インダス文字(7.「北のタコ」の伝播)
6月13日、日本の欄に「古墳時代の遺骨」を加えました。
インダスの「北のタコ」の印章(注)には、「北、示しのタコ」と書いてあり、印章を逆さに見れば、タコが登場する。この事から「巨大な、北のタコが、北極星を中心に天空を回転させている」との神話が想定され、この様な神話が、インダス文明の衰退後も、インド亜大陸に残り、あるいは日本語民族の移動と共に、遥か遠い地域へ伝播したと考えられる。
以下、各国に残る「北のタコ」の形跡を例示したが、北極星にまつわる文物に加え、タコに特徴的な大きな丸い頭、8本足、足を2列に走る吸盤、変幻自在な身体の色や、まだら模様を誇張したデザインが特徴的である。
(注)A.パルポラ編纂の「コルプス」(第1巻:インド)からM-296A。天空の星は、北極星を中心に、同じスピードで旋回するが、太陽と月、また惑星は独自の動きをする。然るに「北のタコ」の8本の足で、太陽と月、木星、火星、土星、金星、水星の5惑星などを動かしたと解釈出来る。
1.インド
(1)インダス文明の遺跡から出土する印章には、時として「卍」が登場するが、これは春夏秋冬に相当する4つの位置で北斗七星を捉えたデザインであり、毎晩、(同一地点・時刻で)北斗七星を観測すると、それが北極星を中心に反時計回りに旋回し、1年で元の位置に戻る事を象徴していよう。従って「卍」は、北極星を中心に天空が旋回する事を示すものである。
(2)モヘンジョ・ダロの遺跡にはドーム型のストゥーパがあり、クシャーナ朝時代の仏教建築と推測されるが、ストゥーパは、元々、インダス文明の「北のタコ」に由来し、「人は死ぬと北のタコの一部となる」との信仰と関係が深いだろう。
サーンチーの仏教寺院・僧院跡は、マウリヤ朝のアショーカ王治世下(紀元前3世紀)に建造が始まり、11世紀までかかった。正門に鳥居の様な門構えがあり、そのストゥーパは、インダス文明の流れを汲むもので、万物の旋回・流転の源たる「北のタコ」を象徴するだろう。ストゥーパの周囲には、垣根の様な円形の囲いがあるが、そこには地面と平行に「タコの足」の様な管が、上段・中段・下段の3本、円形に走り、特に第2塔の「欄楯」の模様は、まるでタコの足に吸盤を書き加えた様である。
アマラ-ヴァティ-大塔(アーンドラ・プラデーシュ州)の復元図を見ると、ストゥーパの中腹を巡る様に、勲章の形の「花綱」が同じ高さに連なり、並んでいるが、タコをモチーフにした図柄と見られる。
この様なインドの古代のストゥーパや鳥居には、インダス文明の「北のタコ」の神話を理解する設計士が貢献したのだろう。
(3)ヒンズー教の世界では、シヴァ神、ドゥルガー神等、多数の手や腕を持つ神が知られるが、「北のタコ」の8本足の影響だろう。
2.南西アジア・東南アジア
ヒンズー教や仏教の寺院には、ハンドベル形の尖塔が見られ、権威や権力の象徴「北のタコ」がモチーフと見られる。中央の塔の先端に北極星がある、との発想だろう。(ずんぐりした塔なら、リンガとも解釈できようが、これとは別物)
(1)スリランカ
スリランカ仏教発祥の地、アヌラーダプラで、マハヴィハーラ寺院のルワンウェリセーヤ仏塔。
(2)ミャンマー
ヤンゴンのシュウェダゴン・パゴダは、金色の、先の尖った巨大な仏塔として有名だが、天空を旋回させる「北のタコ」の形で、底面がタコに因む8角形。また北方のパガンには、2200もの仏教寺院やパゴダが散在するが、先の尖った仏塔の場合、「北のタコ」を象徴するだろう。
(3)タイ
バンコクのワット・アルン(暁の寺)。アユタヤ遺跡には、大きな尖塔が点在し、「北のタコ」と解釈可能。
3.中近東
イスラム教の寺院 (モスク)には、イスタンブールのアヤ・ソフィアやブルー・モスクの様に、中央に大きなドームがあり、何本かの細い塔 (ミナレット)がこれを囲む事例があるが、「北のタコ」のモチーフが基底にあるとも考えられよう。
4.ギリシャ
