第6話 Escape on weekday
駅を降りた俺と彼女は、一旦ホームの階段を上がり、向かいの下り線ホームへと降りた。彼女と話して、1度、いつも彼女の乗り込んで来る駅へ向かうことにしたのだ。
彼女の乗る駅は、他線と交わっており、割と拓けている。それに横浜方面へ向かう電車もあるので、移動には苦労しないからだ。しかし、いくら拓けているとはいえ、こんな朝っぱらから開いている店など、コンビニくらいなものだろう。さて、どうしたものか。
そんなことを考えていうちに、下りの各駅停車がホームに入ってきた。俺たちはその電車に乗り込んだ。なぁに、時間はある。わざわざ急行電車を待たなくても良い。俺がそう言うと、彼女も「そうだね」と快諾し、電車に乗り込んだ。
さすがに、朝の下り、しかも各駅停車だけあって、俺たちの乗り込んだ車両に、乗客は一人も居ない。俺たちは、誰も居ない車両の座席に並んで腰掛けた。
「なんかさ、貸し切りみたいじゃない?気分いいわぁ〜」
そう言って彼女は、両手を上げて伸びをした。何となく、丸まっていた猫が、欠伸をして伸びをしているようだった。とりあえず、勢いで、お互い学校と会社をサボることになった訳だが、この先、何処に行くのか全く考えていない。俺も色々行き先を検索するが、何せ連れは現役女子高生である。彼女以外、まるで接点のない、その年頃の女の子を連れて行って、楽しませる場所など、俺には見当も付かなかった。
「なぁ、何処か行きたいとこあるのか?」
「そうねぇ」
彼女は腕組みしながら考えはじめた。まるでどっかの監督のような仕草で、ほほえましかった。
「とりあえず、朝マックかな。あたしさ、今日朝ご飯食べてこなかったの。今日1日を有意義に過ごすには、まずは腹ごしらえでしょう」
そう言って彼女は、右拳を小さく挙げ、「お〜っ」と、自分で言った宣言に、自分で応えた。何故か妙に元気のいい彼女を見ていると、こっちまで元気になるような気がした。
「盛り上がっているところを悪いが、その『朝マック』ってのはなんだ?」
「ええっ!?俊介、朝マックしらないの?うっわ〜」
と、少々オーバーに驚く彼女。いや、スマンがホントにわからん。マックって言うからには、マクドナルドじゃないのか?
「まったくぅ。いい?朝マックってのは、マックの朝ご飯の事よ。マックは朝と昼じゃメニューが違うのよ。朝メニューのマックだから『朝マック』わかった?」
知らなかった。いつ行っても同じメニューだと思っていた。季節によってメニューが違うというのなら頷けるが、まさか時間帯によって、違うメニューが提供されているとは思いもしなかった。だいたい、マクドナルド自体数回しか入ったことがない。それも、娘が小さい頃、どうしても行きたいと言われ、行ったっきりだ。朝などは1度も入ったことがない。そもそも、朝入るということは、十中八九、俺1人で入ることになる訳で、マクドナルドに1人で入るなら、確実に駅の立ち食い蕎麦を食うだろう。俺がそう言うと彼女はにっこり笑ってこう言った。
「じゃあ俊介、朝マックデビューだね」
デビューって、そんな大げさな、とも思うが、最近は俺も彼女のそんな大げさな言い回しに、だいぶ慣れてきていて「ああ、遅れて来たルーキーだな」と返した。その俺の答えに可笑しそうに彼女が笑い、つられて俺も一緒に笑った。
そんなこんなで、俺たちは駅に併設された、マクドナルドに入った。カウンターに提示されてるメニューを一瞥し、サラリと注文する彼女とは対照的に、なかなか注文が決まらない俺。そんな俺を、笑みを全く絶やさず、にこやかに見つめる店員の女の子の目が、逆に『いい加減にしろ』と言っているような気がして、額に嫌な汗が滲むのを感じていた。そこへ、見かねて彼女が助け船を出してくれた。
「この『エッグマックマフィン』のセットにしたら?厚い目玉焼きとベーコンが挟んであるヤツ。セットにすれば飲み物も付いてくるし」
きっとさっきも、同じ事を店員の女の子も説明してくれたと思うのだが、何故か彼女からの説明だと、理解できるような気がする。その言葉のおかげで、何か呪縛めいた物から解放された感じがした。「じゃあ、それ1つ」と店員に告げて俺はホッとしてため息をついた。これだけ緊張するなら、絶対に駅の立ち食い蕎麦の方が良い。
程なくして、注文した品の乗る盆を片手に、俺たちは隅の方の席に座って、今日1日の行動を決めることにした。終始、妙にテンションが上がり気味な彼女は「作戦会議だね」と言いながら、ハンバーガーをほおばった。
