初めてのお仕事はヤクザさんの事務所にこんにちは
小娘トリオだけでは物足りないかもしれませんので、ここはやはり巨大美女を······(笑)
ローマ神話の勝利の女神はヴィクトリアと呼ばれており、同一視されているギリシア神話のニケよりは、こちらの方がメジャーだろう。何せ英語の勝利ヴィクトリーの語源であり、十九世紀のイギリスの高名な女帝のお名前でもある。
だけどウチらにとって姐御の名はやっぱりヴィクトリアではなくニケなのだ。
このたびの訓練終了の報告に、田中社長もといゼウスCEOのもとへと赴く私達メイド・アサシン三人娘を、訓練教官だった姐御が、カツカツと高い足音を立てて先導して行く。
紺のスーツに包まれた、二メートル近いがっちりとした巨体、それでいて優美で完璧なプロポーション、なびく艶やかな黒髪、後ろ姿だけで惚れ惚れさせられるそのたくましき美しさ。背中にあの像の羽根が無いのが不思議ですらある。
そしてその顔。白系ロシア人の血を引くその容姿は、両腕共々首の無いあの像にもしそれがあったなら、間違い無くこの顔と誰もが思うであろう、高貴な端麗さに輝いている。
彼女もケイロン同様、徳川自衛軍特殊部隊の出身である。もちろん年齢はケイロンおじさんが上だが、階級は姐御が上だったそうな。瑞谷先生は年下だけど親友である。彼女の本名は五十嵐夏子。通称ナターシャ五十嵐、瑞谷先生はなっちと呼ぶ(ちなみに先生は彼女からキララっちと呼ばれる)。
その私達が姐御・ニケ様・おねーちゃんと心から慕う彼女が、CEO室のドアの前に立つ。ノックに応じる声が聞こえる。彼女と共に中に入る。
等身大のギリシア彫刻をずらりと壁の両側に並べてみせた、そのただっ広い部屋の奥に、スパルタ・クリーニングサービス(SCS)の「神」が立っていた。
「CEO。メイド・アサシン三人娘訓練終了の報告に参りました」
直立不動の姿勢で姐御が言う。巨大な大理石製の書き物机デスクの前に仁王立ちのCEOは、「御苦労」と鷹揚に頷く。
普通、ハリウッド映画のギリシア神話ものに登場する「ゼウス」は、往年の名優(たとえばロー×ンス・オ×ビエ)が威風堂々髭もじゃ姿で演じるのがパターンである。だが我らが神は比較的若い。髪はふさふさ、髭は角張った顎に少々、威丈夫である。三つ揃いのグレーのスーツに包まれたその身体は、「ゼウス」の名に恥じぬだけの貫禄は充分だった。向かって右のラオコーン像の前で何やらニタニタ笑ってる、アガメムノンのガハハ親父とは格が違う。もっとも、「田中社長っ」と呼ばれた途端、一気にその「威厳」が吹っ飛んでしまいそうな感じも、どこかに漂っているのだが。ちなみにデスクの後ろの向かって左にはミニバー(大酒呑みだそうである)があり、右には個人用の洗面所のドアがある。
ニケの姐御がすっと左に身を引いた(そこにはあの雄々しきニケ像が立っている)。私達はつと前に進み出て、メイド服のスカートの裾を優雅に拡げて一礼し、「完成品」としての姿を我らが神に御覧頂いたのであった。
「うむ。美しい。実に美しい」神は目を細め、満足げに頷かれた。「報告書は読んだし、訓練の模様も視察した。これならもうどこにでも出せるであろうよ」
「しかし、もったいないですなァ」
と、ガハハ親父が「あのひとこと」を口にしたのは、その時の事であったのだ。
「これなら充分、三人揃って吉原にでもどこにでも出せるでしょう。何もアサシン稼業に使わんでも──」
私は無表情のまま、左右の美貴と由美を見た。二人も無表情のまま、ゆっくりとまばたきする。ニケの姐御を見る。姐御も表情を変える事無く、目で頷く。私は静かにアガメムノンの前へと歩み寄る。見守るゼウスCEOも無言のままだ。一人ガハハ親父のみがうろたえている。
「お、おいおい、何だ何だ、俺はただの冗談を──」
私は無言無表情のまま、姐御直伝の「必殺技」を初めて使った。「睾丸蹴り」を。
もちろん手加減してやった。潰さぬ程度には。だがその背後で蛇に全身を締めつけられ、苦悶の限りを尽くしているラオコーン像の姿そのままに、アガメムノンは股間を押さえて床に崩れ、唸り声を上げてのたうち回るのであった。
