素対防衛術
教室につくと、既に多くの生徒がその特異な席に身を委ねていた。各席は独特の設計で、まるで生徒の体全体を守護するかのように包み込んでいる。ヒトミも自分の席に身を落ち着けた。
教壇には、一人の風格ある女性が立っていた。彼女の濃紺のゴアテックスブルゾンのチャックは、彼女の権威を際立たせるもので、動きを邪魔しない黒ズボンは彼女の使命感を強調していた。彼女は「素対防衛術」の担当者、レナ・アーマストロング先生だった。
「本日は日本武道の実戦を試みる。通常、オニとの戦闘は武器を持って行われるのが常だが、弾切れや突発的な状況で素手の戦闘が求められる場面も存在する。このことを踏まえ、日本武道のインストールが完了した後、我々は校庭へ移り、二人一組で組み手の訓練を行う」
先生の言葉が響き終わると、ヒトミたちの席はゆっくりと動き、半ば背中が浮くような姿勢に変化した。次の瞬間、ヘッドセットが彼女たちの視界を全て覆い尽くした。そして、目の前に「インストールを開始~日本武術~」という表示が浮かび上がった。
教室内は、生徒たちが夢の中に沈むかのような静寂に包まれた。数分が経過し、いくつかの席から生徒たちがゆっくりと起き上がり、ヘッドセットを外し始めた。次第に、生徒たちの目覚めが続き、ついには全員が目を覚ました。
アーマストロング先生は、「では、校庭へ移動せよ。到着したら整列すること」と指示を出す。生徒たちは、一斉に校庭へと足を運び始めた。
校庭へ到着すると、アーマストロング先生の前に生徒たちは整列。彼女が再び声を上げると、その言葉は説明へと移行した。
「これから、各々がペアとなり実戦を体験する。今日学んだ日本武道の技術確認が目的だ。だから、今日のパッケージ以外の技は極力使わないように注意すること。さて、各自でペアを組み、開始せよ」
ヒトミは、通常ならばアイリスとペアを組むのだが、その日、アイリスの姿はなかった。ペアを探しながら周囲を見渡していると、ざわめきの中から一人の少女が登場した。天井からの光を受け、彼女の金髪はまるで宝石のように背中で煌めいて揺れていた。彼女の鋭い大きな瞳と鮮やかな赤い唇が、彼女の勇気と気高さを強調していた。そして、彼女の頭部には、自身の自信を際立たせる隆起が2つ見受けられた。その少女、それはミランダだった。
ミランダがヒトミの方を見つけると、「あら、今日は独りぼっちなの?普通の会話ができなくて嫌われちゃったのかしら?」と揶揄するように声をかけ、ブリトニーとサマンサという彼女の取り巻きたちが、得意げに笑い声を上げた。ヒトミはアイリスとの約束を胸に、「逆に、あなたは仲間がいないと何もできないの?」と言い返すことにとどめた。
ムッとした表情のミランダは、鼻先をぴくりと上げながら言った。「まぁ、筋肉馬鹿のあなたと組みたいと思ってる変わり者はいないでしょう。もしかして、今日は組み手なしで授業が終わるのかしら? あなたには、実戦を省くのがちょうどいいんじゃない?」彼女は皮肉っぽく笑いながら、手のひらを上に向けてひらひらと揺らし、ヒトミから目を背けて去ろうとした。
ヒトミは、心の中でほっと息を吐き、再び、周囲の生徒たちの顔を確認しようと目を巡らせる途中、ある感覚に気付く。それは、空気の振動、微細な風の流れ、そして敵の存在を知らせる直感だった。彼女は直感的に何かが接近していることを察知し、頭を後方に引いた。
その瞬間、空気を切るような「チッ」という舌打ちの音が聞こえてきた。
音の方向に目をやると、臨戦態勢を取っているミランダがいた。ミランダが不意打ちを仕掛けてきたのだが、ヒトミはその攻撃をかわしていたのだ。
ヒトミは、自身の行動が周囲の生徒たちの注目を集めていることを知っていた。それでも、ミランダに向かって挑発的な微笑を浮かべ、正面から立ち向かった。彼女が対決の構えを取ると、辺りの雰囲気は一気に変わり、凍るような静寂が二人を取り囲んだ。