「あたし、見たい映画があるんだ。ねえ俊介、映画見に行こうよ」
―――映画か。そういや、確かにずいぶん映画館に足を運んでいない。最近はすぐにビデオなどでレンタルされるから、映画館で見るというのがめっきり少なくなった。
「ああ、いいよ。そうだな、横浜にでも出てみるか」
「あ、良いね。元町ぶらついて、山下公園に行ったり。中華街に赤レンガでしょ、MM21で観覧車乗るのも良いなぁ。よし、決まりね」
それから、俺たちはマクドナルドで食事を済ました後、横浜方面の電車に乗り込み、横浜へ向かった。完全に一般の通勤時間帯に入ったせいか、車内はかなり混雑しており、座ることは出来なかったが、終始元気な彼女と話すことで、全く気にならなかった。
関内で降りて映画館を探し、伊勢佐木町を歩いて、目的の映画が上映している映画館に着く頃には、初回上映の15分前だった。
映画を見終わった後、俺たちは歩いて元町に向かった。歩きながら、彼女は先ほど見た映画の話題で盛り上がっていた。
「面白かった〜。ジョニー・デップ最高!超ウケるんだけど」
映画は海賊の話で、どうやらシリーズ物らしく、今観たのが3部作の完結編のようだった。俺は当然、1作目、2作目を観たことがなかったが、上映前に色々彼女から説明を聞いており、話の大筋は掴めていたので、それなりに楽しむことが出来た。彼女はこの映画の主人公がお気に入りらしい。だが、この主人公の男は、一応海賊のキャプテンなのだが、かなりいい加減な奴で、強くなくて、頼りない男なのだ。俺の持っている海賊というイメージからはかけ離れた主人公だった。顔もそれほど2枚目ではなく、どうひいき目で見ても3枚目が良いところで、一緒に行動するもう一人の男の方が、俺は明らかにいい男に見えるのだが、彼女の心を捉える要素は、どうも違うところにあるらしい。
彼女によると、最近は『顔』よりも『面白く、一緒にいて飽きない』男というのが、もてる男の第1条件なのだそうだ。そういえば、最近美人女優とお笑い芸人が結婚するケースが多いが、その辺りが原因なのだろうか。
だが、では何故、彼女は俺なんかとデートじみた真似をしているのだろう?
俺はそんな、人を楽しませたり、笑わせたり出来るような男ではない。本当に何処にでもいる平凡な中年サラリーマンである。言葉の半分も理解できない、今の若い娘など、話すら合わない。現に今だって、彼女の言葉に「ああ」とか「うん」とか、適当に頷き返すだけが精一杯で、彼女の言う『一緒にいて飽きない』という基準からは明らかにかけ離れた存在であるはずだった。しかし、彼女はつまらないどころか、終始笑顔で話しかけ、楽しげに隣を歩いている。そこに無理をしているという気配は全く無く、本当にこのおかしなデートを、心から楽しんでいる様子だった。
それから俺たち2人は、元町をぶらついた。左右にゆっくりとカーブするアーバンスプロールの石畳の道の両側には、年頃の女の子が喜びそうな、服やアクセサリー、バッグなどのショップが軒を連ねており、彼女も時折立ち止まっては、店先に出ている商品を手にとっては、鏡の前で合わせてみたり、おどけて俺に見せてみたりしていた。
それはまるで、本当に恋人同士のデートのようだった。
俺は、彼女がねだってきたら、ある程度の出費は覚悟していた。しかし彼女は、一切ねだるということはしてこなかった。確かに店内まで、俺を連れて見に行くこともあるが、合わせてみせるだけで、決して買おうとはせず、また店を出て歩き始めるのだった。
「ウインドウショッピング。こうやって合わせてみて、着たり、付けたりした自分を想像するの。あたしはそれで満足なの。別に買わなくたって、充分楽しいでしょ」
そう言って彼女は笑い、今度はバッグのショップに入っていった。振り返り、俺に手招きをする姿が、とても可愛らしく、微笑ましかった。
そんな見るだけのショッピングを楽しみながら、通りを歩いていると、ふと、彼女が立ち止まり、振り返ってこう言った。
「ねえ俊介、ちょっとベタだけどさ、プリクラ撮ろうよ」
ふと見ると、ゲームセンターがあり、入り口付近には、様々な種類のプリクラの機械が並んでいた。「コレぐらいは知ってるでしょ」という彼女の言葉に、頷きはしたものの、俺は内心怯んでいた。確かに知っていはいるが、実際に撮ったことなど、ただの1度も無い。俺は緊張しつつ、彼女に続いて店内に入った。
この店は、ビル全体がゲームセンターになっているらしく、フロアごとに設置してある機械が違うようで、俺たちの入った1階は、俗にUFOキャッチャーと呼ばれるクレーンゲームと、プリクラのみが設置してあるようだ。