それを冷ややかに眺めていたゼウスCEOが、またベタなひとことを口にしたのだ。
「スパルタに下品な男は不要だ」
姐御はすんっとドン引き。
ウチら三人娘はぽかーん。
ガハハ親父はのたうち続ける。
そして我らが神は口をへの字に曲げたまま、足早に隅の個人用洗面所へと入り、ドアを閉め、そして大爆笑されたのであった。
······社長の部屋からの退室が許され(親父はまだのたうっていた)、私達はしばし無言で廊下を歩いた。やがて私は美貴に言った。
「ねえかっちん。田中社長って、あんたと話、合うのと違う」
「論外」
と、カサンドラ美貴。
「一人受け」
と、メドゥサ由美。
「まーほんっとに親父共ってしょーがないわよねェッ」
社長も内務班も恐れるに足りぬ姐御は、大声でそう言いながら足を止め、振り向いて、私達をまとめて抱え込んだ。
「私はもうじき海外に出る。そうなるとあんたらをかばってやる事はできなくなる。気をつけんだよ。特に佳代」姐御は私の頭に手を置いた。「あんた、あの親父の怨みを完全に買ったんだから。仕返しは覚悟の上ね?」
「当然です」私は胸を張る。「矢でも鉄砲でも何でも来いですっ」
「よし、良く言った」
姐御はそう言うなり私を抱きしめ、頬ずりし、髪の毛をくしゃくしゃにするのであった。脇でかっちんとめっちんが指をくわえ、うらやましそーな顔して突っ立っている。ごめんねー、二人共。
数日後、その「矢でも鉄砲でも」が早々にやって来た。さすがに私の単独派遣連発はまだ先の話だったが、我らメイド・アサシン三人娘はサイテー上司アガメムノンより、都内のある暴力団事務所を訪問し、中を丸ごと「清掃」せよ、との命令を受けたのである。
未成年者女子アサシンの初仕事に暴力団事務所ってちょっとォーと言いたくもなるが、親の因果が子に報い、重きは借金でございます。
という訳で私達は「スパルタ・クリーニングサービス」のロゴ入りワゴン車に乗って目的地に赴くのであった。後部座席で私達は黙々と装備点検を行なっている。私達のメイド服というのは相手を油断させるのが第一目的であるから(コミケの写真撮影の為のコスプレではないのだ!)、私はエプロンの下に脇差を、美貴はスカートの下にモーゼルを(予備の小型モーゼルは懐ろだけど)、由美は袖口に投げナイフを、各々隠し持っている。これらを電光石火の速度で取り出し、敵を倒さなくてはならない。ああ大変。
運転しているのはニケの姐御。助手席にいるのは「監督役」(笑)のアガメムノンの親父である。その白髪混じりの後頭部に目をやると、何気に振り向いてこちらを見よう、あるいはバックミラーに視線を走らせようとするたびに、姐御の鋭い一瞥に阻まれているのが見え見えだ。まったくガハハの上にすけべの親父なんてサイテーのサイアクよっ。ま、未だにうずく股間を意識しながら、小娘め今に見とれよとはらわた煮えくり返らせながらの事だろうけどさ。
「目的地まであと五分」姐御が言った。「お前達、準備はいいか」
「はーい」
私達はそう答えた。やっぱり遠足気分だ。私達どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。女の子三人で、ヤクザの事務所に殴り込もうっていうのに。
ともあれ、私は初めて例の「儀式」を執り行なう事とした。エウリピデス作「バッコスの信女」の合唱隊の歌の一節(作曲・カサンドラ美貴。ちゃんと明記してあげたからねっ)を口ずさむ。
いざ行け山へ
足早き狂乱の犬よ
カドモスの娘らが
講を組み
バッコスの祭を
祝える山へ
ほどなく目的地に到着し、私達は「任侠八ツ崎会」なる看板を掲げた暴力団事務所前に降り立った。
「無理するな。駄目だと思ったらすぐ逃げるんだぞ」
隣で苦い表情の「監督役」を完全に無視して、姐御が心配顔で言ってくれた。私達は笑顔で手を振ってこれに応じた。
その満面の笑顔のまま、私達メイド三人娘は暴力団事務所の正面玄関から堂々と中に乗り込んで行ったのだった。
