院長センセこんにちはーそいでもってさよならーっ
という訳で、三人称の、洒落にならない回でございます。
波の音が聞こえる。全身がゆらゆらと、波間に漂っているようだ。
夢を見ていた。
死んだ妻がまたヒスを起こし、何やらきいきい喚いている。ああうるさい。政略結婚でやむ無く一緒になっただけの、気の利かない、わがままな、可愛げの無い女だった。交通事故で死んでくれた時は、真底ほっとしたものだったが、あれは暗殺した訳ではない。
もっとも、SCSの事実上の幹部になった時、あの女がまだ生きていたならば、真っ先にゼウスの奴に依頼した事だろう。とりあえず、うちのやかましい山の神を始末してくれ、と。
綺羅々。両親を突然の「事故」で失い、悲嘆に暮れている幼い少女を、半ば強引に養女として引き取った。別に同情とか、いわんや罪悪感などというものではない。両親は優秀な医師だった。子にもその優秀さは遺伝している可能性は高い。将来的に手駒として使えるかもしれん。そう考えた。何事も計算と合理性がモットーなのだ。それで厳しく育てた。愛情などという無駄なものは初めから無かった。これは彼女の方も同様だった。お養父さん。そう呼ぶ時は、いつもひどくぎこちなかった。
確かに、他の親戚を押しのけて、御両親とは親友だった、今日からは私が君のお父さんだ、一面識も無い相手からいきなりそう言われ、一緒に暮らすようになってからも、ほとんど両親の話をしない(知らないのだから当然だが)男を、父として慕うなど、無理な話なのは百も承知だ。だが他に選択の余地が無かった彼女は、そんな状況にもかかわらず、見込み通りの頭脳の優秀さを示した。
今は病院々長として多忙だが、いずれは遺伝子研究所を再建するつもりでおり、その時は彼女を幹部起用する予定だった。ところが彼女がそちらを選ばず、実父母同様医師の道を志すと知り、その初めての反抗に激怒した。結果、精神医学を専攻し、アポロン病院に就職させる事で、折り合いをつけた。形こそ違うが、結局は、手駒には出来た訳で、良しとするか。
三人娘。おゝ。我が最高の傑作よ。その可憐な容姿。愛くるしいしぐさ、声。驚異的な身体能力、知性、芸術的才能。優しくも強い性格。全てが完璧。素晴らしい。
え。ちょっと待て。お前達。何をする気だ。何を手にしておる。日本刀。拳銃。ナイフって。お、おい。こっち来るなっ。綺羅々。何をしておる。見てないで早く止めろ。私はお前達をそんな娘に──
目が覚めた。座らされている。右手首に違和感。手錠。何だこれは。
愕然として顔を上げたプルトン──浦之巣史朗は、自分が船の上にいる事に気がついた。周囲は暗い。夜だ。月明かりが窓から差し込んでいる。
「ここは──」
見覚えがある。ゼウス──いや、武田口の奴の個人所有の中型クルーズ船「ヘレネ号」のブリッジだ。浦之巣は一人、船長の席に座らされていた。右手を舵輪に手錠でつながれて。
自分がどうしてここにいるのか理解できず、浦之巣は左手を額に当てて考え込んだ。
次第に記憶が蘇って来た。綺羅々達の突然の失踪。三人娘の「叛逆」宣言。武田口との衝突。変装。おどおど、こそこそ、表に出た途端、小学生、中学生に変装した三人娘が、あっという間に襲って来て、押し込まれたタクシーの運転手は、ケイロンの野郎で、びーびーの奴が、満面の笑顔で、
「ハイちょっとまたチクッとしますよーッ」
左の首筋に、注射針。し、消毒もせんで、麻酔薬を。なな、何という事を。こんな老人を、拉致監禁し、おまけに手錠でつなぐとは何事だ。け、けしからん小娘共だ。ど、どこにおる。どこに行ったのだ。
名状し難い怒りと恐怖に襲われた浦之巣は、がたがたと全身を震わせるのであった。
その時、下のメインデッキ(何度か乱痴気パーティーをやった)につながるラッタルより、足音と少女達の声が聞こえて来た。
「あーあ、ひどいもんよねぇ。別に同情には及ばないけどさぁ。露骨に痕跡、残ってるんだもんなぁ」
「今頃あのおっさん、東京湾のヘドロの中ね、きっと」
「無惨」
メイド・アサシン三人娘が、月明かりの中に現れた。
「あら院長さん。お目覚めですか」
「トイレに行きたいんなら、連れてきますよ。今のうちです」
「ん」
「ふふふざけるなっ。こここれは一体、どういうつもりだッ!」
三人娘はそれには答えず、ラッタルの方に振り向いて呼びかけた。
「先生ー、院長さんお目覚めでーす」