彼女は一通り機械を見て回り、1つの機種を選んだ。それは此処、元町の風景がバックで映る、いわゆるご当地限定のもので、おまけに備え付けの電子ペンで、撮った写真に文字が書き込める機種だった。彼女の「コレにしよう」という言葉に、俺はただ頷くばかり。当たり前だ。側面にある『使い方』の説明を読んでも、全く理解できない俺に、決定権などあるはずがない。早くと急かす彼女の後から、俺も撮影BOXの中に入った。
「背景はコレね。文字は後から入れるから、とりあえず撮影ね。あれ?俊介、何でそんな離れてんの?もっとくっつかないとOBするよ」
数枚の100円硬貨を投入して、手際よく機械を操作する彼女の隣で、少し距離を置いてそんな彼女を眺めていた俺だったが、そう言われて彼女の隣に、文字どおりくっつくように並ぶ。腕と腕がくっついていて、非常に緊張する。なぁ、少し近すぎないか?
どこからか、『いくよ〜、ハイチーズ』という、アニメの声優のような声が流れたかと思うと、パシャ!と言う音共に、パッ!とフラッシュが焚かれ、撮影終了。程なくして、正面の画面に今撮った写真が映し出された。
「あぁ〜俊介、表情堅すぎっ!国会で謝ってる政治家みた〜い。もっとにこやかにしてよ。却下っ」
『コレで良い?』としつこく聞いてくるアニメ声に、「ダメに決まってるじゃん」とツッコミを入れながら、再撮影。2度目のパシャ!
「うっわ〜、俊介やらしそ〜、笑い方が不自然だよ。はいボツ!」
いや、笑えと言うから笑ったんだが――― そして3度目の正直。パシャ!
「ゴメン、あたし目つむった。もう一回」
もう勘弁してくれ。顔面が引きつってきた。そして4度目のフラッシュ。なんだか目がチカチカしてきた。
「う〜ん、まぁ、こんなもんかな。どう?」
画面に映し出された写真を眺めながら、彼女は俺に同意を求めた。確かに4回も取り直しただけあって、2人ともそれなりの表情が出ていた。それ以前に、俺は早くこの、2人きりの密着した空間から抜け出したくて、OKした。
それから彼女は、2人の姿の下にそれぞれのニックネームを書き入れた。
俊介とミッキー。
そして、さらに2人の姿をハートで囲んでしまったのだ。俺は照れるやら、恥ずかしいやらで、顔が熱くなり、彼女より先にBOXを出て、いつものように指で鼻をこする。それでもまだ、顔の熱は取れないようだった。参ったな。
少しして、機械から吐き出されたシートを受け取った彼女は、半分をちぎって俺に渡した。見るとそこには、可愛らしい丸文字で書かれた2人の愛称。そしてハートで囲まれ、さわやかで自然な笑顔の彼女と、隣で、まだぎこちない笑顔を向ける俺の姿があった。
俺たち2人は、店を出て、また通りを歩き出した。俺はシートを、そそくさと鞄に仕舞ったが、彼女は1枚をめくり取ると、携帯を取り出し、電池BOXを空けると、その蓋の裏にそれを貼り付けた。俺が不思議そうにそれを眺めていると、彼女はこう答えた。
「おまじない」
「何のおまじないだ?」
「ないしょぉ〜!教えたげな〜いっ、あははっ」
そう言って笑う彼女は、とても楽しそうだった。「なんだ、それ」と言う俺に「いいのー!」と言って、また少し先の店を覗きに、小走りに駆けていった。
その後、俺たちは中華街に行き、少し遅めの昼食を済ませてMM21に向かった。赤レンガに行く予定だったが、元町で充分仮想ショッピングを楽しんだので、もういいとのことだった。それより、あそこの観覧車に乗りたいのだそうだ。
MM21に向かう途中にあった電気屋に、彼女が見たい物があると言うので覗いていくことにした。そこはTVのCMでも良く耳にする、大型の家電屋だった。
店にはいると、彼女は一路、目的の売り場に直行した。そこはIpodが並ぶ携帯オーディオコーナーだった。
「ねえ、俊介、iPod買わない?」
「えっ?俺のか?」
「そう。そしたらさ、あたしがいないときでもコブクロ聞けるよ」
確かに良い歌だとは思うが、わざわざiPodを買うまでもない気がする。それにきっと、いくら説明書を読んでも、使い方が分からないだろう。
「前に青海の誕生日で買ってやったが、俺には何だかさっぱり分からなかった。無理だよ。俺には使いこなせないよ」
俺は困った顔でそう答えた。
「大丈夫、簡単だよ。もし分からなかったら、あたしが教えてあげるし。あっ、そうだ。ハルちゃんに聞けばいいじゃん。それがきっかけで、ハルちゃんと近づくことが出来るかもよ?」
と、彼女は言うが、そんなにうまくいくだろうか?