初めに両者が選んだ格闘技は柔術であった。一度、間合いを詰めて関節技を極めれば試合は終了となる非常に合理的な武道である。柔術は後に柔道などの近代武道に昇華されていくが、その起源は戦国時代まで遡る。剣を持たない状態で敵をいかに無力化するかを重点とした柔術は、後の競技武道とは異なり、実戦において相手を破壊、殺害する文脈で最も効果的かもしれない。
周囲の生徒たちは息をのんで、この一騎打ちを見守っていた。訓練のトップクラスとして知られるNo1とNo2の熾烈な戦いを目前に、誰もが目を逸らすことができなかった。
ヒトミとミランダは投げ技や関節技を狙っているが、お互いの技を警戒しているため、適切な間合いを見つけるのは難しい。とうとう、ミランダが忍耐の限界を迎え、正突きや掌底打ち、正面蹴りなどの連続技で攻め立てるが、ヒトミはこれらの全てを巧みにかわしてしまった。
柔術はヒトミの得意分野であることを察知したミランダは、戦術を変更し、キックボクシングに切り替えた。これは、彼女が最も得意とするスタイルだった。西洋のボクシングと、東洋の空手やムエタイを融合して20世紀中頃に日本で発展したキックボクシングは、ミランダにとって日本の格闘技の絶頂と考えられていた。
ミランダの軽やかなステップを目の当たりにし、ヒトミは彼女の戦術の変更を察知する。しかし、彼女は柔術のスタイルを堅持して対応した。
「なめるな!」
ミランダは、ヒトミに猛攻を仕掛けてきた。一秒あたりの攻撃回数でいうと、キックボクシングは柔術を大きく上回る。戦況が変わり、次第にミランダが有利となった。ヒトミは、ミランダの猛攻に耐えることばかり考え、防戦一方となった。しかし、予想外のことに、焦りはミランダの方に見えた。どれだけ時間が経っても、ヒトミに決定的な一撃を加えられない。次第にヒトミが防戦から反撃に転じる様子が見え始め、形勢が逆転するかと思われたその瞬間、ヒトミは左足を滑らせてしまった。
勝機を捉えたと感じたミランダは、右足を踏ん張り、その動きを利用して、利き足である左足を振り上げ、ヒトミの左側頭部に渾身のハイキックを放つ。しかし、ミランダがこの一撃で決まったと確信したその瞬間、意外にも彼女の利き足はヒトミによって捕らえられた。軸足が浮き、次に彼女が認識したとき、目の前に広がるのは真っ白な天井と照明のみだった。
会場は喝采と感嘆の声で鳴り止まず、ヒトミは複雑な感情を抱えながら、倒れたミランダを冷静に見下ろしていた。
「なぜ私が、まともな『HOSI』を持たないお前に…」
苦しみながら、ミランダはヒトミをにらんだ。
その後、場の空気は凍りつくような静寂となったが、授業の終了を知らせるベルが鳴り、ミランダはブリトニーとサマンサに支えられながら、教室を急ぎ足で後にした。
注目を浴びるのを避けることができなかったヒトミは、心が重くなりながら更衣室に向かった。ドアを開けると、中は静かで緊張した空気に包まれており、ヒトミの胸も不安と興奮でいっぱいになった。
「インヴィトロ・ヘブン」の生徒たちの中で、ヒトミは特異な存在だった。彼女の周りの生徒たちは、ヒトミを受け入れるか、あるいは拒絶するかのいずれかであった。この施設の生徒たちは、頭部に2つの隆起、「ホシ」が埋め込まれている。しかし、ヒトミだけが例外だった。彼女の「ホシ」は取り外し可能な外付けのものなのだ。「インヴィトロ・ヘブン」の特徴として、生徒たちの会話は大抵簡潔である。なぜなら、『ホシ』を通して情報交換が可能なため、多くの生徒たちは必要最低限の口頭のコミュニケーションだけで済ませている。
