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人類史

更衣室の扉を静かに閉めたヒトミは、床に響く靴音を背にして、次の授業「人類史」が待つ大講堂へ急ぐため、光る階段の石を一段ずつ跳ばしながら駆け上がった。絶え間なく鳴る予鈴の響きが心の隅にあり、時間の刻みとして既に5分の時が流れていた。


彼女の呼吸は深く、乳酸による疲れが足元から全身に広がった瞬間、深い朽葉(くちば)色の手すりを握り、一瞬、体を休めることに決めた。足首が微かに震える中、彼女は再びその足を進めた。少しずつ、生き返る心臓の鼓動とともに、彼女の意識はクリアになっていった。


大講堂の扉には、眼鏡をかけた少女、アイリスが待っていた。彼女たちの足取りは一致し、空間が続く大講堂へと進んでいった。その場所は、まるで劇場のように、3階から2.5階にかけての斜面に配置された机が観客席のように展開していた。


彼女たちが選んだ席は、前から5番目の左端。アイリスの繊細な指とヒトミの暖かな手が、同じタイミングで机の上に休まった。


そこには、新しい時間の始まりを知らせる鐘の音が広がっていった。重厚な響きの中、シスターが、堂々としたステップで教壇に向かった。彼女のタブレットが接続されると、部屋の隅々まで、教科書のページが色鮮やかに浮かび上がり、人類史の授業の始まりを告げた。


シスターは教壇の中心へと進むと、タブレットを拡張ケーブルへと繋ぎ、教室内の壮大なモニターたちが光を放った。それぞれの画面に、「人類史」の教科書のページが、生き生きと彩られて映し出された。


「ごきげんよう、皆さん。まずは、過去の歴史に触れて、その痛みと学びから私たちの今を見つめるところから始めましょう」彼女の声は深く、胸の奥まで染み入るようだった。


続いて、スクリーンには巨大な隕石が浮かび上がった。それは宇宙の無限の闇を縫うように、青く輝く美しい惑星へと舞い降りていった。次の瞬間、天空に輝く一筋の光。それが驚くほどの速さで接近し、地上へと落ちていく。大爆発がその後を追う。映像は一瞬の震撼(しんかん)に包まれ、そして、漆黒の闇がスクリーンを覆った。

「今から84年前、広大な宇宙から一つの隕石、我々が『運命の石』と呼ぶものが、地球に墜落しました。墜落した地点から、半径20kmにあったものは全て蒸発し、そこには一切の生命の痕跡を残しませんでした。ただ一つ、この『運命の石』に乗ってきた来訪者、“シナフォトーム”という未知の生命体だけを除いて」


モニターには、銀色に煌めくアメーバのような生物がうねりを帯びて(うごめ)く映像が投影された。


「シナフォトームは神経系からなる知的生命体で、他の知的生命体の脳に寄生することで活動します。寄生された人間は、従来の人類とは異質な形態や性質へと変貌します。新たに感覚器官としての角が発達し、その一方で視覚器官である目は失われます。肌は赤や青のような鮮やかな色へ変色し、爪や歯はより鋭利に進化します。この宇宙から来た神経生命体に感染された者たち、Orbital Neural Infected、つまり(ONI)と呼ばれる、変貌した人類の姿が現れ始めるのです」


赤褐色の肌、鋭利に突き出た角、目の存在しない深い空洞、そして尖った牙と爪を持つ畏怖すべき姿の鬼が映し出される。


「寄生された個体の体内でシナフォトームは猛烈に増殖し、感染と寄生を連鎖的に繰り返すことで、鬼は急激に勢力を拡大し、地表を堂々と支配し始めました。彼ら鬼たちの目的は唯一、シナフォトームを地球上に拡散させることにありました。そのためだけに、絶えず合理的な判断や行動を下す彼らの姿勢は、高度に進化した脳を持つ蟻に喩えることも可能でしょう。結果的に、我々人類は地下に逼塞(ひっそく)する運命を余儀なくされました」


今、モニターにはヒトミたちの生活空間として熟知している地下施設の映像が流れてくる。


「こちら、『インヴィトロ・ヘブン』はもともと種を保存するための施設として、著名なフィリップ・シャドウモア博士によって建設されました。しかし、運命の石が地球に衝突する日を迎えた際、科学者であるシャドウモア博士は人類の危機を直感し、施設の目的をただの種の保存から、我々人類の生存をも支える避難所へとシフトさせました。この決断が人類の生き残りの糸口となり、地上で鬼が跋扈する中、我々はこの避難所『インヴィトロ・ヘブン』にて命を繋いでいるのです」

