳と金色の髪も、不機嫌そうな笑い方も。
人を食ったような話し方も相変わらずで、かつて彼女に散々いじめられた記憶が蘇って頭が痛くなりそうだ。
あるいは、俺の中の彼女がもう随分ぼやけていたところに突然現れたので、記憶が今の姿で上書きされて、まるで変わっていないように錯覚しているのかもしれない。
その証拠に、身に着けているものは以前と大分違う。村にいたときは領主の娘にふさわしく品のいい装いだったが、今身にまとっているドレスはずいぶん派手でけばけばしい。
何より、昔は煙草を吸うところなど見たことがなかった。当時はまだ少女と呼べるような年齢だったから、当然といえば当然だが。
「あなたも吸う?」
俺の意識が、自分の煙草に向いているのを見咎めたのか、アデラはぞんざいな手付きで煙草入れを差し出した。
「いや、煙草は吸わないんだ」
「あっそ」
彼女は出した時と同じく投げやりにそれを仕舞い、咥えていた煙草をつまんで煙を軽く吐き出した。
薄暗い店内で煙がたなびいて、その奥にあるアデラの白い顔がぼんやりと霞む。煙草の火が赤く光っているのが妙に目について、現実味がなく、夢の中にいるような心地がした。
「こんな場所で会うなんて、驚いたよ。この街で暮らしているのか?」
「ええ、今はね。あなたは? お父様のおつかい?」
子供に尋ねるような言い方はまた俺のことをからかっているのか、それともアデラの中の俺は、十代の子どものままで止まっているのか。
アデラと初めて会ったのは、まだお互い十歳になるかならないかのころだった。
俺たち家族が村に越してきたばかりで、俺が父から預かった手紙を、彼女の住む、領主の屋敷に届けに行った時のことだ。当時から彼女の根性は曲がっていた。
村の牧師として勤めていた俺の父は大変な出不精だった。村内での用事も、どうしても必要なとき以外は外に出たがらず、まだ子どもだった俺を遣いにやることが多かった。
俺とて子どもながらに使い走りにされるのは気に食わなかったが、けちな父が小遣いをくれるのはこんな時くらいだったから、嫌々ながらも言うことを聞いていたのだ。
年の離れた妹には甘く、すぐにものを買い与えるくせに、俺に対しては厳しいところのある父だった。
牧師という職業柄やはり領主との付き合いが多かったようで、俺は毎週のように屋敷に出向き、その度にアデラに体のいい遊び相手というか、有体に言っておもちゃにされていた。
それはともかく、今はもう小遣い目当てに父の使いをすることなどない。それに、ちょっとしたおつかいと言うには、この街は村から遠すぎる。
「いいや、街で買いたいものがあったんだ。……父は亡くなったよ。急な病で、もう二年になるかな」
アデラはほんの微かに目を見開いたが、すぐにもとの気だるげな目つきに戻った。
「あらそう。ご愁傷さま」
アデラの声色にも表情にも、なんの感慨もない。無礼な態度だが、意外ではなかった。俺の父が彼女に対してそうであったのと同じくらい、アデラは俺の父を嫌っていたから。
アデラは昔から誰に対しても攻撃的で、自分もその一員だというのに村人を田舎者だと馬鹿にし、教会での説教にくだらないと唾を吐くような少女だった。
俺の父はアデラのことを不道徳な娘だとこぼし、自分が屋敷に行かせているのを棚に上げて、俺が彼女と会うのに良い顔をしなかった。
母も、言葉はなくとも父と同じ考えなのは明白だった。
俺の両親だけではない。アデラは村中の人間を嫌っていたし、村中の人間から煙たがられていた。
彼女が仮にも領主の娘である手前、表立った批判こそなかったが、村の大人たちが彼女に良い感情を抱いていないのは手に取るように分かっていた。
本人の刺々しい性格のせいか同世代の子どもにも避けられがちで、アデラには友達がいなかった。俺だって屋敷に用がなければ、彼女と遊ぶことなんてなかったはずだ。
◇
