最終話 春ト終。
前を歩く、少女の背。
【眠り鼠】に挑んで、負けて、彼女は“彼女”ではなくなって。
夕焼けに伸びる影、こちらを見つめる異形のウサギ、隣には包帯だらけの猫。
言葉はなかった。田畑に囲まれた畦道を、ただ黙々と歩いていた。
……いつから? どうして? どこへ?
わからなかった。わからないまま、オレは歩き続けていた。
遠くから響く笑い声、蝉時雨、泣き声に、めまいがする。
ただ、立ち止まってはいけないことだけは、わかっていた。
「貴方の帰るべき場所は」
……不意に。幼なじみの彼女が、前方を指差した。
視界の先では、遮断機がけたたましい音で鳴いている。
「……梨子、オレは……――」
「……対話なさい、歩耶。
貴方の存在と、貴方の兄と」
とん、と背を押される。いともたやすく侵入できた踏切の中。
迫りくる電車を、オレはぼんやりと見ていた。
だって、もう、どこからが現実で、どこまでが非現実なのかわからない。
……わからないよ、兄さん。
+++
いつまで経っても訪れない衝撃に、ぱちりと目を開ける。
……そこは電車の中だった。いつの間に移動したのかわからないが、それすらもはや“日常”だった。
「……チェシャ猫?」
「なに、アユカ」
ふと、傍らにいるはずの相棒の存在を思い出し、名を呼ぶ。
程なくして現れた猫を名乗る彼は、いつもの目隠しを外していて。
血のように紅い髪と、窓の外の夕焼けを映したような橙色の瞳が、真っ直ぐにオレを射貫く。
――どこかで見たことのある少年だと、思った。
朧げな記憶の糸を手繰り寄せる。そうしてひとつ、思い当たった。
……幼なじみの友だち……篠波藍璃が見せてくれた、失踪した少年の写真に。
「……夕良……緋灯……?」
ガタンゴトン、と電車が揺れる。
猫はふわりと微笑んで、首を横に振った。
「……そうだけど、違うよアユカ。……オレは、地球に遺った夕良緋灯の残留思念。
消えるだけだったオレを……【眠り鼠】が存在させた」
この世界から消え去るよりも前……遠い過去で、交通事故に遭ったヒアが遺した、負の感情のかたまり。
水分が蒸発するように消えていくはずの彼を、【眠り鼠】は自分の手駒として残そうとした。
「……でも、オレは……この世界を壊そうとする【眠り鼠】とは、わかりあえなかった。
チェシャ猫は……夕良緋灯は、この世界を愛していたから」
だから、アユカに力を貸したんだ。そう言って、チェシャ猫は寂しげに微笑んだ。
そうか、とだけ返して、オレは窓の外を眺める。
……きっと、オレを非日常へと導いた【白の女王】もチェシャ猫と同じなのだろう。
ぼんやりと考える思考回路は、幾分かまともになっていて。
ガタンゴトン、と電車が走る。
夕空が作る影が、車内を埋め尽くす。
黒いウサギがこちらを見ている。見ている。見ている。
『アリス、アリス、もどっておいで』
『アリス、アリス、かえらないで、あそぼうよ』
黒いウサギがカラカラ嘲笑う。嗤う。微笑う。
……けれど、向かいに座っていた猫が、緋色の剣を振るってウサギたちを追い払った。
「……アユカは渡さないよ、【眠り鼠】」
夕焼けの瞳が、進行方向の反対側を睨みつける。
影が人のカタチを型取り、現れたのは……蒼い髪の【眠り鼠】。
「……チェシャ猫。どうして裏切るの?
しんでよ、アユカ。この世界を壊してよ。オレを拒絶した、この世界を……――」
呪詛のような言の葉が、真っ赤な車内に響き渡る。
それでも……オレは。
「【白の女王】が、このチカラをくれた。チェシャ猫が一緒に戦ってくれた。……梨子が、助けてくれた。
……お前の創る非日常には、もう戻らない。たとえ兄さんが……帰ってこなくても」
脳裏をよぎる、幼なじみの少女。
オレのために命を捧げ、存在を変え、そして背を押してくれた、そんな彼女に報いるために。
振り払う、兄への想いと金属バット。それを見た【眠り鼠】は、嫌そうに顔をしかめた。
「……きらい。きらい。きらい。
きみもオレを拒絶するの? みんなみんなきらいきらいきらい!!
どうして!! 死んでよ壊してよ壊れてよこんな世界なんか!!」
彼の絶叫と共に、カゲウサギたちが現れる。
無尽蔵に湧くそれらをバットで殴り倒しながら、オレは【眠り鼠】へと声を張り上げた。
「お前に何があったのかは知らない!
だけど……だからって、世界を壊していい理由になんてならない!!」
「うるさい、うるさい、うるさい!!