だが、彼女に言われると、何となく『それもいいか』と思えてくる。だんだんと俺も買う気になってきていた。俺は「確かに楽しそうだがな」と言いながら、並んでいる商品を手に取ってみた。値段は以前買ったから分かっている。毎日の新聞と、昼の食事以外、他にあまり金を使う事がない俺には、さして痛い出費ではなかった。
「コレ、あたしとおそろのタイプだよ」
そう言って彼女が指を指す。それは彼女と同じ、iPod nanoという、普通のiPodよりも薄くて小型のシンプルなデザインのタイプだった。確か娘に買ってやったやつもコレの筈だ。確か青海のは青だったな。俺はそう考えながら、黒いカラーの物を手に取った。
「え〜、黒ぉ〜、俊介は絶対こっちのグリーンだよ」
彼女はそう言ってグリーンを手に取った。そうかぁ?なんか若々しくないか?俺としてはあまり目立たない黒か、白っぽい方が良いのだが。
「似合うと思うよ、グリーン。なんか俊介っぽくて」
俺っぽいって何なんだ?と思ったが、何故か似合うと言われると、妙に気分がいい。俺は結局、グリーンのiPodを購入してしまった。こんな物衝動買いして、本当に俺は使いこなせるのだろうか。そんな不安をよそに、彼女は満足げに笑みを浮かべてこう言った。
「今度は、iPodデビューだね」
「今日はデビューしまくりだな」
朝マックにプリクラ。そしてこのiPod。本当に初物ばかりだ。そもそも、こんな平日の真っ昼間に、女子高生とこうやって歩くこと自体、俺には初体験なのだから。だが、いつのまにか俺は、周囲の目が、ほとんど気にならなくなっていた。こうやって2人並んで歩くことが、凄く自然に思えてくる。それは、彼女が醸し出す、不思議な魅力のせいなのかもしれない。何故、彼女はこうも自然に、歳の離れた俺とつきあえるのだろうか。俺には到底真似の出来ない技能である。
俺たちは店を出て、MM21に向かった。観覧車に乗る頃は、もう夕方にさしかかっており、少し茜がかった西の空が、綺麗なパノラマを演出していた。
「綺麗―――」
そう呟きながら、観覧車の窓から西の空を眺める彼女の横顔を、俺は何とも言われぬ感情を抱えながら見つめていた。やはり、今日の彼女はいつもとは少し違う気がする。きっと、部活での一件が尾を引いているのだろう。それを紛らわすために、こんな俺のような中年男とのデートなんかを演じてみたのだろう。結局、俺はそんな彼女に振り回された、アホな中年親父に過ぎないのだ。だが、それでもいいさ。なんだかんだ言っても、これで結構楽しかった。2人に何か特別な事が起こる訳では無かったが、2人でただ町を歩くだけで、とても新鮮な気持ちになれたのだから。彼女にどんな思惑が潜んでいたとしても、俺には恨む気持ちなど、これっぽちも有りはしない。それこそ勘違いなのだろう。俺はそんなことを考えながら、彼女が無言で見つめる夕日を、同じように無言で見つめていた。
やがて、観覧車が1周して地上に着き、俺たちは観覧車を後にして駅へと向かった。駅に着く頃は、もう夕方6時を回っており、帰宅ラッシュのまっただ中で、電車はかなり混雑していた。俺たちは押される乗客の波に揉まれながら、反対側のドア付近まで追いやられ、そこで辛うじて幾ばくかのスペースを確保し、手摺りに捕まって電車に揺られていた。
俺は電車の揺れるたびに、グイグイ押されるのだが、何とか彼女の居るスペースを確保しようと、ドアに手を付いて踏ん張っていた。だが、電車が大きくカーブし、車内が大きく揺れて、彼女がバランスを崩して俺にもたれ掛かってきた。ちょうど抱きついた格好になってしまった。俺は少々狼狽して、そんな動揺を隠すように彼女に言った。