注文していたコーヒーが運ばれてきた。店主と思しき老人が、去り際にアデラのことをちらりと見降ろし、それから俺の方を少し見る。
その好意的とは言い難い視線に、もしや店内での喫煙は禁止なのだろうかと冷や汗が出そうになったが、テーブルには灰皿が置いてある。
結局、アデラの派手な服装が気になったのだろうと、自分で落としどころを見つけた。
アデラは店主の視線を気にする様子もなく咥えていた煙草を灰皿に置き、コーヒーを飲み始めた。
「アデラ」
彼女はカップを傾けたまま、一度目だけこちらに向けて、それからゆったりとカップをソーサーに置いた。
「なに? エディ」
「どうして急にいなくなったりしたんだ」
アデラは六年前の冬の終わりに突然村から姿を消した。書き置きひとつ残さずに。
「別にどうしても何もないわよ。田舎の生活に嫌気がさしただけ」
「だからって何も言わずに出ていくことはないだろう。君のこと、皆心配していた」
当時は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。曲がりなりにも領主一家の娘がいなくなったのだ。よもや誘拐かと、一時は村中で捜索に当たった。
俺は、本人の意思なら放っておけばいいじゃないかと密かに思っていたが。
「心配?」
彼女は俺の嘘など見透かしているというように低く笑った。
「本当に心配してたら、私はとっくに連れ戻されているでしょうね。あんな田舎で小娘が一人で遠くに行く手段なんて碌にないし、跡を追うのなんて簡単だったでしょうから。どうせ、厄介者が居なくなってせいせいしていたんじゃないの」
俺は束の間、言葉に詰まってしまった。
アデラの言葉が全く正しいわけではないだろう。だが実のところ、村人たちによる彼女の捜索は一週間ほどで呆気なく打ち切られた。
誘拐犯からの脅迫などもなく、初めに俺が考えたように本人の意思で出て行ったのだろうと結論付けられたのだ。彼女の普段の言動が多分に影響していたのだろう。
それから一月もしないうちに村で彼女のことを話すものは居なくなった。彼女の妹を除いては。
「……少なくとも、フレヤはずっと心配していた。君が元気にしていると知ったら、喜ぶと思うよ」
アデラの一つ下の妹のフレヤは、姉とは何もかも正反対だ。領主の娘であることを鼻にかけることなく、だれに対しても優しい。少し気の弱いところはあったが、まじめで実直で、村の人間からも好かれている。
見た目も全く似ていない。アデラが派手な金髪碧眼で、母親に似た華やかな顔立ちであるのに対し、フレヤは父親譲りの目鼻立ちに赤毛で、アデラはよくフレヤを「地味で冴えない子」とこき下ろしていた。
アデラのフレヤ本人に対する態度もひどいものだったが、フレヤはそれでも決して自分の姉を悪く言うことはなかった。
「あの子が? どうせ婚約者の、あなたの前でいい子ぶっているだけでしょう。あ、今は夫だった?」
「フレヤがそんな子じゃないのは君も知っているだろう。それと、まだ結婚はしていない。今のところは婚約者のままだ」
俺とフレヤの婚約が決まったのは、アデラが村を出る少し前のことだった。
申し出があったのは領主であるフレヤの父からで、俺の両親は大変な良縁だと喜んでいた。
「へえ!」
アデラは大袈裟に眉を上げてみせた。
「まだ結婚してなかったんだ。あの子が十八になったら直ぐかと思ってた」
「その予定だったけど、俺が大学に行っていたから。……去年卒業してようやく落ち着いて、春になったら式を上げる予定だ」
俺の父が突然亡くなり一家の収入が途絶えたあと、俺の大学費用を援助してくれたのはフレヤの父親だった。
その間、母と妹の生活の面倒もみてもらった。あの人には頭が上がらない思いだ。
いずれ家族になるのだから気にすることはないと鷹揚に笑うフレヤの父のことを、大抵の人間は人格者であると評するだろう。