(1)エーゲ海のキクラデス文明は、ミノア文明より古いとされるが、円形に「首」のついた、タコの頭の形のオブジェ、通称「フライパン」(Cycladic frying pan)が出土している。表面には「北のタコ」がモチーフと見られる、抽象的なデザインが多い。
(2)ミノア文明でも、タコをモチーフとしたデザインが良く知られている。
(ア)土器の壺
タコの派手な図柄を好み、大きな目のタコが、頭部の両脇で腕を高く振り上げた姿の壺が有名。頭部の先端が、冠状に3つの山になった事例が散見されるが、高い地位を表すのかも知れない。頭部が、細長くデフォルメされた物もあるが、ハチの胴体にタコの8本足を合わせた「タコハチ」で、尖った尻尾が北極星を貫くのだろう。
(イ)粘土製の棺 (ラルナックス)
遺骨や遺灰を収める棺で、洋風の風呂桶(bathtub)に形が似ている。散見される、タコのモチーフの派手な図柄は、死者が到達するとされた「北のタコ」だろう。
(ウ)クノッソス宮殿の玉座
この玉座の背もたれには、(銅鐸の双耳の様に)上部中央、また左右に計9つの山形が波打ち、「北のタコ」のデザインと見られる。上部中央の山形を北極星に見立てれば、玉座の左右のグリフィンは、インダスの「北のタコ」の印章の、左右の一角獣に相当するだろう。
(3)線文字Aにおける北極星の略号 [ ] をTA-KOと読めば、記号(A544)は「北のタコ」と読める。更に[ ]を含む合成記号については次の通り。
記号(A534):[ ] の上にDU(*51)を書くので、DU-TA-KO(酢ダコ)。
記号(A556):[ ] の上にMA(*80)と書くので、TA-MA-KO (たまご)。そのつもりで記号を見ると、左右に割れた卵から雛が登場する漫画である。
記号(A564):[ ] の上にKU(*81)と書くので、TA-KO-KU(他国)。この場合、[ ]がクレタ島、「く」が外来者を表すのだろう。
記号(A525): [ ] の下にE(*38)と書くのでKO-TA-E (こたえ)。構図が漢字「答」に良く似ている。
この様に [ ]をTA-KO (タコ)と読むと、関連の合成記号がうまく読めるので、「北のタコ」の神話がミノア文明にも伝播していた事が窺われる。
(4)ミケーネ時代のトロス(ハチの巣型)墳墓は、内部の空洞がタコの頭を模している、と推論できよう。イタリアの研究者Lucia Albertiは、「The Funerary Meaning of the Octopus in LM IIIC Crete」 (Studies in Mediterranean Archaeology for Mario Benzi, BAR International Series 2460, 2013)の中で、ミノア文明においてタコのデザインの壺が多数、墓地から出土する事から、葬儀と関係の深い象徴性を見出している。この論文には、ピュロス(Pylos)の「ネストールの宮殿」のメガロンの床の写真が掲載されているが、王座のすぐ前の床にはタコが描かれており、権力とも関係が深いと見られる。
(5)「特別展 古代ギリシャ - 時空を超えた旅-」(展覧会図録)(2016年。東京国立博物館ほか編)から、展示品130番は、ミケーネの円形墓域A(4号墓)で出土したタコのデザインの金製・装飾板(アテネ国立考古学博物館所蔵)。同じものが、53枚出土している由。クレタ島から輸入されたものと推測され、「死後、人の魂は、北のタコの一部になる」との神話が彷彿とする。また展示品108番、金の装飾版(マギラス墓地ほか出土。ピルゴス考古学博物館所蔵)3点は、2つのオウムガイを組み合わせたデザインとされるが、結果的にタコの姿である。
(6)古代ギリシャの土器や建物の装飾に紋章、アンテミオン(Greek anthemion) 、乃至 パルメット ( Palmette)は「北のタコ」に酷似しており、図案を継承したものだろう。アレクサンドロスの東方遠征後、この紋章は、広くヘレニズム諸国に伝播した。例えばセレウコス朝シリアの東の果て、アフガニスタン北部のバクトリアでは、アイ・ハヌムの遺跡から、ゼウス像の左足が発見されており、サンダルに、この紋章がタコの原型を留めた形で彫られている。