しばらく間を置いて、ゆっくりと無言のままブリッジに上がって来たのが、黒のスーツを細い身にまとった瑞谷綺羅々であった。その表情はやつれ、憔悴している。三人娘は綺羅々を船長席の横、来客用のソファへと導き、自分達はその横に並んで立った。浦之巣は彼らに向かい、舵輪に手錠でつながれたまま、身体を回す。
「······どうも、院長先生。こんな目に遇わせてしまって、申し訳無く思ってますわ」
綺羅々が小さな声でそう言うと、浦之巣は虚勢を張って、手錠をガチャガチャさせながらこう応じた。
「本当にそう思っておるのなら、さっさとこいつを外したらどうなんだ、え、綺羅々!」
うつ向く綺羅々の代わりに三人娘が答える。
「ごめんなさいねー、院長さん。それはちょっと、できかねまーす」
「それにさー、あんまし偉そーな態度、取らない方がよろしいんじゃ、ございませんこと?」
「結果はおんなじだけど」
三人娘の言葉に浦之巣は凍りつく。
「わ、わ、私を殺す気か。アガメムノンの──馬崎のように!」
「私達は殺してませんよぅ」
「殺ったのは院長さんのお友達でーす」
「そ」
「同じ事ではないか。人のせいにするな人のせいに。私はお前達をそんな娘に」
「作った覚えは無い、と」
「まーその件でちょっとお話が」
「うん」
綺羅々が顔を上げた。
「······院長先生。この子達の事で、うかがいたいんです。まず──この子達の外見上の成長が、数年前から止まってるんです。一夜夢見る事無く爆睡で疲労感にストレスはほぼ解消、トラウマも無しという、うらやましいメンタリティもそうだと思いますけど、これもプログラミングされたんでしょうか、遺伝子操作で?」
「な、何だ、その事か」少し希望を持って、浦之巣は答えた。「当然、そうだ。君達は成長というより、老化のスピードが遅いのだよ。不老不死というのはさすがに無理だが、君達は普通人の数倍は、その若く美しい可憐な容姿のままで送れるのだ。どうかね。素晴らしいとは思わんかね。全てはこの私の指示によるもの──」
浦之巣のドヤ顔は三人娘の冷たい視線により凍りついた。
「······つまり、ウチらはこのまま何年も、『大人』になれないって事ですよねぇ」
「私は一刻も早く、大人の女性に、絶世の美女、傾国の女と、男共から称えられたいのにィ!」
「私、小学生に間違われ続けるんだ、ずっと」
「あ」
浦之巣は己の勘違いを悟り、青くなった。ま、まずい。いつまでも可愛いまんまというのは、本人達にとって決して望ましい事ではなかったのだ。ううむ。いや待て。まだ手はあるぞ。
「そ、そうか。君達が年齢相応に老けたい、もといっ、成熟した女性になりたいと言うのであれば、特殊なホルモンの投与によってそれは可能なのだ。ただその調合には君達の特殊な体質のデータに基づく慎重な配慮が必要となる。誰でも出来るという訳ではないのだ。その最適任者がこの私という訳なのだっ」
これで私を殺す訳にはいかなくなった。やれやれ、一安心──と思いきや、三人娘の彼を見る目は一層冷たくなるのであった。
「若いまんまも老けるのも自由自在ですってー、素晴らしいですわねー四条畷さん」
「まさに人類の理想の実現ですわねー壇ノ浦さん。ま。この件につきましては、瑞谷先生に、専門のお医者さん達と、じっくり話し合って決めたいわねぇ。だけど、ねえ、求塚さん」
メドゥサ由美が浦之巣を睨みつけ、低い声で言った。
「······あんたにだけは、やってもらいたくない」
「ひ」
声帯が強張り、呻き声しか出せなくなった浦之巣に、綺羅々が言った。
「SCSの前身組織のアルペイオスが、あなたの研究所を破壊した時、その呪わしい研究成果の大半は、焔の中に消えて行きました。この子達を生かす為の、最低限のデータを除いて。ですが、あなたの犯罪の記録を、後世への警告の意味で、クロノスは残していたのです。アポロン病院の地下資料室に潜入したケイロン──西村少尉ですわね。彼がそのデータを見つけ、コピーに成功したのは、比較的最近の事でした」
綺羅々は顔を片手で覆い、震える声でつぶやく。
「······研究所地下保管庫の画像データ。無数の実験動物達、そして人体の標本──あなたからすればただの『失敗作』でも、この子達にとってはお兄さん、お姉さんに当たる、ホルマリン浸けの胎児達──みんな、本当に、悪夢に見るような、恐ろしい姿だった······」
三人娘は綺羅々の震える肩に手をかけ、言った。
