かぜのさぶろうた
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
君は、自分の名前について思うことはないだろうか?
気に入っている名前、気に入らない名前、人によってさまざまだろう。いずれだったにしても、親から初めて受け取る拒否権なしの贈り物だ。
自分にとって好ましいものならうれしいが、そうでないとめちゃくちゃ厳しい。
私は下の名前が「次郎」でね。いわば製造番号2番というわけだ。そりゃ、親から見たら産んだ順番が早わかりでいいけど、個人名としては淡白に過ぎる印象も否めない。キラキラネームには程遠いし、お役所で変えてもらうことはできないだろうな。
この名前、珍しいものに出会うと、つい「おっ?」と反応しちゃうことも多くないかい?
私が昔、名前をめぐって出会ったちょびっと不思議な話があるんだけど、聞いてみてくれないかな?
あれは学校の作文の時間だったか。
テーマは「自分の家族や友達を紹介しよう」だったと思う。原稿用紙の400字以内で、身内や友人のことについて書き、指された人がみんなの前で書いた文章を読み上げる。
両親のこと、兄弟のこと、まとまった休みの時に会いに行く祖父母。学校の友達、塾の友達、連絡を取り合っている遠くの友達……様々な人が挙がったっけねえ。
そうして授業が進んでいく中、とある男子の番が来た時のことだ。
「僕は『かぜのさぶろうた』君について話します」
思わず吹き出しちゃったよ。
誰だ、「かぜのさぶろうた」って? かぜのなんて苗字は聞いたことがないし、さぶろうたとは、また時代がかった名前だ。
素直に「さぶろう」にしておけよと私が突っ込む間に、彼の読み上げが続く。
「さぶろうたは、昔からひとりでした。誰かにかまってもらいたくて、いろいろな人に声を掛けますが、多くの人は彼を無視します。それどころか肩をいからせ、体を縮こまらせ、ときには厳しい視線を投げつけ、その場を離れていくんです。
彼は彼でやらなきゃいけないことがある。なのに誰も彼の頑張りを認めてくれず、ひとりさびしく愚痴をもらすのです。だから僕は……」
ここで先生によるストップが入る。あまりに内容が後ろ向きすぎたからだろう。無難でおざなりな評価を口頭でつけられ、彼の出番は強制終了した。
――途中でやめさせるくらいなら、最初から「ポジティブなこと」だけを書いてください、とか断ればいいのに。
最初に「自由に書いてね」とのたまっておいて、この仕打ち。
暗黙の了解とやらを教えたいのだろうけど、それは怠慢と紙一重だ。教師なのだから、そこんところは文字なり言葉なりにして、はっきり言ってもらいたいところ。
だが私のいらだちは先生のみならず、作文を読んだ子にも向く。
――かぜのさぶろうたなんてでっちあげて、自分の不満を代弁しやがって。きたねえ。
ぶっちゃけ、彼はクラスで友達がほとんどいない。自分から会話を広げることがめったにないんだ。コミュニケーションを取ろうとした先駆者たちはあえなく撃沈し、彼の孤立の足元はしっかり固まったといえる。
そうして自分が報われないこと、満ち足りないことを「かぜのさぶろうた」に押し付けて、みんなにアピールしている。この回りくどいやり方は、当時の私の癇に障るものだった。
マンガとかでよくある、「ねえねえ、もしあんたが好きな子がいて……」で始まる誘導尋問に似ている。本当は自分が好きなくせに、自分と条件が近しい架空の存在を作り上げて、相手から最適な答えを引き出そうとするやり方だ。
――そんな「もしも」なんて、本番じゃなんの役にも立たねえよ」
勢い、テンション、自分が把握できてない相手の事情。それによって、たとえ答え通りに動いたとしても、〇から×まで付き放題なのが現実だ。
あれこれ探りを入れるより、素直にぶち上げて、とっととケリをつけるべき。
こんなスタンスの私にとって、彼の回りくどい周囲への非難はむかっ腹が立つものだった。
そして同時に思う。
それほどさみしいのなら、自分が構ってやろうじゃないかとね。
意気込みはすれど、私はさほどコミュニケーション能力が高いわけじゃない。どちらかというと、相手から振られた話題に対応するのが大半だ。自分から話しかけようにも、どんな話題をぶつけていいものやら。