5.キプロス
キプロス西部、海岸沿いのレンバ(Lemba, Lempa)の銅石器時代(紀元前3500年~前2500年)の住居跡が、エジンバラ大学により発掘・研究されている。元の姿が復元されており、外装や内装として、黄色い壁に赤い塗料で、幾何学模様が描かれているが、これは日本の装飾古墳の内部に酷似する。
6.中国
(1)二里頭文化
殷王朝に先立つ夏王朝説もある中国の二里頭遺跡(紀元前1750‐前1530)から出土する青銅牌飾には、逆さのタコの様な青緑色の魔除けがあり、「北のタコ」と解釈可能。インダスの印章で言えば、世界四大文明「インダス文明展」(2000‐2001年)の図録の印章(341)左上に登場する逆さのタコのイメージである。
また宮殿の中で王が、家来の北の方角に座ったので、「北のタコ」を意識した文化と見られる。
(2)寺院建築
(ア)パゴダ(八角塔)
中国の古い寺院等に見られるパゴダ(八角塔)は、元々、インドの古い仏教建築のストゥーパ(Stupa)に源流があり、仏教の中国伝来と共に、この様な建築様式が中国で発展したと見られている。この場合、八角塔の形は、北極星を中心に天空を回転させる「北のタコ」の発想から来ており、やはりインドから中国に伝わった可能性があろう。
(イ)天壇公園(北京)
建造は明代。北極星崇拝の発想から設計され、特に祈年殿は「北のタコ」を意識している。建物の周囲の白い階段には、無数の白い突起物が等間隔に並ぶが、「北のタコ」の足の吸盤を象徴するもので、日本の前方後円墳の周囲に、等間隔で配された円筒型埴輪に相当しよう。
(ウ)この他、中国の寺院の屋根が、水牛の角の様に左右対称に上向きに反り、左右の突端に、タコの足状のスパイラル装飾があるのも符合する。
(3)八卦
八卦は、中国の古代から伝わる易から生まれたもので、その方位説によれば、万物の根源たる太極を中心とし、そこから東西南北を含む8方位に分かれる由。太極のルーツを「北のタコ」の頭と考えれば、8方位は、8本の足に対応するだろう。
(4)漢字
「北のタコ」の神話は、漢字に次の様な影響を及ぼしている。
〇12支の「子」に関し、初期の甲骨文では、インダス文字のNA/NE、或いはコブラ(南アジアでナーガ)の姿だったが、甲骨文の後期、また金文では「北のタコ」を表現した。戦国期以降、発芽した植物の「根」となる。
〇「北」は、タコの足を象徴する「八」を先ず書き、その左右に目を書き加えてタコを表現した可能性あり。
〇「天」に関し、甲骨文字「天」の字源は「北」の左右を一本化し、上に「頭」を書き加えたものなので、「北のタコ」を意識していよう。
7. 日本
(1)古代の鏡
(ア)「画文帯仏獣鏡」では、中央の紐を通す、つまみに相当する鈕の周囲に4つ隈取りされた目があり、その下の円周上にタコの足の様な印が点在。タコが、鏡の上下に一匹ずつ描かれている様に見える。
(参考)辻田淳一郎「鏡の古代史」(角川選書。2019年)。
(イ)「内行花文鏡」は、円弧を多用する幾何学的な文様で、特に円を8方向に等分するデザインで知られるが、「北のタコ」と解釈可能。すなわち中央の「つまみ」がタコの頭で、紐を通す穴が目に相当する。ここから「北のタコ」が天空を表す鏡の装飾面の8方向に(水かき状に)足を延ばし、星空を回転させていよう。つまみの鈕は、北極星の象徴かも知れない。
曾布川寛は「漢鏡と戦国鏡の宇宙表現の図像とその系譜」の中で、内行花文鏡に関し、中国の宇宙観を示すものとし、北極星を中心とするデザインである旨論じている。この論文は、糸島市立伊都国歴史博物館の常設展示録や大阪府立弥生文化博物館の説明文に引用されている由。