「凄い込んでるな。大丈夫か?」
「うん、平気だよ。俊介が押さえててくれるから」
彼女は、俺に抱きついたままそう答えた。上目遣いに見つめる、彼女の子猫のような目に見つめられて、俺はさらに狼狽する。彼女はそのまま、俺の胸に頭をあづけてきた。
「おっ、おいおい!」
俺は慌てて体を引いた。しかし満員電車である。引くに引けない。さらに揺れる電車で後ろから荷重がかかり、それを踏ん張るために両手を前に突き出す訳で、まるで彼女を抱きしめているような格好になってしまう。心臓の鼓動が早くなっている。絶対彼女はそれに気付いているだろう。俺は恥ずかしさでいっぱいになった。
「少し疲れた。少しこのままでいい?」
俺の胸に頭を預けたまま、彼女がそう言った。俺はうろたえながら「あ、ああ」と答えてしまった。断れる訳もない。こんな状況では、俺の飛びかけた脳が、まともな思考をする訳もないが。
「今日さぁ、楽しかったなぁ……」
彼女がポツリと呟いた。それが演技だったとしても、だまされてもいいと、心から思える。そんな言い方だった。俺はこの時、どうしょうもなく彼女を抱きしめたくなってしまった。年甲斐もなく、ただ純粋に。
「ありがとう、俊介。あたしは、俊介に勇気をもらったんだよ」
彼女がゆっくりとそう言った。
「勇気?どんな勇気だ?」
俺はその言葉の意味が分からず、そう聞き返した。ここで、勇気という言葉が出てくるのが、とても不自然な気がしたのだ。何故『勇気』なのだ?
「いいの。俊介はね、知らなくてもいいの」
そう言って彼女は、俺の腰に手を回してきた。この時、彼女は少し下を向いていて、どんな表情をしていたのか分からなかった。俺は照れ隠しにこう言った。
「俺は、ミッキーから、若さを貰ったかな」
「あはは、おやじくさっ」
そう言って彼女は笑った。言わなきゃ良かった。照れ隠しに言ったつもりが、さらに恥ずかしくなった。このすし詰めの満員電車のせいだろうか。胸から伝わる彼女の頬の感触は、少し熱を帯びていたような気がした。
それから15分くらい、俺たちは無言のまま、ぴったりくっついた状態で電車に揺られていた。腰に回った彼女の手が、電車が揺れるたびに、力がこもりきつくなるのが、俺の鼓動をさらに加速させていった。
しばらくして、電車は彼女の降りる駅に到着した。俺たちは2人で電車を降りた。電車が混んでいたのと、他の理由でほてった体には、ホームで当たる風は心地よく感じられ、俺は軽い深呼吸をした。
彼女はここからバスで、俺は乗り換えて別の電車に乗って帰るのだ。彼女は何故か俺が乗るのを見送ると言って、朝降りたホームまで着いてきた。程なくして電車がホームに入ってきた。
「暗くなったから、気をつけてな」
そう彼女に声を掛けて、俺は電車に乗り込んだ。
「うん。じゃあまたね、俊介」
閉まるドアの硝子向こうに、手を振る彼女が見えた。口元に笑みを浮かべて、肩の高さで小さく手を振る彼女の姿を、俺は見えなくなるまで見つめていた。
それが、俺が見た、彼女の最後の姿だった―――
『またね』と彼女は言った。しかし、彼女に『また』は無かったのだ。
『あたしは、俊介に勇気を貰ったんだよ』
その彼女の言う『勇気』とは、俺なんかが想像できないほど、過酷で、不安な選択をするための『勇気』であることを、この時の俺は考えもつかなかった。
どうも、鋏屋でございます。
初めて読んでくださった方、ありがとうございます。
毎度読んでくださる方、大変感謝しております。
第6話更新です。これから物語は終盤へ向かっていきます。2人の今後に未来はあるのでしょうか?
最後までおつき合いくだされば幸いです
鋏屋でした。