「ウチら無理言って見せてもらったんだよねー、それ」
「覚悟はしてたんだけどねー」
「吐いた」
「それと······動物達と、胎児の段階で処分された子達も、もちろん可哀想でしたけど、あなたはある程度の成長を経た乳児まで、失敗と見なすと容赦無く処分されたでしょう、『安楽死』と称して」
ようやく声が出せるようになった浦之巣は、慌てて弁解の言葉を並べ始めた。
「いや綺羅々、待て、そ、それはだな、確かに不憫ではあったのだが、万が一、その子が成長して精神に異常をきたし、社会に害を与えるのを防ぐ意味で、やむを得ない処置」
「自分達の犯罪行為が表沙汰になるのを恐れただけじゃん」
「綺麗事ぬかしてんじゃないわよ。マジムカつく」
「······」
「乳児だけじゃない、幼児もいましたわね、数人ですけど。その子達をあなたはどうされました? 『安楽死』前に、生体実験、その上解剖、バラバラにして、標本に。そしてあなたは彼らの供養など、一切しようとはしなかった。宗教的儀礼などというものは全てが迷信の類いで、時間と経費の無駄使いだ、あなたは日頃からそうおっしゃっていた。これが人間のやる事ですか?」
由美がフォールディング・ナイフを振りかざし、浦之巣に襲いかかろうとするのを、咄嗟に佳代と美貴が抱き止めた。綺羅々が立ち上がり、由美の頭に額を押し当て、ささやいた。
「由美ちゃん、落ち着いて。傷つけては駄目よ」
「······」
由美は深呼吸をすると、ナイフの刃をたたみ、ポケットに入れた。三人は由美から離れ、元の位置に戻る。浦之巣はただ、恐怖に打ち震えるばかりであった。そしてまた、弁解の言葉を並べ出す。
「······そ、それらの行為を実際にやったのは、今現在、清掃班で働いている、あの連中だ。私は大体、命じてなどいない。基本方針を、示しただけだ。だから、責任と言うのであれば、あの連中にある。私より、直接手を汚し続けたあいつらをまず、殺ったらどうなんだ!」
「あのねー、さっきあんた自分で言ってたじゃん。人のせいにするな人のせいにって」
「それとドヤ顔で『全ては私の指示によるもの』。もしかして、覚えてないの? 認知症、始まってんの?」
「······成功は、自分のもの。失敗は、他人のせい」
「大体さー、あの爺さん婆さん達は、クロノスの裁きを受け入れて、今ああしている訳なんだからさー」
「今さらあの人達をどうこうするつもり、ウチらは全く無いんだよね。それよりあんた、かつての自分の部下達が今ああしているの、どういう思いで見て来たのか、聞かせてくれないかな」
「言え」
「そそそれは確かに、私一人が無事でいて、その後の事もあのそれはそのつまり」
「······この船でSCSの幹部連中の乱痴気パーティーで盛り上がった、とかでしょう。私まで引っ張り込もうとしたけど、冗談じゃありませんでしたよ。あなたが誰なのかも忘れてしまった、あの哀れな元研究者達が、この子達の死に物狂いの戦いの後始末を、黙々とやっている間も、あなた達はいい御身分で、贅沢三昧に暮らしてた訳よね」
瑞谷綺羅々はうつ向いて、深い溜息をついてから、こう言った。
「······少し、私の話をさせて下さいな。両親が突然他界し、赤の他人のあなたがいきなり養父となって、私はとても辛かった。だけど親戚はどこも余裕が無くて、むしろ好都合な話だったし。養父としてのあなたは大変厳格な方だった。私は生まれつきひ弱な体質で、体育だけは並以下の成績で勘弁してもらったけど、それ以外の教科は常に百点満点じゃないと許してもらえなかった。罰の晩御飯抜きはひもじかったわ。見かねた家政婦さんがサプリメントを差し入れてくれて、どうにかしのぐ事ができたけど」
初耳の話に三人娘は改めて怒りに震えた。
「······児童虐待もいいとこじゃん」
「育ち盛りの子供に何という事を」
「許せん」
「ちち違う違うっ、確かにお前を少しばかり、厳しくしつけ過ぎたかもしれん、だがそれは全てお前の将来を思っての、親心の表れなのであってだな」
「将来、自分の手駒として使う為でしょう。私が遺伝子工学の道に進まず、医学を志すつもりと知った時、当てが外れたと思ったあなたは激怒して、私を何度もぶった。だけど結局、自分の病院で働かせれば、最低限の目的は達成できると気づいて、あなたは態度を変えたわ。院長先生、あなたという方は本当に利己的で、打算的で、冷酷な人。そもそも、私のお父さんとお母さんを殺しておいて、よくも私の養父になどなれたものね」