(ウ)内行花文鏡が中国で登場したのは、紀元前1世紀から紀元1世紀、中国の前漢から新を経て、後漢に至る時代で、弥生時代の後期から末期に相当する。内行花文鏡は、日本の古墳時代(4‐6世紀)の遺跡から発見されるが、デザインの背景に「北のタコ」の神話があるとすれば、ミノア系など日本語グループが中国から倭国に持ち込み、また現地で生産したのだろう。彼らの渡来は、弥生時代の遺跡から新(紀元9年~24年)の貨幣が発見される事から、新から後漢に移行する時代が想定される。
因みに新については、創立者、王莽の政策に平等主義的な色彩がある点で、インダス文明やミノア文明等の「日本語文明」に通じるところがあり、王莽自身やその支持者が、日本語グループの強い影響下にあった可能性があろう。
(2)銅鐸(銅タコ)
銅鐸の由来には、古代の儀式用の鐘など諸説あるが、地中海東部の古代文字やインダス文字が、日本語に解読できる事に鑑み、銅鐸の左右に「目」(孔)、また外周にヒレがあり、紋甲イカ等の軟体動物を思わせる形なので、「北のタコ」の一部となった、先祖の象徴だろう。
(ア)首長や王者の頭
インダスの印章K-43A等から、「北のタコは、逆さに見る」事とされている。然るに銅鐸を上下逆さまに見れば、首長や王者の頭が登場する。すなわち左右の「型持の孔」が両目。シルクハット状に上部へ伸びる部分が、冠を被る頭。底部に来る「紐」の孔が、口。紐の半円形部分に、幾重にも描かれる「同心円」は、ヒゲだろう。
この様に、逆さに見た銅鐸は、冠を被る人の頭に酷似するが、島根県の加茂岩倉遺跡の銅鐸の例では、左右に「双耳」が付いており、銅鐸を逆さにすると、ちょうど両耳の位置に来る。更に、両目から上のシルクハット状の部分には、太い縞模様が「王」あるいは「出」の字型に走るが、新羅(前57-935年)の「出の字」型の冠に似ている。
(イ)双耳の数と、イカ・タコの識別
(a)加茂岩倉遺跡の銅鐸の場合、外周の「双耳」は、左右に一対あるか、全くない物が多いが、出土地により、二対以上、等間隔で施される事も多く、その場合、タコの足の付け根であり、2列に走る吸盤を表していよう。因みに「近畿式」では、最も顕著で、9箇所。「三遠式」では、6箇所。然るに「双耳」の数が多いほど、銅鐸は「北のタコである」根拠が強くなり、逆に少なければ、イカに近くなろう。
(b)青銅器時代に、クレタ島やキプロスにいた日本語族は、ミケーネなどギリシャ人の兜飾りに着目し、彼等を「イカ」と略称した形跡があるが(注)、島根県では、銅鐸を「タコ」でなく「イカ」に似せ、ギリシャの戦士の頭部に仕立てた、と解釈可能。
(注)クレタ島から出土した「ファイストスの円盤」には、派手な頭飾りの若い男の絵文字が頻繁に登場するが、音価が「I」。ミケーネ人は、当時、アヒアワと呼ばれていた。(ホメロスの、Achaians)
更に、キプロスのアマサス出土の、黒い大理石の石板には、ギリシャ文字、キプロス音節文字の双方の記述があり、キプロス音節文字を日本語として解読すると、ギリシャ語の記述と整合的である。然るに日本語の記述の中で、ヘラクレスに言及し「イカ野郎」と呼んでいるが、ギリシャ人の言い換えだろう。
(ウ)紋甲イカ形は、妥協の産物
以上から、銅鐸が、タコとイカを合成した様な、紋甲イカの形なのは、ヤマト系と、イズモ系、双方の妥協の産物と見られる。銅鐸をタコ、イカ、何れに似せるかは象徴的な問題であり、作者の立場は、双耳の数に反映されただろう。
(エ)表面の絵
銅鐸には、動物や昆虫、稲の脱穀、狩りの場面や家などが描かれた物もあるが、場合により象形文字風のメッセージを兼ね、サギが2匹いれば「先に」等と読んだ可能性があり、研究と解明が望まれる。
(3)甕棺・陶棺
大野晋が「弥生文明と南インド」の中で指摘する様に、弥生時代の甕棺は、南インドの巨石文化時代の甕棺と形が似ており、双方ともインダス文明の信仰で、死者の魂が到達するとされた「北のタコ」の卵を表すものと解釈できる。
また古墳時代後期の陶棺は、脚が2列16本、3列30本等と、細長い芋虫の様な形であり、南インドの古代の陶棺と酷似するが、双方とも「北のタコ」の足を象徴し、多数の足は吸盤だろう。
(4)古墳
(ア)四隅突出型墳丘墓