そしてモニターの映像は、輝く太陽に切り替わる。

「人類の生存にとっての幸運の一つは、シナフォトームの生命活動が太陽光に強く依存していることでした。明るい日中、鬼たちは極めて活発に動き回りますが、夜になると、その活動は大幅に落ち込むのです。彼らが地下に進入することがない理由、それが太陽光の影響です。しかしながら、この太陽光から遮断された地下の閉塞感ある環境は、我々人類にとっても巨大なリスクを招きました。太陽光を浴びない暗く密閉された空間での生活は、我々の脳のホルモンバランスを狂わせてしまったのです。この問題に対処するため、『インヴィトロ・ヘブン』ではDeep Brain Stimulation(DBS)を人類に導入し、状況を改善しようと努めたのです」


今度、モニターには円錐状の装置が映し出される。


「この装置、『Hormone Optimization System Interface』、通称『ホシ(HOSI)』と呼ばれています。もともとはパーキンソン病の患者たちの治療のために使用されたDBS技術を基盤にしています。DBSは脳に電極を埋め込むことで、電気刺激を送り、神経活動を調整するというもの。この技術を応用して、地下での生活に適応できるよう我々の脳の活動を最適化してくれます」


ヒトミは手を伸ばし、自らのホシを優しくなでる。その瞬間、その装置が自分の脳に絶え間なく刺激を送り続けていることを実感した。彼女は、生かされている感謝の思いを感じたと同時に、自分の命がこの施設に委ねられていることを強く意識した。


シスターは話を進める。モニター上には、ヒトミが以前教練への廊下で目撃したコクーン状の建物が映し出される。その後、豊かな自然の中で生きる動植物の映像が流れた。


「ホシの開発に止まらず、我々は地下環境を地上に近づける取り組みを続けてきました。当初からこの施設には、多種多様な植物の種子や動物のDNAが保管されていました。それらの生命を地下で再生し育てる取り組みによって、地上の生態系に非常に近い環境の再現に成功しました。もし我られの先祖が、この施設に訪れたのならば、植物園の中での体験が、地上のものとほとんど変わらないことを実感することでしょう」


「地上のものとほとんど変わらない」という言葉に、ヒトミは違和感を覚えた。彼女が度々見るその夢で、あの女性が手渡した粒は植物の種子のように思えた。ところが、ヒトミの愛読書『地下における種の保存』には、その種子に似た記述がない。これは、地上に存在したものが地下には存在しないことを示唆している。『地下における種の保存』には、人類の介入なしには生きられない園芸用植物を始め、鬼の支配以降に多くの植物が絶滅したとの記述がある。もし、その絶滅した品種が植物園にないのであれば、「地上とほとんど変わらない」とは言えないのではないか。そのように考えていると、授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえてきた。ヒトミは現実に引き戻されると同時に、あの粒が必ずしも植物の種子とは限らないこと、もしかしたら、別の何かなのかもしれないと、思うように努めた。


シスターは鐘の音をきっかけに、「この続きは次回にします。今日はここまでです」と生徒たちに告げる。


生徒たちが一斉に立ち上がる中、ヒトミとアイリスも彼らに続く。一列になって、大広間の方向へと進み始める。


「あー、お腹すいた!そういえば、素対防衛術の授業はどうだったの?ミランダとはうまくやれた?」アイリスが質問する。


ヒトミは苦笑いしながら、「うん、まあ... ミランダをうまくやれたよ」と答えた。


アイリスは眉をひそめて「どういう意味?」と尋ねる。


ヒトミは適当に話をそらそうとし、「今日のお昼は何かな?楽しみだね」と言って話題を変えようとする。


しかし、アイリスはそのまま厳しい表情でヒトミの方を向いている。ヒトミは遂にアイリスの厳しいまなざしに負け、教練の一部始終を正直に話すことになった。


「鬼」の表記について。

当初は、あらすじに合わせて「鬼」の表記は、ONIに統一する予定でした。ですが、執筆をする中で、ONIと表記すると気が抜けてしまう感覚があったので、「鬼」の表記に変更することに決めました。