ここは彼が何かやっているところに、ツッコミを入れる方向で行こう。
とはいえ、機会はなかなか訪れず、放課後を迎えてしまった。帰りのホームルームが終わると、彼はいの一番に教室を出てしまう。
その日もご多分に漏れず、「さようなら」とみんなが言い終わったときには、すでに教室の出口へ差し掛かっている。私も大急ぎで荷物をまとめて、彼の後を追った。
昇降口を出た彼の足取りは早く、方角も私の帰り道とは反対。
全速力で追いかけているのに、彼のゆったりとした歩みはそれ以上とでもいうのか、どんどん差が開いていってしまう。
ほかの学校、公民館、バス停も通り抜けて、周りには緑が多くなってくる。私が名前を知っているものは、もはやほとんどなくなった。周囲に生えている草木の名前も、私にはさっぱり把握できない。
ところどころで盛り上がる木の根をよけ、茂みをいくつもかき分けて、すでに後ろ姿も見えなくなった彼の後を追う。服にまとわりつく葉の匂いに、思わずせき込みかけたとき、彼の声が聞こえたんだ。
「さぶろうた!」ってね。
がさりと葉の茂った枝を手でのけると、思いがけない近さに、彼の姿があった。
切り株に腰かけていた彼は、森の木々を見上げてじっとしている。目を閉じて何かを待つ姿に、私は声をかけかねて思わず固まってしまう。
何秒ほど経っただろうか。不意に私の背後の梢たちを騒がせて、風がこの空間に舞い込んできた。
季節外れの冷たい風に、私は思わず体を抱きしめるようにして震えてしまう。対する彼はというと、髪の毛をかき上げられながらも、「おかえり」と小さく声を出した。
私には彼の舞い上がる髪でしか判断できなかったが、彼の頭上で風が巻きながらとどまっていた。
見えない手が、巻き上がった状態の彼の長髪をいくつもの房に分け、よじり上げていく。
「――そうかそうか。今日もたくさんの人を助けたんだね。えらいぞ。僕はしっかり見ているからね」
髪のもてあそばれるままに任せ、顔を上げ下げさせずに口だけ動かす彼。
いよいよ異常だと、声をかけようとした私の機先を、彼が制する。
「今日、来てくれてよかったよ。あのまま帰ってたら、命がなかったかもってさぶろうたが言ってる」
私は目をぱちくりさせて、「はあ?」とあきれた声を出す。
彼は続けた。
この世に雑草という草が存在しないように、自分は自然にあるいろいろなものに名前をつけているのだと。それによって仕事を与えているのだ、とも。
「頼みごとをするとき、『誰かやって〜』っていっても、たいていやってはくれないだろ? 『他の誰かがやってくれるはず。自分がやる必要はない』とか考えないかな? でもそれじゃ世界は回らない。
だから名前をあげるんだ。『誰々くん、これ頼むよ』って具合に。
そうしたら責任が誰にあるかはっきりする。逃げられなくなるんだ。僕はそうして仕事を割り振る係なの。メンタルケアも兼ねてね」
そうこうしているうちに、彼の髪の毛は勝手に、二房にまとまった三つ編みになっている。ほんの数センチの短いものだが、彼は指一本動かしていない。全部、風が自分でやったことだ。
「そしてさぶろうたの仕事は、みんなの悪い気を取り去ること。簡単にいえば、不幸の気配かな。体中を撫でて、こいつらを運んでいく。
でもさぶろうたにも限界があるんだ。取りこぼした分は、降りかからざるを得ない。
――ん、君の不幸もどうやら完全に遠のいたらしい。もう帰って大丈夫だよ」
私はまだ聞きたいことがあったが、彼はつと切り株から立ち、反対側の茂みへ姿を消す。再び後を追った私だけど、その背中はかき消えてしまったように、もう一分も見当たらなかったんだ。
狐につままれたような心地で、家路につく私。
すると家の前で資材を積んだトラックが停車している。見ると、アスファルトが不自然に陥没し、タイヤがそこにとられている。
のみならず、資材が私の家側の排水溝の上へ、どさどさと山積みになっていた。どうもタイヤがはまったとき、固定していた綱もろもろが一気に切れ、こぼれ落ちたのだとか。
そのひとつひとつは、大人が数人がかりになる重さ。ひょっとしたらあのまままっすぐ帰っていたら、私が資材の下敷きになった可能性もあるんだろうか。
彼はそれ以降、かぜのさぶろうたについて、話してくれなくなったんだ。