中にいた、十数人の恐いおじさんお兄さん達がぽかんとしている前で、私は言った。
「こんにちは! スパルタ・クリーニングサービスでございます。こちらの暴力団事務所の清掃作業にうかがいましたァ!」
「おいおい何言ってんだいこの姉ちゃんは」
「何が清掃だよ。聞いてねえぞ」
「いきなり押しかけて来やがって、掃除の押し売りかよ」
「ここをどこだと思ってやがる」
ヤクザ屋さん達が口々にそう言い、中でも脂ぎった、ガハハ親父風なのが、いやらしいしぐさと共にこうおっしゃった。
「おお、それじゃとりあえず、洗ってもらおうかい、まずこの俺様の(後略)」
ヤクザ屋さん達はどっと笑い、私達も笑顔のままである。そしてサングラスを掛けた、パンチパーマのお兄さんが、ニタニタと下卑た笑いを浮かべながら私に近寄り、犬のようにクンクンと私のメイド服の匂いをかぎながら、こう言った。
「おう姉ちゃん達。ちょっと奥に来な。掃除なんぞよりもっと楽しい事──」
私の右膝頭がお兄さんの股間に決まると同時に、美貴が両手に大小モーゼル、由美が投げナイフ、そして私は特製拳銃ライラプスと妖刀村正脇差を右と左に構えた。
「な、何だてめェ!」
「この野郎!!」
さすがはプロのヤクザ屋さん達、条件反射的とも言える一斉動作で、ヤッパやらハジキやらを繰り出してくれたので、私達も安心して火ぶたを切る事ができました。一方的な虐殺なんてぜったいやりたくないもんね。
次の瞬間、銃声、怒号、斬撃音、絶叫が渦を巻き、事務所内はたちまち血風呂状態、ほどなくその場に立っているのは私達血だるまメイド・アサシン三人娘のみという有り様。
床一面に転がっているヤクザ屋さん達の屍を前に、我が畏友カサンドラ美貴は、右手のモーゼルの銃口よりたなびく硝煙をフッと吹いてのたまわった。
「寝ぬるに尸せずってね。死体のように寝ちゃならないと、孔子様もおっしゃってるわ」
「ハイハイ判りましたから」
「帰ろ」
事務所から五分も経たぬうちに、何事も無かったかの如く平然と出て来た私達三人娘を見て、アガメムノンの親父は息を呑み、こうつぶやいたそうである。
「こいつァ使えるっ」
この「使える」には二重の意味がある。
ひとつは私達が得物を自在に使えて有能かつまるで動じない、ほとんど生まれついてのアサシンである事。
もうひとつは自分達の道具としてそれこそ「使える」という事。
それから数年。私達は使われ続けている。
その日。私達はアガメムノンではなく、ゼウスCEOの部屋に呼ばれた。本組織の神直々のお呼び出しである。ただ事ではない。
「何だろう」
「いよいよ薩長とのガチンコかなぁ」
「とにかく行こ」
私達は平静を装って(昔からこれだけは得意なのだ)CEOの部屋に赴いた。久々のその部屋に入ってみると「神」はデスクの向こうに鎮座されており、向かって左の「ミロのヴィーナス」像(これって本来アフロディテ像と呼ぶべきだと思うんだけど、誰もそう呼ばないのよね)の前に、むっつりした表情のアガメムノンが突っ立っている。反対側のラオコーン像の前に立って私を見ると、あの日の屈辱と痛みが生々しく蘇ってしまうとみえる。バカバーカ。
それにしてもこの部屋に来るたびにこれらの彫刻、よくまあ集めた(作らせた)ものだと感心する。私も一応趣味で絵を描く人間だから(私のイラストは可愛いとネットで評判なのだ。にっひひーっ)、これらについての基礎知識は持ち合わせているのだが、細部に至るまでその再現度は極めて高く、素材はおそらく人造だろうけど大理石。全部レプリカとはいえ、相当お金をかけなければ、これだけのコレクションを揃えるのは不可能だ。
私達の稼ぎも随分これらに貢献しているのかもしれないが(初めて訪れた時より五、六体は増えている)、それなら私達の親の借金を早く清算して欲しいと思うのは当然だろう。
だが私達の社員用スマホにメールで経理部(かまどの神様なのだ)より送られて来る給料明細によって、今月分の給料よりしっかりこれだけ返済分が差し引かれましたと通知される仕組みであり、私達にはどうにもならないようになっている(仕事柄裁判沙汰もまずいのだ。足元見られてるという訳)。
