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日常

「インヴィトロ・ヘブン」の大気を調整するために、降り注ぐ人工的な雨の下、ただただ静寂に包まれる室内で、少女は瞼を固く閉じ、胸がざわつく夢の中へと沈んでいった。

彼女の心の中には、ここではない、不安を抱えた夢の風景が浮かび上がっていた。


真っ暗闇。何も見えない空間で、彼女の耳元には男の低い声が響く。

「クソッ!! どうしてもヒスタルター遺伝子の抑制ができない!!通常の被験者に遺伝子プログラムを投入しても、T細胞、B細胞といった免疫細胞のメチル化がうまく施せない!! おそらくこの個体は胎内にいる際にヒスタルター遺伝子の抑制プログラムを投入し、自然分娩をしている。だが、そうすると大量生産が叶わない。胚の段階でこれを止める遺伝子プログラムが必要だ。この個体こそがNo1だと思っていたが、見当違いだったらしい...」


男はしばらく考え込み、何かをじっと見つめているようだった。

ぶつぶつと言いながら、彼は続けた。

「この遺伝子マーカーはあの地域特有のものだ。持っている個体は非常に珍しい。しかし、以前にもこれと似たマーカーを見たことがある。確か...」


カタカタとキーボードを素早くタイピングする音だけが部屋に響く。

「遺伝子適合率100%.... フハハハハハ、『詮索物、目の前にあり』とはこのことだな」

男は高笑いをしたかと思うと、今度は声をすます。

「こちらフォボス。プロジェクト・ルミナスを開始する必要がある。ターゲットは002、改め001。今から54時間後イチゼロサンマルに施設前での捕獲を行いたし。」


その言葉に反応するように、女性の声が雑音にさらされ聞こえてくる。

「ラジャー。ニューロネクサスに栄光あらんことを」


ヒトミが見ているこの夢は音だけの世界だった。だが、ヒトミは自分以外にも不安を抱いた人がいる気配を感じ取った。


「ぴぴぴぴぴ…」


突然、夢の中に浸透する温かく救済の音。まるで重い鎖が切り落とされたかのように、悪夢の束縛からの解放を告げる音が響いた。一瞬のうちに、少女は恐怖の夢から救い出された。


目を開けると、そこにはいつもの白い天井が広がっていた。頭が冴えてくると、自分がひどく汗をかいていることに気づく。


ひどく重苦しく感じる体をゆっくりと起こし、恐ろし気な足取りで洗面台に手をかける。鏡を見ると、深緑に輝く瞳と、肩より少し伸びた黒髪を持った少女がそこにはいた。

少女は頭をなでながら「大丈夫。今日も私は私だ。」と述べながら、緑色の瞳を細め、自分が自分であることに安堵感を覚え、深く深呼吸をする。


汗で湿った服を脱ぎ捨て、新しい衣に身を包むと、赤色の円錐のアクセサリーを2つ頭部にはめる。


今度はベッドに置かれた青色のアクセサリーを首飾りにして、服の下にしまうと、静かにドアを開ける。ドアを開けると、廊下を駆ける快活な足音が聞こえる。その小さな影がヒトミとぶつかりそうになるが、すんでのところでかわすと、「あら、ごめんね!ヒトミ」と絵画に描かれる天使のような少女、ピクシーが悪気もなさそうに笑っている。


「ピクシー!廊下で走るなと何度も言っているだろう」大きながらも冷静な声が廊下の先から響いてきた。その声の主は、ピクシーの親友、メガナだった。

2人は廊下を進み、寮を出て大広間へ向かった。ヒトミも2人に続いて歩き出した。


あの悲惨な事件を乗り越え、ヒトミは日常に戻ってきたのだ。


広間に着くと、ピクシーとメガナは真ん中にある長テーブルの席についた。

ヒトミはそんな2人を見送り、別の空いている席に腰を下ろす。


以前の日常と、この新たな日常の最大の違いは、ここにアイリスがいないことだ。以前なら、2人は常に一緒に行動し、授業を受けていた。その親友が今では隣にいない。

アイリスが任務で亡くなって以来、ヒトミは多くの人たちに支えられ、新たな日常に適応してきた。ピクシーやメガナはその中心的な存在だ。ヒトミは彼女たちに感謝している一方、意識的に関係を深く強化することを避けていた。それには、この新しい日常における「別の違い」が大きな要因として影響している。もちろん、ピクシーやメガナはその要因について知らない。それにもかかわらず、2人はヒトミの気持ちを尊重し、彼女が望むように行動することを見守ってくれている。


朝食のパンとベーコンエッグを食べていると、テーブルの向かいに一人の少女が席についた。彼女は長いブロンドの髪をなびかせ、真っ赤な唇と鋭い眼差しを持つ美少女だった。彼女の名前はミランダ。ヒトミの新しい日常でのもう一つの変化は、彼女に関連している。


以前、ミランダはヒトミを目の敵にし、何かと理由をつけて喧嘩を吹っかけるアンチ・ヒトミのリーダーであった。しかし、あの任務を共に経験してからは、ミランダはヒトミとあまり接触しなくなった。それどころか、ヒトミの状態や状況に細やかに気を使っているようだ。


着席後、ミランダはヒトミに声をかけずに朝食を始めた。これもミランダなりの気遣いかもしれないと思うと、ヒトミはちょっとおかしく感じて、思わず吹き出してしまった。


それを見たミランダが「何がおかしい?」と問うたので、ヒトミはさらに笑いが止まらなくなり、声を上げて笑ってしまった。大広間中の視線がヒトミに集まるのを感じたヒトミは笑いを止め、「なんでもない。ただ、ミランダのおかげで、今、私は朝食を楽しめていると思うと、おかしくて」と言いながら、再び笑い出した。


「変なやつ」とミランダは少し照れくさい様子でヒトミを突き放し、再び朝食を取り始めた。


ヒトミは、目立つことを好まなかった。だから、できるだけ目立たないように日常を過ごしていた。しかし、あの事件以後、そうした些細なことに気を使うことが意味のないことのように感じられ、今は自分自身をありのままに受け入れて生きている。もっと正確に言うと、自分をありのままに受け入れるしか選択肢がなかったのかもしれない。


そうしているうちに、アンチ・ヒトミの声が気にならなくなった。そして不思議なことに、ヒトミがそれを気にしなくなると、アンチ・ヒトミの声は次第に消えていき、今では誰もヒトミのことを悪く言わなくなった。


大広間に予鈴が響き始めた。ヒトミは朝食を片付けて1限目の教室へと向かった。彼女が一人で歩くその背中には、もう孤独の影はなかった。


この後書きに、遺伝子研究の専門的な話を書こうとしたのですが、やめました。この後書きを活用すれば、本編はストーリーに集中できて、詳しい技術的なことはこちらに書けると思っていたのですが、それは逃げということに気づいたからです。


なので、本編のどこかに遺伝子研究の話を混ぜます。読者にストレスを与えることなく、技術的な説明をストーリーの中に織り込むのが、SFであると勝手に思い返し、そうしました。


ただ、このweb投稿という技術やフォーマットを利用しないのは、テクノロジー好きのSFマンとしてどうなの?とも思うので、決めですね。


一つだけ、今回の話の用語について触れると、「ヒスタルター遺伝子」は造語です。核にある塩基性タンパク質のHistoneと変異を表すalterを組み合わせたものです。

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