山陰地方に見られるが、「北のタコ」を簡略化した形と考えられる。
(イ)前方後円墳
前方後円墳の形は、銅鐸の場合と同様の論理で、天皇制を打ち出す際の、ヤマト族とイズモ族の妥協の産物であり、紋甲イカの形にしたと推測される。
この形は、太陽を信仰する立場なら、太陽から光線の降り注ぐ姿。北極星を信仰する立場なら、次の通り「北のタコ」の簡略形と解釈しただろう。
〇 前方後円墳の周濠(堀)が海で、石室のある後円部が、タコの頭。石室は、北極星の位置にある。左右のくびれ部の「造り出し」が、タコの目。後円部の中心から同心円が幾重にも描かれ、北極星を中心とした宇宙の回転を表す。
古墳に並ぶ埴輪は、口の広い円筒器台、円筒壺、円筒埴輪が特徴的だが、タコの足に並ぶ吸盤を表している。葺石はタコの肌。
〇 堺市の大仙陵(仁徳天皇陵)に関し、周辺の航空レーザー測量図では墳丘の形が立体的になるが、後円部を下にすれば、まさにタコの頭が登場する。二重濠の周囲に9~10点在する小さな円墳や前方後円墳は、銅鐸の「双耳」に相当し、「北のタコ」の足だろう。
「人は死ぬと魂が天に上り、『北のタコ』の一部となる」との信仰が窺われるが、「北のタコ」として北極星の向こう側の、巨大な宇宙船の様な物を想像したに違いない。
〇 神戸市の五色塚古墳は、兵庫県で最大の前方後円墳で、丁寧に復元されている。淡路島を望む台地にあり、海峡が良く見渡せる。上部の周囲に鰭付円筒埴輪が整然と並ぶが、一定間隔で、背の高い朝顔形埴輪が置かれた結果、その列には規則的な凹凸があり、タコの足の吸盤を彷彿とさせる。葺石は、まさにタコの肌を表現したのだろう。
(注1)古代エジプトでは、その昔、ナイル河の上流域と下流域を別々の王朝が治めていたが、その後、統合され、新しいファラオの冠は、2つの王朝の王冠を合体させた形となった。
(注2)松木武彦編「古墳入門」(講談社。2019年);「図説 日本の古墳・古代遺跡」(学研。2008年)
(ウ)八角墳
古墳時代の終末期(7世紀半ば)には、正八角形の古墳が造られ、多くは天皇陵である事が知られている。その由来に関し、道教を含む中国の思想に求める説が多いが、646年に薄葬令が出され、前方後円墳が簡略化された後、天皇のために「北のタコ」の神髄を表す八角墳が築かれたと考えられる。
(エ)装飾古墳
装飾古墳の壁画には、赤、白、黒などで不思議な模様が描かれているが、モチーフは「北のタコ」と考えれば理解しやすい。すなわち火星人の様な、双脚輪状文は「北のタコ」、円文(同心円)は「北のタコ」の足の吸盤、蕨手文は丸まった足先、連続三角文は、足に連続する吸盤の紋様だろう。
明治5年に発見された石棺を模写した「石棺正面図」では、両目の大きく赤い、海坊主の風情で石棺が登場するが、やはり「北のタコ」と推測される。
(参考)キプロスの西海岸、レンバには、銅石器時代(紀元前3800-前2500年)の円形の建物が再現されているが、外周や内側の壁は白が基調で、赤で装飾古墳に通じるような模様が描かれている。
(オ)古墳時代の遺骨
古墳時代から発掘された遺骨には、赤い塗料が頭骨に塗られているが、死後の世界で「北のタコ」の一部となる事を想定したものだろう。
(5)神社
稲荷神社でキツネの咥える鍵は、北斗七星を表すと考えられるが、これは前方後円墳の鍵穴(北極星の周囲の星空)にマッチし、北極星の位置を解き明かす鍵だろう。
神社の屋根の破風板の妻飾り「懸魚」は、古代ギリシャの墓石等の飾り「アンテミオン」に酷似するが、アンテミオンの場合と同様、逆さにしたタコのデザインであり、様式化された「北のタコ」と考えられる。左右に伸びる「鰭」は、タコの8本足を表すのだろう。
奈良県の弥生時代の「唐古・鍵遺跡」には、絵画土器の図から復元した楼閣が池の畔にあり、屋根の四隅が、巨匠ダリの口髭の様にスパイラルに伸びているが、おそらく(北の)タコを表現したもの。これは丸亀の金毘羅宮の灯篭の形に通じるが、ここではタコのモチーフが、祭りの神輿や毛槍にも登場する。