これはそもそも私達が物心つく前に、顔も知らない債権者と当社CEOが取り決めた契約に基づくものであって、私達の意向など全く反映されていないのだ。
だけど差し引かれたその「残額」というのが、寮生活で衣食住保証されている身分としては、結構な額の「お小遣い」なのである。これも全額返済に回せば多少は清算期間を短縮できるのだが、さすがにそれをやる気にはなれない。どっかの細目のおじさんみたく、フリーで巨額報酬のアサシンやってるならいざ知らず、私達三人娘は生まれついての「組織人」なのである。
その枠からはみ出さず、自由にできる事。それは趣味しかない。私達の趣味については既に何度か触れているが、趣味とは金のかかるものなのである。とりわけかっちん美貴の······いやこの話はいずれまた。
とにもかくにもこのへんは、私達をぎりっぎりまで働かせたい田中社長いやゼウスCEOの露骨極まる「アメとムチ」なのは見え見えなのだが、ま、そういう訳で、ウチら三人、そっちの方ではわりと自由にやらせてもらってます。だけど今は仕事の話だ。
その前に彫刻の話にちょっと戻る。ゼウスCEOの席の両側に新しい像が置かれていて、向かって右隣が「ガニュメデゥスとゼウス」。これはトロイアの美少年ガニュメデゥス王子を自分の酌人として獲得し(それって誘拐じゃないのさっ)、得意満面で右腕に王子を抱え、オリュンポスへと駆けて行く両刀使いのすけべ親父ゼウスを描いたもの。木星の第三衛星の名はガニメデで、ゼウス即ち木星ジュピターというイメージは実に荘厳な美しさだけど、この像のゼウスときたら口元はよだれを垂らさんばかりに緩んでて、ほんとその本性が丸出し。まあ生身のゼウスの隣に彫刻のゼウスだからこれは判る。
それで向かって左隣、つまりミニバーの手前に立っているのが、パンチパーマで素っ裸のお兄さんが酒杯片手にべろんべろんってこれ我が主神バッコスことディオニッソスの像じゃん。しかもかの有名なミケランジェロの。
古代ギリシア彫刻の中にルネサンス期の物を平気で混ぜちゃうんだから、やっぱ田中社長って節操無いなァって思ってしまうんだけど、でもどうしてディオニッソスなんだろ。何か意味あんのかしらん。ま、余談はこのくらいにしてと。
ところでこの部屋にはいわゆる応接セットが見当たらない。よって私達はゼウスCEOのギリシア神殿風デザインの大理石製デスクの前に突っ立って「神の声」を聞かなければならない訳である。偉くなるって凄い事なんですねぇ。やれやれ。
「良く来てくれたね。我が社の誇るメイド・アサシン──本家・本元・元祖の三人娘よ」
あーそういえばその言い方今もしてんの、言い出しっぺのこの人だけだなー。結局社内じゃ流行んなかったし。語呂悪いもんね。
豪華な革張りチェアにふんぞり返り、臭いのきっついハバナ葉巻などふかしながら、我らの神はそう言って、間を置いた。あーもしかしてアレかなー、言うのかなー、言うのかなー、ちょっとやめてよー、カンベンしてよー、そう思っていたら、やっぱり言っちゃったのである。
「フッフッフッ、会いたかったよ、メイドの諸君」
そしてまた一人トイレに駆け込んで大爆笑なさるのであった。
アガメムノンは額を押さえて溜め息をつき、この時ばかりは私達も親父といっしょに「はあーっ」とするしかなかったのである。
ほどなく、何事も無かったかのように我らの神は戻って来て、灰皿(古代ギリシア陶器風)に置いた葉巻を再び手に取り、立ったまま私達に向かってこう言った。
「今回、君達には富士の裾野に行ってもらう」
「は」
「富士の裾野」
「ですか」
目を点にしている私達に頷きかけながら、ゼウスはチェアに腰かけ、葉巻をくわえながら言葉を続ける。
「今回の依頼主は徳川政府だ。わざわざCEOの私が君達に命じるのはそういう訳なのだ。と言っても相手は薩長ではない。いわば外来種だ。君達の仕事はその駆除なのだ。まあ、詳しい話は、私に不要と言われながらもなぜかまだそこにいるその男に聞きたまえ。私からは以上だ。下がって良し」