しかしながら、ヒトミは「ホシ」を通じてのコミュニケーションができないわけではない。むしろ、彼女はそれを得意としている。しかし、その能力が高すぎるがゆえに、共有される情報が深すぎることがある。他者の感情や心の奥深くまで知ることができるため、「インヴィトロ・ヘブン」の生徒たちの多くは、彼女の前ではプライバシーが暴露されることを経験している。幼少のころはその能力に感謝されることもあったが、思春期を迎えるとヒトミは孤立してしまった。そのため、ヒトミはより虚弱な「ホシ」を取り付け、コミュニケーションも口頭での会話を選ぶようになった。
それでも、ヒトミに対して理解を示してくれた数少ない生徒たちが存在し、その代表格が、アイリス、メガナ、ピクシー、そしてミランダだった。ミランダはヒトミをサポートしてくれた最初の仲間の一人だった。当時のミランダは生徒たちの中でリーダーシップを取っており、彼女の影響で多くの生徒たちがヒトミに一定の理解を持つようになった。初めのうちは、ミランダの支援はヒトミへの同情や優越感から来ていたのかもしれない。しかし、10歳を過ぎると教練をはじめとした実践訓練が始まり、常にトップだったミランダがヒトミに一度も勝てなくなってしまった。その結果、ミランダの同情心は次第に消え、優越感は嫉妬に変わってしまった。それが、現在の彼女たちの関係を形成する要因となった。
アンチ・ヒトミグループの中心人物であるミランダを打ちのめしたことで、更衣室に入ってきたヒトミに全員の視線が集中した。
その重苦しい雰囲気の中、ヒトミが制服に手を伸ばそうとしたとき、メガナの声が響いた。「ヒトミ、あんたとミランダのやり取り、いつも大変そうだな。でも、あの全力のハイキックを見事に避けたのは本当に流石だったよ。どうやって避けたんだい?」
ヒトミは口元を緩めて答えた。「実は、さっきインストールした日本の古武道の技術を使ったの。ちなみに、柔術も古武道の一つだね。古武道では、重心の効率的な移動や体の使い方が重要とされていて、足を滑らせたとき、無理に体勢を立て直す代わりに、膝の力を抜いて流れるように彼女の攻撃を避けたの。そして、ミランダの動きに呼吸を合わせ、彼女の蹴りの力を利用して転ばせることができたんだ」
ピクシーが興味津々に質問を投げかけた。「それって、古武道の抜重の技術と、合気道の要素も混じっているのね?」
ヒトミは微笑みを浮かべながら答えた。「その通り。私は日本の古武道や合気道など、様々な武道の歴史と技術をインストールして合成してみたの。それが結果として、あの技術に繋がったんだと思う」
メガナは頷きながら感心した表情で言った。「”言うは易く行うは難し”、とはこのことね。私たちはインストールしてその動きを体現するのがやっとだけど、そこから本質的な動作を抽出して応用したり組み合わせたりできるのは、ヒトミくらいしかいないね」と言いつつ、二人は更衣室を後にした。
ヒトミの戦闘技術は、まるで輝く宝石のように独特で、彼女は堂々とその分野でのNo1として称えられていた。訓練の舞台では彼女の洗練された動きには目を見張るものがあり、その技術的な高さは誰もが認めざるを得なかった。とはいえ、彼女の経験には、まだ実戦の舞台での経験が一つも刻まれていないという、大きなギャップがあった。
「『インヴィトロ・ヘブン』に早く役立ちたい」という気持ちが彼女の中で強く燃えていた。もっと正確に言えば、「『インヴィトロ・ヘブン』のために何かしていると、みんなに認められたい」という願望だった。彼女は本当は、最初に手を差し伸べてきたミランダと対立することを望んでいなかった。そんな彼女の感情が教練場でのミランダとの対決で表れ、相手と呼吸を合わせる必要がある合気道の技を使用する結果となったのかもしれない。
彼女はふと思った、「実戦にどうすれば参加できるだろうか?」。そのような深い思索にふけっていると、2限目のチャイムが響き渡り、現実に引き戻された。時間がどれだけ経ったのかを実感し、ヒトミは急いで服を身につけて、更衣室を後にした。
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