ホシも同様の理由です。


地下で人類が生存するためには?ということを真剣に考え、技術的なものも調査した結果、舞台の説明に膨大な文章が必要になったので、潔く全部カットしました。

その努力が日の目を見ないのも悲しいので、ここで少し考えます。


地下300mで人類が生きるために大きな障害となるものは、主に以下の3つが考えられます。

一つ目は、本編でも触れた太陽光の問題、

二つ目は、水資源の問題、

三つめは、気圧の問題です。


最終的にDBSという設定で太陽光の問題を解決したのですが、当初は地下300mに太陽光を届ける予定でした。

その為には、集積レンズ、パラボリックミラー、光ファイバーの3つの技術が必要です。

地上に光を一点に集める巨大なレンズ、そして光をそのレンズに集めるためにあらゆる角度の光をレンズに集約させるパラボリックミラーを設置します。集められた光は光ファイバーを通して地下まで送られるという案外単純な仕掛けです。


ただし、この世のあらゆることに言えることですが、エネルギーを何かしらの媒体に通すときに、100%そのエネルギーを変換することは不可能ということなので、レンズの集積の際、パラボリックミラーでの調整の時、光ファイバーでの輸送時、それぞれのおいて太陽光というエネルギーは何かしらの形で損失をすることになるので、地上と全く同じ環境を作り出すということは不可能ですね。


次に水資源の問題ですが、人類の歴史って水の資源確保といっても過言じゃないくらい、それを安定供給するためにあらゆる技術の蓄積が行われたり、奪い合いの歴史があったりしたりする、人類の生存において非常に重要なテーマといえる問題です。

今回の問題は、これまで人類が築いてきた既存インフラが使えないということ。なので、インヴィトロ・ヘブンは、水を確保するために新たなインフラを再構築する必要がありました。そこで、地下から地下への水平輸送を実現することになります。


この過程で、二つの大きな課題がありました。

第一に、地質調査の精度

第二に、一応今回設定だと100キロにわたる距離を持ちこたえる堅牢なパイプラインの建設


第一については、人口地震を発生させてその反射を利用して地質状況を把握する地震反射法を用いて進めていきます。地質調査として思い浮かびやすいものとしては、ボーリング調査があげられると思いますが、大規模なインフラ構築においてボーリング調査だと時間がかかりすぎると判断しました。地震反射法を用いて3Dモデルで視覚化し、気になる点があれば、都度ボーリングや地電磁法を活用することで、効率的に水資源を探索していくこととしました。


パイプラインの建設については、可能な限りメンテナンスコストを下げることが重要だと考え、マイクロカプセルを組み込んだ自己修復機能のあるガラス繊維強化プラスチックを採用しました。

元々、耐腐食性や地下での圧力、温度にも耐えられるガラス繊維強化プラスチックに、亀裂等の問題が生じた際にマイクロカプセルが破壊され、中の化学物質が放出されることで、自動的に修復する機能を盛り込んだ、新素材を開発し、それをパイプラインの建設に使いました。


最後に気圧ですが、地下300メートルで暮らすとなると、どのくらいの広さに生活空間を持つかとか、鉱物の状況で変わってくるのですが、だいたい地上の7~9倍の位の気圧がかかります。


他の例でいうと、だいたい水深80メートルでダイビングし続けるみたいなものですね。

ダイビングをやったことがある人ならわかると思いますが、推進10メートル沈むときでさえ、結構人体に負担がかかってることを実感すると思います。めちゃくちゃ耳痛くなりますからね。


そんな世界で住むのは大変なので、インヴィトロ・ヘブンでは気圧を調整しています。どうやってやるかは案外簡単で、めちゃくちゃでかい換気扇みたいなものを使ってます。これはそこまで技術的にややこしいことではないですね。


まぁこんな感じで、仮に地下300メートルで暮らすには?という問いに対して、めちゃくちゃ真面目に考え、リサーチをして、いったんは小説に落とし込んだのですが、あとから見直して、これは読者が求めているものではないと判断し、泣く泣く切り落としました。

サンクコストは気にしちゃいいものができないしね。


ということで、そんな裏話があるインヴィトロ・ヘブンですが、もしよければいいねと感想、拡散にご協力頂けると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 緻密に練った地下世界の背景設定があるのは面白い。ストーリーと絡むことを期待したいです。
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