(6)儀式
「即位の礼」の際、天皇の立つ八角形の台座は、権威の象徴「北のタコ」を表すものだろう。
(7)仏閣
日本で寺のシンボルとされる卍は、インダス文明の印章にも登場するが、元々、北極星を中心とする天空の回転を表し、4枚のハネは、四季折々の北斗七星の姿を表すと見られる。「人は死ぬと、北のタコの一部となる」との古来の信仰と関係が深いのだろう。
(8)凧
空に舞うKITEを何故、日本語で「凧」と呼ぶのか定かでないが、遥か彼方の宇宙に漂い、北極星を中心に星空を回転させる「北のタコ」を連想しつつ命名した可能性があろう。
8.中南米
(1)長く変形した頭部
マヤ文明(中米)やインカ文明(南米)では、幼児の頃から頭を布で覆う事により、頭部を長く変形させていた。これが支配階級の風習なら「北のタコ」に似せるのが目的だろう。
この様な風習は、旧大陸でも知られており、例えば、ヘレニズムに続く時代にインドの北西に登場したクシャン朝で、王族(カニシカ王等)の肖像から判明している。
(2)アステカ文明
メキシコ国立人類学博物館の所蔵する、円形の「太陽の石」(Piedra del Sol)はアステカ文明由来で、紀元1500年代のものとされるが、底部に足の多数ある軟体動物が描かれており、逆さにすれば足は8本となりタコに見える。これは北極星を中心に天空を旋回させる「北のタコ」に合致しそうであり、インダス文明の神話がアステカ文明へ伝播していた可能性があろう。
(3)マヤ文明
マヤ文明では、20進法を用いた。暦は、長い暦と短い暦からなり、長い暦は、20(日)×18(月)=360日に、余分の5日を加えて1年を数えた。各日は、ナフアレス(NAHUALES)と呼ばれ、それぞれ頭の四角い、3本足のタコの様な、アイコン/イメージで代表された。四角い頭の中は、相異なり、創造、呼吸、夢など、様々な概念を象徴した。
9.「北のタコ」忘却の理由
この様にインダス文明の「北のタコ」神話は、ミノア文明の壺や古代ギリシャのパルメット、中国の八角塔、日本の内行花文鏡、銅鐸、甕棺・陶棺、前方後円墳などに「タコ」のイメージとして継承されたと見られる。しかし「タコ」を「北」の概念と結びつけた「北のタコ」を継承する文物は、発見されていない。その理由は、次の通り。
(1)古代の鏡、銅鐸、棺、古墳等に「北のタコ」の痕跡が見られるとすれば、北極星信仰の表れだろう。北極星信仰と関係の深い妙見菩薩は、7世紀頃、高句麗、百済からの渡来人が伝えた由だが、平安時代になると、北極星信仰は禁じられた模様であり、前方後円墳も造られなくなり(646年に薄葬礼)、「北のタコ」も忘れ去られた。
実はイズモ・ヤマト問題の根源に、北極星信仰と太陽信仰の対立があったが、6世紀に仏教が公に取り入れられた頃から、過去の対立の記憶を呼び覚ますとして「北のタコ」の話はタブー視され、隠蔽された可能性があろう。
(2)北の方角に敵対する民族や勢力がいた場合、「北のタコ」を崇拝すると、北の方角自体に畏敬の念を抱くので得策でないし、北方に位置する敵性民族や勢力がこれを察知すれば、精神的優位性を持たせ、あるいは挑発する可能性があるので、敢えてトーンダウンしたものと推察される。
すなわち日本語の祖語を話すグループが、インダス河流域からクレタ島に移動したら、北方のギリシャ本土に好戦的なミケーネ人がいたので、権威の象徴としての「タコ」のイメージに絞った。また中国では、北方に脅威となる騎馬民族等がいたため、「北のタコ」神話は、八角形の重用にすり替わった。
(3)タコは、海岸で壺を使い、食用に捕まえる卑近な軟体動物。墨を吐き、身体の色を変えつつ逃げるし、公衆の面前で干物にされるイメージがあり、崇拝の対象として不適当とされた。
従って日本で「北のタコ」は隠蔽され、タコの足の数の「八」だけが聖数として定着し、ヤマタノオロチ、八咫烏、八幡、八紘一宇などの形で伝承された。その結果、「八」が何故、聖数なのかにつき、誰も理由を語らなくなり、忘れ去られて説明不可能となったのだろう。