「相変わらず社長······いや、CEOは冗談がきつい」
こめかみに青筋立てて赤面しながら、引きつる笑みを懸命に浮かべてみせて、応接セットの向かいの席でアガメムノンは言った。
彼の部屋のソファに並んで腰かけている私達は、何やらいつになくしんみりしている。サイテー上司の上にはサイアク社長。このおっさんも苦労が絶えないのだ。中間管理職は辛かろう。その頭に無能と付くのが残念でならない。
アガメムノンは咳払いをしながら、ホチキス留めの資料を私達に手渡した。そこにある今回の仕事の対象について、彼は私達に尋ねた。
「『神々の黄昏教』という新興宗教について、何か耳にした事はあるかね?」
「はいっ」
と右隣のおしゃべりかっちんが手を上げると同時に、物凄い勢いで「説明」を始めたのであった。
「北欧神話の主神ヴォータンを崇める宗教団体でして、ここ数年急激に勢力を拡大し、信者数が増加しています。ですが宗教法人というのはあくまで隠れ蓑、その実体はかつて全世界を世界大戦の焔の中に投げ入れた、ドイツ国粋主義陶酔党即ちナルシス・ドイツの残党の一派つまりネオ・ナルの一味であるというもっぱらの噂で、その中核にいるのがかのアドリブ・ヒッキー総統の四代目を自称するそっくりさんなんですが、公の場に姿を見せた事はまだありません。そもそも『神々の黄昏』というのは当のヒッキー総統が少年期より傾倒しその音楽を大いに自身と党のプロパガンダに利用した事でも知られる十九世紀のドイツの大作曲家リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』の第三夜のタイトルでこれは全体四部作の序夜が『ラインの黄金』第一夜『ワルキューレ』第二夜『ジークフリート』そして第三夜で終幕という訳で全曲上演には丸四日ぶっ通しで聴けば約十五時間かかるというとんでもない代物でしてストーリーをかいつまんで説明しますと北欧神話の神々キャラがギリシアのそれ並みにわがまま勝手な野郎ばっかでこれにドイツの伝説をちゃんぽんにしてかのトールキンの『指輪物語』にも多大な影響を与えたと言われるワーグナー独自の波乱万丈というかハチャメチャな展開がうぐぐぐーっ」
めっちがもがくかっちんの腕と胴を抱え込み、私が柔道の締め技で落として、美貴のハチャメチャなおしゃべりをようやく止めた。
アガメムノンは頭を抱えて呻いている。
白目を剥いている美貴をソファの背にもたれさせ、私は尋ねた。
「──で、その宗教もどきの団体様が、富士の裾野に巣喰って悪だくみをしているという訳ですね?」
「そ、その通りなのだ」アガメムノンは気を取り直し、顔を上げた。「富士の裾野の一角、しかも事もあろうに徳川自衛軍演習場の目と鼻の先の敷地を買い上げ、『教団施設』を建設したのだ。刑務所のように高い塀で囲まれた施設は外界からほぼ遮断され、中はほとんど悪の組織の秘密基地と化しておるようなのだ」
私と由美は顔を見合わせた。
「昔の特撮ドラマみたいだね」
「怪人とか出そう」
「かっちんが気絶してるうちに話を聞いとこう」
「うん」
私はアガメムノンに向き直った。
「でもどうしてそんな右曲がりドイツ野郎がこの日本に?」
「これまで拠点として来た南米でもいろいろと規制が厳しくなって、思うような活動ができなくなったらしいのだ。そこで今の国情不安、東西分裂米軍基地の三すくみ状態日本に目をつけたという訳なのだ」
「ほらまた三すくみだ」
私はそうつぶやき、由美は無言でかぶりを振る。
その時、右隣のうるさいのが目を覚ましてしまい、さっそく私の首を締めにかかった。
「こらびーびー! よくもアタシを締め落としてくれたわねーッ!」
「だづでアンダのぼーぞーをどめるにはあれじがでがうぐぐぐーッ」
「暴走とは何だ! アタシはおっさんの質問に答えて説明を加えただけ──」
「そのおっさんというのは私の事かね、カサンドラ君?」