非日常の中でどろどろに融けていなくなっちゃえばよかったのに!!」
泣き叫ぶ、【眠り鼠】。けれど、カゲウサギたちの襲撃を掻い潜り、彼の目の前にチェシャ猫が躍り出る。
「……ッ」
「……もう、やめよう、【眠り鼠】。……いや……。
……《夜》」
チェシャ猫は【眠り鼠】の真っ黒な手を握りしめて、祈るように呟いた。
「もうやめようよ、こんなこと。世界を壊したって、誰も救われない。……《夜》の、ココロだって。
それに、アユカは殺せない。……防衛機構のことは、もう理解したよね?」
「……それでも、そうだとしても……っ」
「《夜》。もう、夢から醒める時間だ。
君の本体は長い長い眠りから醒めて、オレたち残留思念も消えて、君は元の……在るべき場所に、還らないと」
防衛機構。桜木 梨子。
彼女がいる限りオレを殺すことはできないのだと、猫は【眠り鼠】に語る。
……オレが兄を探して非日常に身を置いて命を狙われ続ける限り、彼女はその命をオレのために使ってしまう。
(もう……あんな想いは、嫌だから)
「……【眠り鼠】。もうお前の甘言には乗らない。
梨子のためにも……オレは、前に進むよ」
バットを突きつけてそう宣言すれば、【眠り鼠】はひゅっと息を呑んだ。
途端にどろどろと溶け出す、影でできた彼の体。
涙で揺れる深海の瞳が、どうして、と呟いた。
「どうして……みんな、みんな、オレを……拒絶、するの……?」
「……オレも、アユカも、みんな……この世界が好きだから。
《夜》だってそうだよね? ……大切な世界が、あるんだよね?」
「そ、れは……っ」
……それは、【眠り鼠】の本体がいる世界……異世界なのだと猫は言う。
彼の言葉にたじろぐ【眠り鼠】。その存在が、ゆらゆらと揺らぎ始めた。
「もう、起きよう、《夜》。悪い夢から覚醒めよう?」
手を差し伸べた猫に、彼は小さく頷く。
途端に溢れ出す柔らかな光。オレは思わず猫を呼んだ。
「チェシャ猫」
「……アユカ、ごめんね。さよならだ。オレはこの人を連れて行かなきゃ」
「さよなら、って……」
突然の別れの言葉に、頭がうまく回らない。
そんなオレの様子を見て、猫は橙色の瞳を細めて微笑んだ。
「アユカ、君との時間は楽しかった。
猫の記憶はヒアには継承されないけれど……オレに会ったら、よろしくね」
「っチェシャ……!!」
手を伸ばしたオレの目の前で、猫と鼠は光に飲まれる。
最後に見たチェシャ猫は、ありがとう、と笑っていた……――
+++
がたん、と唐突に電車が止まる。
次いで開いたドアから、オレは何も考えずにふらりふらりと電車を降りた。
夕焼けに染まる無人駅。発車のベルを鳴らして去っていく電車。
……それが過ぎ去ったあと、向かいのホームにいたのは。
「……兄さん」
遠い昔に消えた、兄……夏瀬 繭耶だった。
「歩耶」
微笑む兄が纏う白銀のマントが、夕陽にきらきらと輝いている。
だから理解してしまった。
オレたちの前にある線路は境界線。オレはこれを越えられないし、恐らく兄はこちらに来ることはないのだろう。
「……全部、夜から聞いた。オレのせいで、怖い思いをさせてごめん」
「……別に、謝ってほしいわけじゃない」
頭を下げる兄に、オレはゆるゆると首を振る。
そうだ、謝ってほしいわけじゃない。ただ……ただ、オレは。
「……元気そうでよかった、兄さん」
オレのことを忘れずにいてくれた。生きてくれていた。
それだけで、じゅうぶんだった。
「……歩耶」
ほっとした顔の兄に、オレは笑いかける。
遠くから響く、遮断機の警告音。……きっと、もう別れのとき。
「兄さん。兄さんは、別の世界でやることがあるんだろ?
それが何かはオレにはわからない。だけど……応援、してるから!」
音に負けないよう声を張って伝えれば、彼は一瞬驚いたように目を見開いて……それから、久しぶりに見る見慣れた笑顔を浮かべてくれた。
「ありがとう、歩耶。お前も頑張れよ」
遠のく意識に、兄さんの声が木霊する。
「……元気で」
「ああ、歩耶も」
なんとかそれだけを口に出して、オレは瞳を閉じたのだった。
+++
春風が吹く。
それは桜の花びらを攫って、青く澄み渡った空へと解き放った。
「歩耶」
茶色のポニーテールを揺らして近づいてきたのは、梨子。
呆れたような顔で、オレを見ていた。
「……何してるの。早く行かないと、授業に遅れるわよ」
淡々と告げられたそれに、オレはごめん、とだけ返して歩き出す。
……あれから、目を覚ましたオレは“現実”へと還ってきていた。
眼前には、心配そうな顔をした梨子だけがいて。
どれだけ呼んでも、猫は現れなかった。
夏に囚われて、非日常を彷徨い続けて、いつの間にか季節が進んでいたことにも気づけなくて。
それでも“オレ”はきちんと日常を過ごしていたようで、兄のように行方不明者にはなっていなかったようだ。記憶にはないが。
穏やかな日々。平和な世界。いない猫と鼠とウサギ。
くらり、とめまいがする。まるで、何事もなかったように進む“日常”が、逆に非日常のように感じてしまうけれど……――
「……歩耶?」
振り向いた彼女に、何でもない、と答えて足を踏み出した。
(“非日常”は終わった。
これからオレが生きるのは……紛れもない、“日常”なんだ)
もう非現実と現実の狭間を彷徨うことはない。
しっかりと大地を踏みしめて、オレはこの世界を歩いていく。
遠い異世界にいる、兄の分まで。
「……頑張るよ、兄さん」
呟いた声は、暖かな風と共に宙へと消えていったのだった。
――これは、ひとりの少年が、現実と非現実を彷徨い歩いた物語。
非日常を抜け出して、日常へと帰還した……そんな、御伽噺。
WonderLand. Fin.