鬼学
アイリスからの質問攻めを受けながら昼食を終えたヒトミとアイリスは、午後の授業に向かった。この授業は講師を伴わない個別のもので、ふたりはそれぞれ別の個室へと入った。
ドアを開けると、そこは約50平米の冷徹で無機質な空間が広がっていた。部屋の中央には、シンプルな椅子とヘッドセットが置かれ、静かに次の利用者を待っていた。
ヘッドセットを頭に装着すると、先ほどまでの静寂が一瞬にして打破され、視界全体が驚異的な映像で埋め尽くされた。そして、その中から聞こえてくるのは、AIヨーゼフの声だった。
「『人類史』のセッションで、私たちは人類がなぜ地下での生活を余儀なくされているのかを学びました。ここ『鬼学』の授業では、鬼の生態についてより深く探ることになります。」
ヘッドセット内のディスプレイには、人類史の授業で目にした、銀色に発光するアメーバ状の生き物が表示されていた。
「シナフォトームという生物は、人類の脳に寄生し、その中で増殖、感染し、さらに拡大していきます。『運命の石』が地上に墜落した際、我々人類を始めとする多くの生物がその石に触れました。ここで注目すべきは、シナフォトームが寄生する経路に一つの明確な特徴があることです。それは、寄生される宿主が人間のみであるということ。これから得られる仮説は、人間に固有の何らかの特性が、シナフォトームの寄生条件であるということです」
ディスプレイにはゾウ、キリン、チンパンジーなどの多様な動物と人間のシルエットが映し出され、その後、それぞれの脳の詳細についての説明が始まった。
「では、人間の脳がどのように特異なのかを見ていきましょう。一般に、ニューロンの数に着目すると、人間は約860億個のニューロンを持っているとされます。これは多いように思えますが、実はニューロンの数はその生物の体積に比例することが知られています。例えば、アフリカゾウは約2500億のニューロンを持っているとされています。このことから、ニューロン数だけではシナフォトームの寄生の理由を説明するのは難しいと考えられます。最終的に、我々の研究チームは大脳皮質、特に前頭葉の発達と、そこでのホルモン分泌が、シナフォトームの寄生の要因であるとの結論に至りました。ドーパミンやセロトニンなど、大脳皮質で分泌されるホルモンをシナフォトームが察知し、その寄生のターゲットを選ぶとの仮説を立てました」
映像の中、ヒトミの頭部に装着されているアクセサリー、ホシに焦点が絞られる。
「発見されたこのプロセスと、ホシによるDBS技術を組み合わせることで、我々インヴィトロ・ヘブンのメンバーは、シナフォトームの寄生から解放されています。一度鬼の存在を察知すると、ホシは即座に脳内のドーパミンやセロトニンの分泌を抑える刺激を送ります。この働きによって、シナフォトームは我々を寄生の対象として見なさなくなるのです。結果として、ホシのおかげで地下のみならず、地上での生活においても、皆様は安全に保護されているのです」
映像が切り替わり、鬼の姿が浮かび上がる。
「我々インヴィトロ・ヘブンのメンバーがシナフォトームの寄生から如何に守られているか、既にご理解いただけたかと思います。次に、鬼についての詳しい説明を行います。鬼は太陽光を効率的に吸収する能力があるため、肌は黒や深紅、濃青といった色調に変わっています。感染拡大の手段として、彼らは鋭い爪や歯を使いますが、これに対する具体的な対策は先ほど説明した通りです。人間が宿主となることから、彼らの体格は大体160cm~180cmとなっており、その急所は胸部と頭部です。ミッションによっては、鬼たちとの戦闘を避けることが難しくなる場合もあります。その際は、急所をしっかりと狙って鬼を撃退してください」
ヒトミは深呼吸を一つ取った。この解説は彼女にとって慣れたものだった。なぜなら、毎日この授業の冒頭で繰り返されていたからだ。
かつて、ヒトミはこの授業で何らかのトラブルを起こしたことがある。具体的に何が問題だったのかは明示されなかったが、カウンセリングやシスターとの面談を彼女だけが受けさせられたことから、何かしらの誤りを犯したことを彼女は感じ取っていた。
ある日の午後、休憩時間に庭でリラックスしていると、森の深くから目を惹くキツネが姿を現した。キツネの瞳は、何も知らないウサギの方へと向けられていた。一瞬後、キツネはウサギに飛びかかり、瞬時に彼の命を奪ってしまった。
興味津々、ヒトミは静かにキツネの後を追った。そして見たのは、もう一匹の大きなキツネと、彼らの可愛らしい子キツネたちだった。狩られたウサギを巣穴に持ち込む父親キツネは、子供たちに獲物の取り分け方を指導していた。
だが、その光景を見つめる中で、ヒトミはうっかり落ちていた枝を踏む。突如の音に、キツネたちの空気が変わった。母親キツネは子供たちを守ろうと動き、父親キツネはヒトミに牙をむき出しにして威嚇を始めた。
「大丈夫、脅かすつもりなんてないから」とヒトミは静かに語りかけたが、父親キツネは反応せず、彼女の腕に飛びかかり、牙を深く埋めた。
しかし、ヒトミは怒りや恐怖を感じることなく、むしろ温かな気持ちで「ごめんなさい、あなたたちを驚かせたね」と囁いた。その優しい声に、キツネも動きを止め、ゆっくりとヒトミの腕を離していった。血まみれの腕にキツネの繊細な歯形が残り、父親キツネはその傷口を舐めながら、穏やかな表情を浮かべた。
ヒトミはその瞬間、人と動物の心のつながりを実感し、その深さと美しさに感動した。
この経験を通じて、彼女の心に新たな考えが芽生えた。キツネが家族を形成し、子供たちを教育し育てる姿に、種としての生存を超える深い意志や本能を感じ取った。このキツネは、単にキツネという種を維持するという意識ではなく、家族という単位に対する強い本能を持っているようだった。
シスターやヨーゼフの授業に疑問を感じたことはなかったが、ヒトミはある点について考え込んでいた。広く一般化された「鬼」という概念よりも、もっと具体的な単位での「鬼」が存在するのではないかと思っていた。
そのような疑問を持ちながら、鬼学の授業を受けていたある日、ヒトミはカウンセリングの受講を命じられた。目立つ彼女がカウンセリングを受けることになったため、クラスメイトのミランダたちから予想通りの冷ややかな反応を受けた。
その経験を思い出し、ヒトミは意識的に感情を抑え、心を無にして目の前の授業を受けるようにした。その結果、何の問題もなく今日の鬼学の授業を無事に終えることができた。
「国語の教科書で記憶に残っている作品は?」と聞かれたら、多くの人がバラバラな作品を答えるのではないのかなと思います。例えば、私なら『カレーライス』(重松清作)を上げます。
「ぼくは悪くない。だから絶対に、「ごめんなさい」はいわない。いうもんか、お父さんなんかに。」
この冒頭で始まる文章を初めて聞いた時、衝撃を受けたのを覚えています。なんとなく私と親との関係を言い表していそうだし、「ごめんなさい」を言わない頑固なところも含めて、当時の私をよく表現されているようで、心に残ったのかもしれない。そして、今でも空で言えるくらい、覚えてしまったフレーズなのです。
そんな心に残る作品を作れたらなと思って、日々ラップトップと向き合っています。
本当は、別の作者の別の意味で心に残る作品について話したくて、この余談で書いたのですが、ちょっと長くなりそうなのでその話はまた次回のあとがきで。