さすがに憮然として当のおっさんがそう言うと、かっちんは慌てて私の首から手を離してかしこまった。
「と、とんでもございません、アガメムノン、敬愛する上司に向かってわたくし決してそのような、これからは是非おじさまァと呼ばせて──」
「判った判った。もういい、君らのそういうところにいちいち腹を立てていたのでは、脳の血管が何本あっても足りんわい。話を続けるぞ」
私は美貴と視線を交わす。
(決着は今夜)
(パジャマ・レスリング。了解)
「あー頭脳明晰な君達には釈迦に説法かもしれんが、この国は戦前戦中、徳川政府による戦時体制の強化過程で、国民の信教の自由を妨げ、事実上の宗教弾圧となる事が少なくなかったのだ」
「はいっ」とまた美貴が手を上げた。「ところが敗戦によって流れは一変、信教の自由は前提条件となり、基本的に宗教を信仰する人は皆善人という能天気極まる性善説を根拠として一般企業と違い営利目的で運営されるものではない以上所得税の対象とはならず宗教法人は課税を免れるのですが当然それをいい事にして露骨な献金の強制やらまがいと言うより詐欺そのものの商法によってもうける罰当たりかつ人間性悪説の証明になるような団体の事案事件が続出うぐぐぐーっ」
美貴の口と胴をまた二人がかりで押さえつけながら、私は言った。
「聞いてますから話を続けて下さい!」
「う、うむ。この『神々の黄昏教』もそうした団体の典型だったのだが、富士の裾野において教団施設を設営後、表立った布教活動は影を潜め、ひたすら塀の中に引き籠って何やら企んでいる様子なのだ。信者を装い潜入した警視庁の捜査員の報告によると、どうやら地下工場にて旧ドイツ軍の武器兵器のコピー品を大量生産し、国内外で獲得した信者らに戦闘訓練をさせ、実戦行動を画策しているとの事なのだ」
「旧ドイツ軍の武器兵器ーッ!」
かっちん美貴が私達の手を振りほどいて叫んだ。
「それってモーゼルはもちろんですけどルガーやワルサーやシュマイザーやパンツァー・シュレックにファウストとか、それとも、まさかまさか、ラインメタル社の機関砲とかぐはッ」
私はたまりかね、美貴の首筋に手刀を叩き込んで黙らせた。気絶した美貴を膝の上に抱き、私は言った。
「失礼しました。話を続けて下さい」
「なな何とかならんのかねこの娘は」
辟易した表情でアガメムノンは言った。私は意識を失った美貴の顔を見つめて嘆息する。
「私達も困ってるんですけどねー」
「だけど本人も悩んでるの。コントロールが自分でも利かないって」
由美がぽつりとそう言った。私は驚いた。
「そうなの?」
「うん」
知らなかった。こんなに長いつきあいなのに。
「何で由美がそれ知ってて私は知らないのよぉ」
「佳代っちに弱み見せたくないって。瑞谷先生にも相談してる。でも先生、守秘義務あるから」
「何よ何よ。水臭いじゃないのよぅ。美貴ったらぁ」私はべそをかきながら美貴を抱きしめた。「もうバカバカ。美貴のバカァ」
「あのー······」
アガメムノンが頭を抱え込んでいる。私は慌てて美貴の頬をぺちぺちと叩いた。
「美貴美貴。かっちん。カサンドラ。四条畷さん。大丈夫? しっかりして」
自分で気絶させといてしっかりしてもないだろうと我ながら思うけど。
「うーん」
美貴の切れ長の美しい目がぱちりと開いた。
「あれ? 佳代? 由美? 私どうしたの?」
良かった。覚えてない。
「仕事の説明受けてたとこよ。あんた、旧ドイツ軍の武器兵器って聞いただけで、コーフンして気絶しちゃうんだもん」
「そうだった? なんかこのへん痛いんだけど······」
美貴はそう言いながら首筋をさする。私と由美はぷるぷると首を横に振る。
「何でもない何でもない」
「えーよろしいかな」
アガメムノンが説明を再開した。
「潜入捜査員の報告によれば、旧ドイツ軍の武器兵器をバラバラの状態で輸入して税関をくぐり抜けさせ、秘密基地の地下工場でそれらを元に部品を製造、組み立てておるらしい」
「税関もザル状態か。情けなや」
