ヨルノウミに
ヨルノウミに
夜。
同じサークルに所属する、数人の仲間と海へと遊びに行こうという話になった。
ヘッドライトを上下に揺らしながら、海岸線を走る。
「はいー、到着う」
ハイテンションな先輩は、車から降りるとすぐに、煙草に火をつけた。
そろっと歩く砂の上。潮の香り。
靴を脱いで裸足の足をのせると、ほわりと足裏に砂の熱を感じ、夏の終わり、今日が一日晴天だったことを、その温度で知った。
私を数に含めるとすると、女の子は三人という中途半端な人数で。
地味な私と違って、栗色の髪にピアスの二人は、唇に真っ赤なルージュを引いている。
男の子は、そんなちぐはぐな三人の女子に対して、寡黙がちな背の高い後輩と、そして煙草のニコチンがキレはじめると、逆にハイテンションになる二つ上の先輩。
「合コンみたい」
私が呟くと、栗色の髪がふふふと笑う。出発まえ。車に乗るときに、こそっと耳打ちをしてきた。
「もちろん」
意味は気になったが、まあ、そういうことなんだろうな。
三対二。どう考えたって、私が半端。
「やっぱ、行くのやめる」
―――私、好きな人は他にいるから。
言いかけて、言葉をのんだ。
後ろの席。
私が車を降りようとすると、女の子がどんっと詰めてきて、仕方なく、本当に仕方なく真ん中に乗った。
夜の海は、怖い。
真っ暗でなにも見えない。
ガチャガチャと六個の単一電池が異様に重い、がっつり大きな懐中電灯を持たされた。他の女子二人は、スマートで細い懐中電灯を手にして、クスクスと含み笑いをしている。
「俺のと換えてやるよ」
咥えタバコの先輩の申し出を丁寧に断り、そして、カチッと灯りをつけた。
電池の残量が残りわずかなのだろうか、それはそれは私の覚束ない足元をふらふらと照らすだけ。せっかく電源をONにしたというのに、この暗闇の中、でかい懐中電灯は重いだけで、意味のないものに成り下がってしまった。
(まあいっか)
右手に重みを感じながら、波打ち際に立つ。
クツをビーチサンダルに替えはしたけれど、裾の長いロングスカートを履いてきてしまった身には、とうていこの黒い海を享受することはできない。
「こわ」
そろっと寄ると、途端に波が引いていく。
ざざあっ。
私は沈黙の海を見つめた。
後ろを振り返らずともわかるのは、二組のカップルはもうどこかへ消えてしまったということ。気配もなければ、声もしない。
この暗闇の中、きっとどこかで隠れてキスでもしているのだろう。
(あーあ、来なければ良かった)
私の好きな人は、遠いところに存在する。会ったり会わなかったりの心もとない関係は、今でも続いているのかどうかすらも、わからない。
ふと、暗い波に。白いものが、ゆらと揺れたような気がして、私は薄っぺらい光の懐中電灯を、その辺に向けた。
(クラゲ、かな)
確かに白いものがゆらゆらと揺れている。
ただ、それはすぐにも壊れたブイだということがわかった。
白いブイは波に押され、こちらに近づいては引き戻されていく。
ざざあ。
ざざあ。
波の音が、胸の隙間に入り込んでくる。
「……あのブイが、」
もし、あなただったら。
私はこの真っ暗闇の海にでも飛び込んで、取ってくるのだけれど。
きっと、恐怖は感じないと思う。それが本当に心から、心から欲するものだから。
じり、と足を一歩進めると、ざざあっと波が私の足を、攫うように洗った。
夏を忘れた海。
水は冷たく、きっと舐めたら、舌がひりつくくらい、しょっぱいのだろうな。
手を伸ばすと、ふと白いブイがこちらへと近づく。けれど、それはすぐに黒い海へと戻ってしまい、行ったり来たりを律儀に繰り返し、そして私を翻弄する。
これがもし、あなたの心なら。
溺れてもいい、必死になってでも、私から取りにいくのに。
ビーチサンダルの足に、砂が潜り込んでくる。砂を踏む足裏に、ちかちかとスパークルのように、痛みが走る。
今はまったく見えないけれど、オレンジ色のロングスカートの裾は、海水を含んで、重くなっていることだろう。
そして、それはどんどんと。重さを増していくのだ。
私のこの、手に余る、恋心のように。
手を伸ばす。漂うブイが遠ざかる。そして、ゆるく曲げていた指すらも、必死になってぴんっと伸ばした。
欲しいのだ。
あの人が。あの人の心が。
あの人に好かれたい。あの人に愛されたい。
あの人が欲しい。
あの人に。
―――奥さんがいなければ、よかったのに……。
初秋の海、その水の冷たさに身をすくませる。
「……あーあ、遠くにいっちゃった」
照らしていた懐中電灯を持つ手をおろす。
白いブイは、真っ暗闇の、波間へと消えていった。
手に入ることもなく、そしてこの指先にすら、触れることもなく。
(きっと、こんなのはダメなんだって、……そういうことなんだろうな、)
ビーチサンダルの足裏に感じた、砂を踏むスパークルのような痛み。スカートに染み込んだ重みのある海水。
この自然の全てが、白いブイに手を伸ばす私を、叱る。
私は、懐中電灯のスイッチを消した。
ここからは見えないけれど、この暗い海には今、無数の空の星が映し出されているのだろうか。
星は光。
それはそっと、私のどこかにある隙間に入り込んできては、その暗闇を照らす。
ただ。
こんな風に。
明るい光の下、生きていきたいというのに。
あの人が欲しいと思うのと同じくらいに、私は明るい世界をこうも欲しているのだ。
(はああ、難し……)
星の光を胸いっぱいに吸い込む。
深呼吸をし、腕を広げた瞬間。唐突に、その腕をぐいっと引っ張られて、私は我に返った。
「サエちゃん先輩っ」
振り返ると、背の高い方の、寡黙な後輩がいつのまにか立っていた。
「どうしたの、危ないよ。真っ暗だから、波にさらわれる」
「……大丈夫」
「なにやってんの、スカートびしょびしょだよ」
「ん、」
「ずっと、海、見てたの?」
「ん、」
「こんなに暗いのに?」
「……欲しいものがあったから」
もう少しで、届きそうだったの。
私が、力なくそう言ったら、腕を強く引っ張られた。
「戻るよ」
―――俺が、ジュース買いに行ってる間に、なにやってんだか。
後輩の呆れたような呟きが聞こえてきた。
波打ち際まで戻ると、彼は首にかけていたタオルを渡してくる。
「ほら、ビーチサンダル脱いで」
強い口調で言われて、私は言う通りにした。
すると。
彼は腰を曲げて、指を伸ばし、ころりと転がった私のビーチサンダルを指で引っ掛けてから。
いきなり、私をお姫様抱っこした。
「ちょ、鵜飼くん、なにす……」
私の手から、重い重い懐中電灯が、するっと滑り落ちた。それは重く、砂の上に落ちたはずなのに、その砂に抱かれたのか、ぽすっと小さな音をさせただけだった。
背の高い後輩はそのまま、無言で歩き出す。むうっと口を結んだ、不機嫌な唇が視線に入って、私は押し黙った。
私は観念して、そのまま彼の身体に身を委ねてみる。
ふと。
彼の肩越しに見る、真っ暗闇の海。
その中で、白いブイは、まだ漂っているのだろうか。
永遠に、どこにも辿り着かないというのに。
それでもまだ、漂っていくのだろうか。