領主夫妻には息子がいないから、領地の運営は婿養子となる俺が引き継ぐことに決まっている。
近ごろ俺はフレヤの父と領地を巡り、様々なことを教えられる、忙しい日々が続いていた。
そんな中今日ここまで遠方の街に出たのは、春に迎える結婚式に際して、新郎が用意するしきたりの物を注文するためだった。
「春といえば、確かリリッカの祭りはもうじきだったわね」
アデラはぼんやりと外を眺めたまま、ふと思い出したように言った。
「ああ、あと半月は先の話だけど、もう準備は始まっている」
リリッカとは、この国の至る所で見られる低木の名前だ。特に北部に多く、春には白や赤、紫、薄い青色など色とりどりの花を咲かせる。俺たちが育った地方ではちょうど雪が溶ける頃に開花するので、春を告げる花と言われていた。
そのリリッカの花が咲く頃に、村では春の訪れを祝う祭りが開かれる。
村で一番大きな広間に天幕を張って花で飾り立て、楽器や歌が得意な者は音楽で祭を彩り、皆で料理を持ち寄って一日中騒ぐのだ。
たったそれだけだが、田舎の小さな村では秋の収穫祭と並んで最も大きな催しと言っていい。
天幕や大量の食材の用意、村人が集まっての曲の練習など、すべきことは多岐に渡るため、毎年今頃には祭りの準備を始めなければ間に合わない。
それと、この祭りには料理と音楽のほかに、もう一つ大切な慣習があった。
祭が始まる前に、男性は親しい女性にリリッカの花で冠をつくって贈る。そのお返しに、女は花冠をくれた男に草冠を編んで贈るのだ。
恋人だけでなく家族や友人同士でも贈りあうので、抱えきれないほどの冠をもらう者もいる。
その冠をつけて祭りに参加するのがある種の決まりのようになっていて、この祭りがリリッカの祭と呼ばれている所以だろう。
「あなたはあの子にピンクの花冠を贈ってた」
アデラは灰皿に置いておいた煙草をつまみ上げ、再び吸い始めた。
あの子とは、フレヤのことだろう。俺はフレヤには毎年決まって、ピンク色の花冠をつくって渡している。本人が好きな色だと言っていたから。
「花冠なら、君にも毎年贈っていたはずだけど。……君は急に怒り出して、俺を川に突き落としたことがあった」
バシャリと、重いものが落ちたような大きな水しぶきの上がる音が、今でも鮮明に思い出せる。
「こんなものいらない」と叫んだアデラに肩を押されて、俺は川の浅瀬に尻もちをつくように落ちたのだ。
雪が解けたばかりの小川の水は芯から凍りそうなほど冷たかった。
彼女に渡した花は俺と一緒に投げ捨てられて、澄んだ水の上を青い花びらがぷかぷかとまぬけに流れていった。
俺は突き落とされた衝撃で立ち上がることもできず、ぽかんとして彼女を見上げていた。
彼女はどんな顔をしていたのだったか。当時は見えていたはずなのに、その光景を思い浮かべてみても、彼女の表情は影がかかったように思い出せない。
俺が初めて、アデラに花をあげようとした年のことだ。
「色が気に入らなかったのだから、しょうがないじゃない」
今の彼女はどうでもよさそうに下を向いて、煙草の灰を皿に落としている。
「次の年にフレヤと同じ色の花を贈っても、やっぱり文句を言っていた」
「当たり前でしょう。あんな冴えない子と私を同列に扱うなんてあり得ない。あなたはいつもうんざりするほど気が利かなくて、鈍くて、センスがなかった」
アデラは何色の花冠を贈っても文句を言っていた。捨てられまでしたのは初めの一回きりだが。
思えば、俺はアデラから草冠を贈られたことはない。
それなのにどうして俺は、毎年律義に花を贈っていたのだったか。 一つは間違いなく同情だ。彼女はほかの誰にも貰えないだろうから。一つも花冠をつけないで祭に参加するのはあんまり可哀そうだと思ったのだ。
実際、青い花冠を贈った年、彼女が何もつけないで祭の会場に一人佇んでいるのを見かけた覚えがある。