「そそそれも違う違うッ、わわ私は殺っていない! 誤解だ! 事は私が身を隠している間に起きたのだ。殺ったのは武田口とその手下共、今ケルベロスを構成しているゴロツキ連中だ、私は潔白だーッ!!」
三人娘は「あーっ」と一斉に嘆息する。
「あのおっさんとほとんどおんなじ事言ってるよー」
「所詮悪党の思考回路は大同小異ってこったね」
「腐れ脳」
「どっちにしたって、一味には違い無いじゃありませんか。あなたから接触を厳しく禁じられていた今崎未亡人より、この子達を通して事の真相を教えられ、私は自身が精神医のくせに、情緒のコントロールが難しくなった。あなたと職場で顔を合わせるのが、毎日恐ろしくてたまらなかったわ。もう私は寮で生活していたから、家で一緒じゃなかったのが不幸中の幸い。あなたのみならず、他の上司達もみんな親の仇の一味なんだから、この子達と、なっち達がいなかったら、私は間違い無く、発狂するか、自殺してたわ」
綺羅々は左手首の時計を見た。
「そろそろ時間なので、最後にひとつだけ。それはね。あなたのような、人間性のかけらも見当たらないような人が、どうしてこんな子達を生み出す事ができたのか、不思議でたまらないんです。本当に、どうしてなんですか?」
「そ、それはだな、綺羅々よ、畢竟芸術はその芸術家の人間性の反映と言われるのと同じ事なのだ。お前は私を冷酷だの打算的だのと言うが、それは私という人間の表面しか見ていないからなのだ。一見冷たく見える私の内面には、溢れんばかりの人間性が」
三人娘は苦笑しつつ言った。
「先生ー。その答えなら簡単なんだよ。ウチらは全てこの爺さんの願望の塊なんだから」
「そーそー。この爺さんの頭の中にはずーっと、こんなに綺麗で可愛くて強くて頭が良くていろいろ才能があってその上性格が優しくてさー、どーして現実にはそんな子がいないのかなー、よし自分で作っちゃうぞー、ただそれだけ」
「変態」
「芸術家の人間性がどうこうって笑わせないでよ。じゃあ可愛い女の子の絵が描ける人って、みんな素晴らしい人格者ってワケ?」
「逆に芸術家即ち人格破綻者なんて例なら、古今東西腐る程あるけどさ。あんたはそれ以前に、芸術家でも何でもないのよ」
「おたく」
「そ。ただのおたくじじい」
「最低じじい」
「ロリコンじじい」
「ななな何だとーッ! 事もあろうにこの私をおたくの最低のろろロリコンじじいとは何事だ! けしからん! 侮辱にも程がある! 許さんぞお前達! 手をついて謝れ! 待て。お前達どこに行く。どーもお世話になりました、さよならだと。どうするつもりだ。待て待て。行くな。私をこのままにしていく気か。あっ。判ったぞ。ふ、船を沈めるつもりだな、私ごと、お、親を殺す気か、生みの親、育ての親だぞ、お前達にとって、この私は、きき貴様ら、親殺しは大罪だぞ、地獄に堕ちろッ、いや待て、今のは取り消す、だから頼む、戻って来てくれ、綺羅々、佳代、美貴、由美、私は本当に、お前達が可愛くていとおしくて、愛しているのだ、だからお願いだ、戻って来てくれ、助けてくれ、助けてくれーッ!!」
船底からケイロンこと西村少尉が上がって来て、甲板上の綺羅々と三人娘に言った。
「船底に仕掛けた時限爆弾は、あと五分で爆発する。さっさとボートに乗り移ろう」
「了解」
ここまで曳航して来たモーターボートは既に横付けしてあった。先に西村が飛び乗り、手を差しのべる。三人娘は慎重に、やつれた綺羅々を乗り移らせ、それから次々と自分達が飛び乗った。
西村はクルーズ船とボートをつないでいたロープを、船の甲板上に放り投げ、操縦席に乗り込んで、エンジンを始動させた。
クルーズ船のブリッジからは浦之巣院長の泣き叫ぶ声が聞こえて来る。綺羅々は席にうずくまり、両手で耳を覆っていた。三人娘は彼女を護るように、無言で抱え込んでいた。
ボートはゆっくりと船から離れ、院長の声が聞こえて来ない程度の距離を取り、停止した。
月明かりに照らし出されたクルーズ船は、まるで幽霊船のように漂っている。ほどなく、鈍い爆発音と共に船全体が震えた。船はみるみる右舷側に傾斜し、あっけなく転覆、沈んでいった。
合掌も、黙祷も、ひどくわざとらしく感じられ、五人はただ押し黙り、暗い海面を眺めているだけであった。
お疲れ様でした。
さて敵も馬鹿ではありません。