政治は混乱、経済は低迷、治安は悪化、まだ暴動が起きていないのが不思議なくらいだ(国民全体が三すくみで萎縮しているからというのが一番もっともらしい説明だけど)。日本は一体どうなっちゃうのだろう。
「骨董品がオリジナルのコピー品となると、性能の方はどうなんですか?」
と、かっちんがやっとまともな質問を口にする。
「そりゃ現役時代のオリジナルのそれとは比較にならんだろうが、一応殺傷能力はあるようだ。だが暴発とか不発とか爆発とか、使う者にとっても危険物らしい」
「それを大量生産」
と、めっちんがつぶやく。
「施設内ではヘリやドローンによる偵察を警戒し、巨大な『体育館』を建設して、訓練はもっぱらその中でやっとるらしい。射撃訓練は地下の射撃場だ。まあ今や東西分裂の自衛軍たるや、ちょっと大規模な演習などやろうものなら、すわ開戦準備かと、互いに神経ピリピリさせてろくに空砲すら撃てず、陸兵は木銃振りかざして口でバンバン叫んでる有り様だ。連中は目の前の演習場のそんな光景をあざ笑い、この状況につけ込んで力を蓄え、機をうかがっておるらしい」
「あのー、先程『実戦行動』とおっしゃってましたけど」と私が尋ねる。「それっていわゆる武力蜂起、クーデターの事ですよね。連中の狙いというのは、日本国の政権の武力奪取、という事でよろしいんでしょうか」
アガメムノンはかぶりを振った。
「連中にとって日本の征服というのはあくまで序ノ口だ。ああした悪の組織の最終目標というのは、いつの時代にも君、世界征服、だよ」
私達三人はずーっと脱力する。
「い、今どき」
「世界」
「征服」
「ほらあの、動かないアニメ」
「『×の爪』」
「そう、それ」
「君らがそうして脱力するのは良く判る」いつになく真摯な(たまにはこういう顔もするんだ)表情のアガメムノンは言った。「だが連中は大真面目にそれを企てておるのだ。ナルシス・ドイツの復活による世界征服の狼煙のろしをこの極東の地より上げるのだとな。現在の三すくみ日本において、軍はおろか警察すら満足に動く事ができない状況下で、妙な騒ぎを起こされたらどんな事態に発展してしまうか、誰にも予想はつかんのだ。それはたとえて言うなら、いつ割れるか判らない薄い氷の上を、みんなでそろそろ歩いているところに、どっかの馬鹿者が爆竹に火を着けて放り込んだらどんな事になるか、考えてみたまえ」
「うーん」
「それは」
「悲惨」
「潜入捜査員──彼は正体がバレそうになって、先日ようやく脱出に成功したそうなのだが、その報告によれば、現在の連中の軍隊としての練度は、良く言っても兵隊ごっこの段階で、世界征服の戦力としてはお粗末なものだが、テロ組織として見れば充分な社会的脅威であり、内外のネオ・ナルグループも支援に力を注いでおるようだし、やはりこれは今のうちに潰さねばならん。今回の君達の仕事というのは日本のみならず、世界をかつての悪夢の再現から救う事だと言っても、決して過言ではないのだ。違うかねっ」
アガメムノンがそうやって熱弁を振るい、私達も珍しくこの「サイテー上司」に共感し、今回は気合い入れてやらなきゃダメだなー、そう思いかけた時、
「ひとつ、質問」
と、珍しく由美が手を上げた。
「何かな、メドゥサ」
「兵隊ごっこをやってるのは信者として、地下工場で武器作ってる人達は、どうなんですか?」
「ああ、それか」
アガメムノンは肩をすくめ、大した事ではないと言わんばかりに、こう続けたのであった。
「最近下町の金属加工業者──板金・ネジ・スプリングの類いだな、それと服飾加工の工員が、次々と行方不明になっとるそうだ。どうやら教団の連中が拉致して、無理矢理働かせているらしいので、潜入捜査員を送り込んでみたら、推測通り──」
「それを先に言って下さいッ!!」
私達は真っ青になって立ち上がり、一斉に叫んだ。
「その気の毒なおじさんおばさん達の救出こそが最優先じゃないですか!」
「政府はその人達を見殺しにする気ですか!」
「警察は何て言ってるんです!?」
「あ、い、いや、そのー」
私達の剣幕にアガメムノンは動揺した。動揺するなッ!