アデラとフレヤは、本当に似ていない。
フレヤは俺のほかにもたくさんの友人知人から花冠を贈られるので、大量のお返しを作るのに毎年苦労していた。
あまりに大変そうなので俺が贈るのをやめようとしたら、俺から貰えるのがうれしいのだと言って顔を真っ赤にしていた事があった。
その言葉通り、フレヤは俺の贈った花をいつも嬉しそうに受け取り、祭りが終わったあとは押し花にしていた。
彼女は今も、村で俺の帰りを待ってくれているだろう。
「それにしても、あなた大学なんて行ったのね。どうせあの村から出ない一生を送るんだから、お勉強なんて意味ないでしょうに」
アデラが唐突に話題を変えた。相変わらず、学ぶことを軽んじているようだ。
彼女は昔から勉強が嫌いで、家庭教師のいうことをよく聞き、真面目に勉強する俺やフレヤを馬鹿にしていた。
どうせ習ったことを使う場面など来ないのだからと、アデラは本を読む俺の邪魔をし、俺は案の定、彼女の遠乗りに何度も付き合わされた。
「村での生活に、大学での勉強が役に立たない訳じゃない。領地での人々の暮らしが俺の肩にかかっているんだ。無学でいていいわけがないだろう」
「へえ、じゃあ、カガクとやらが村の生活に役立つの? ならよかったじゃない。あなた昔っからつまんない学術書ばかり読んでたものね」
彼女が俺の教えた言葉を覚えていたのが意外だった。
そして俺は彼女の言う、化学の学術書の存在を久しぶりに思い出した。鉱物について書かれた本で、昔、俺が貯めた小遣いで買ったものだ。
かつては開き癖がつくほど読んでいたが、今では部屋の隅で埃をかぶっている。
「……いや、大学では経済学を専攻した。そちらのほうが、領地の経営に必要だと思って」
「そうなの。さすが、優等生ね」
アデラは煙草の火を灰皿に押し付けて消した。
「それであなたとあの子は家を継いで、村で穏やかに幸せな一生を送るってわけね。つまらない人生」
「気心の知れた、優しい幼馴染を妻に迎えられて、尊敬する人の義理の息子として跡を継げるんだ。母と妹をつれて、仕事を探して村を出るより、ずっと良い人生だろう」
こんなに言い訳がましい響きになるのならば、反論などしない方が良かったと思った。
◇
ふと、硝子窓の向こうで若い女性が花束を抱えて歩いているのが目に留まった。何かいいことでもあったのかもしれない。その女性はとても幸せそうな顔をしていた。
「……赤が良かったのか?」
「え?」
「花冠の色。君が今着ているドレスみたいな、赤が好きだったのかと思って」
思い返してみると、赤いリリッカの花冠は贈ったことがなかった。アデラに赤は似合わないと思っていたが、本人はああいう色が好きなのかもしれない。
そういえば俺は、彼女の好きな色など知らなかった。
だが予想に反して、アデラは俺の言葉に顔をしかめてみせた。
「バカ言わないで。こんな色、ちっとも好きじゃない」
「じゃあ、なぜそんな色のドレスを着ているんだ」
見れば見るほど、それは彼女に馴染んでいない。彼女はもっと落ち着いた色、さらに言えば、青が一番似合うだろうと感じた。
こんなことを本人に言ったら、俺はまた川に突き落とされるだろうが。
「お客様の一人が贈ってくださったの。君に似合うだろうって」
「お客様?」
耳慣れない響きだ。彼女が誰かに敬称を使うことがあるなど、村にいた頃は思いもしなかった。
彼女はこともなげに
「ええ、私の恋人の一人ってところ」
と頷いた。
恋人の一人。その言葉の不自然さに、俺はなぜか心臓に直接ナイフの切先を突きつけられたような感覚に陥った。
深追いしない方がいいことは薄々感じ取っていたが、尋ねずにはいられなかった。
「……どう言うことだ?」
「だから、毎晩色々な人の恋人になるの、お金で。結構人気なのよ、私」
あっさりと放たれた思いがけない言葉に、時間が止まったように音が遠のく。