「んー、まあ、け、警察はもちろん、救出したいらしいのだが、実力行使は我々SCS任せという事で、上層部としてはメンツがらみで、なかなか言い出しにくいみたいでな、我々としても、まあその、何と言うか、そもそもアサシン組織にだな、そうしたヒューマニズムを求めるというのは、八百屋に行って豚肉をくれと、言うようなもので、大体人質の救出とか、人名救助などというのは、はなからそのー、我々の仕事では──」
私達はついさっきまで、珍しくこのおっさんに多少は感じていた、同情とか共感といった感情が、瞬間的に雲散霧消するのを覚えた。やはり、こういう奴だったのだ。
私は無表情に言った。
「ではこうして下さい。警察は救出チームを編成し、教団施設付近に待機。私達は陽動に徹し、上で暴れに暴れている間、潜入捜査をしていた人がチームを先導、地下工場で働かされている人々を救出する。これなら警察もメンツを潰さずに済むでしょう?」
「かたやメンツに体裁、こなた無関心ときたもんだ」
カサンドラ美貴は冷たくそう言いながらかぶりを振る。
「ひとでなし」
メドゥサ由美がアガメムノンを睨みつけ、低くつぶやく。おっさんは真っ青だ。
「お、おいっ、その目で睨まんでくれ、息が詰まるッ、わ、判った、警察にはその旨、こちらから正式に、その、『要請』する、それでいいな?」
「結構です」
私は冷ややかに頷いた。
「もうひとつ」
テーブルの上の資料を取り上げ、それに目を落としつつ美貴が尋ねる。
「教団の武装信者の数はこれによれば数百名に及ぶようです。いくら私達メイド・アサシン三人娘は天下無敵と威張ったところで、あまりと言えば多勢に無勢、しかも相手はコスプレにレプリカのセットとはいえ、現実武装の兵隊もどき。ウチらは特攻隊ですか?」
「そ、そんな事はないぞ。もちろん助っ人は付ける。君ら三人だけで戦わせたりするものかね」
サイアク社長から何度も不要と言われたくないサイテー上司は必死だ。
「ケイロンですか?」
「ケイロンも行く。だがもう一人、君らが泣いて喜ぶ者を付けよう」
アガメムノンはテーブルの隅のボタンを押した。同時に聞き覚えのあるカツカツという足音が聞こえ、次の瞬間、ノックもせずに扉が勢い良くバーンと開いて、硝煙の臭いが染み付いた野戦服を巨体にまとい、流れる黒髪を背になびかせ、端麗な顔にジャングルでの苦闘の跡を残した勝利の女神ニケ──ナターシャ五十嵐が飛び込んで来た。
「姐御!」
「ニケ様!」
「おねーちゃん!」
私達は一斉にそう叫んだ。
「おーっ、お前達、生きとったかーッ!!」
五十嵐夏子の姐御もまたそう叫び、声を上げて泣きながら抱き着く私達三人を、ひとまとめにして思い切り抱きしめるのであった。今回はここまでっ。
派手なアクションはもう少し先です。すみません。