一瞬で空気が薄くなったようになり、今まで当たり前に信じていた何かが、音を立てて崩れていくのが分かった。
アデラは言葉を失っている俺の顔をしばらくじっと見つめて、笑った。
「気づいていなかったの? こんな格好で、掃除婦でもしていると思った?」
「違う。ただもっと……」
言いかけて、自分でもなにを伝えたいのか分からなくなり、一度言葉を切った。
「こんな、君はそれで良いのか?」
アデラは何も言わずに笑っていた。狼狽える俺のこと見て楽しんでいるかのようだ。
彼女の思惑通り、俺はしばらくの間要領を得ない言葉を羅列をすることしかできなかった。
だが、頭に浮かんだまま、咄嗟に
「一緒に村に帰ろう。今からでも、お父上に事情を話せばきっと大丈夫だ」
と言った途端、アデラの顔が引きつり、嫌悪の形相を帯びた。
「絶対に嫌。なんなの急に」
「頼むから」
俺は思わず手袋をしているアデラの手を取ったが、すげなく振り払われる。
「……心配しなくても、この街での名前は変えてる。あの家との関わりなんて、もう分かりやしないわよ」
アデラは、俺が婚家の名誉が傷付くのを恐れているとでも思っているらしい。
「そんなことを言ってるんじゃない。ただ俺は……」
喉が詰まったように声が出ない。古ぼけたテーブルの木目を見つめながら、俺は絞り出すように言った。
「俺は、君は村を離れさえすれば、幸せになるのだと思っていた」
なんの根拠もなくそう信じていた。だからこそアデラが突然いなくなった時も、探す必要などないと思ったのだ。
しばらくの間どちらも声を上げなかったが、そのうち、前から彼女の平坦な声が聞こえてきた。
「勘違いしないで欲しいのだけど。私は別に、幸せになるために村を出た訳じゃない。ただ……」
アデラは、いっそ面倒臭そうにため息をついた。
「なにも気づかないあなたの間抜け面を見るのが、耐えられなくなっただけ」
その声は弱々しく、少し前まで辺りを漂っていた煙草の煙と一緒になって、溶けて消えた。
彼女は間抜けというが、昔の俺だって本当は気づいていた。
村の大人たちがアデラを遠巻きにする理由も。
姉である彼女ではなく、妹のフレヤの夫となる者が領地を継ぐ訳も。
なぜアデラの金色の髪や深い青の目が、彼女の家族の誰とも違うのかも。
昔は社交的だったと噂に聞く彼女たちの母親は、今では滅多に人前に姿を現さない。
「あなたが一番嫌がること、言ってあげるわ、エディ」
出し抜けに、カタリと椅子が動く音がした。顔を上げると、アデラが立ち上がり、にっこりと笑っている。
再会してから、今までで一番懐かしさを覚えた。そういえば俺をいじめる時、彼女はいつもこんな顔をしていた。
アデラは突然俺の胸ぐらを掴み、顔を無理やり引き寄せると、耳元に赤い唇を寄せた。
「私、あなたのことがすき」
彼女は呪うように「ずっと」と言った。
「覚えていて」
言うだけ言って、何事もなかったかのように澄ました顔で椅子に座った。
彼女の言葉は、効きの遅い毒みたいに俺の体を巡っていく。
こんなのはフェアじゃない。今、彼女が俺を傷つけたのと同じくらい、俺も彼女を傷つける権利があるはずだ。
そう思った俺は、石になったように重い口を無理やり開いた。
「俺は」
一度声を出すと、口は意外と滑らかに動いた。
「君のことが大嫌いだよ」
煙草の苦さがいまさら移ったように、喉の奥がヒリつく。
「知ってる。だからなんなの」
彼女は鼻で笑った。
俺の決死の抵抗など、彼女にとっては芥子粒ほどの傷にもならないらしい。
アデラと別れ街を出た。
村への帰り道、とりわけ日当たりの良さそうな場所で、リリッカの花の蕾が膨らんでいるのを見つけた。もうじき春が来るだろう。
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